4-46『世界を護る者』
「――久し振り、レヴィ」
というその言葉に、実のところあまり大きな感慨は抱かなかった。
彼女は両親の顔なんて、ほとんど覚えていなかったから。
別に嫌ってはいない。共に過ごせた時間なんて幼い頃のごく短い間だけだったけれど、両親のことは心から尊敬している。もう叶わないとは理解していても、もう一度だけ会いたいと願ったことが、ないと言えば嘘になる。ガードナーの血を引いている事実は、彼女にとって何物にも代え難い誇りだった。それを胸に生きている。その事実を忘れたことはない。
「ここまで来たっていうことは、そろそろ時間ってことかしら」
にもかかわらず。あるいは、だからこそと言うべきなのか。
その言葉を聞いたとき、レヴィは一切、まったくと言っていいほど心を動かすことがなかった。感情を、動感を、自ら殺したのかもしれない。
「――あれ? ちょっとぉ、何か言ってよレヴィ。せっかく格好つけたっていうのに、無反応なんて締まらないじゃない」
目の前のソレが口を開く。その声は鼓膜を揺らすことなく、頭の中に直接届いた。魔術を使っているのだろう。
そんなことを、レヴィは淡々と考えた。
聞き覚えのない声音。暖かく、柔らかで、どこか懐かしい。ソレも当然なのだろう。
聞いたことがないわけじゃない。ただ覚えていないだけなのだ。
「お久し振りです――お母様」
だから答えた。そう告げる以外に言葉を知らなかった。
目の前の女性が苦笑する。美しく流れる長髪。ガードナーの女は、みんなが同じ髪の色だ。学院長である祖母だって、若い頃はそうだったとか。
中でもレヴィは、母親の血を強く受け継いでいるらしい。
とても、よく似ていると。祖母であるティアヌ=ガードナーはよく語ってくれた。あの頃、レヴィは母に似ていると言われることが、どんなに褒められることより誇らしかった。
「えー。何それ、かったーい」
レヴィの目の前で、母の姿がそう語る。
ほとんど覚えていないけれど。それでも、ほんのわずかだけ記憶に残る母の姿と、目の前のそれは酷似している。自分も歳を重ねれば、目の前のそれと同じ姿に成長するのだろうか。
ふとそんなことを考えて、意味がないとすぐに捨てた。
「昔みたいに、ママってよんでくれてもいいのよ?」
母の姿が、愛らしいウィンクを決めてみせる。子どもとしてはどう受け取るべきか迷うところだったが、レヴィは結局、淡々と答える。
「それがお望みなら」
「……本当、大人になったものね。いろいろな意味で」
「ありがとうございます」
丁寧に、恭しく頭を下げた。敬意を持って。
その敬意が、何より両者の溝を深くするのだとわかっていながら。
レヴィは訊ねる。
「――それで、お母様はどうしてここに?」
別に、レヴィは目の前の存在が母かどうかを疑っているわけじゃない。
オーステリア迷宮の地下にいる時点で、ガードナーの係累であることはほぼ間違いないのだから。アスタたちと五人で行った迷宮探索の際、賊が入り込んでいたことにはさすがに驚いたが、この隠された最奥までが誰も来ていないだろう。あのあとセルエやアスタ、それに学院長までもが念入りに調べたのだ。上層ならともかく、下層まで侵入されていたらさすがにわかる。
レヴィは母親を覚えていない。薄く脆く儚く、もう消えてなくなってしまいそうな記憶しか残っていない。
それでも。単なる直感でも、レヴィは目の前の女性が自らの母親であると認めていた。
だから異常なのだ。
母――エリファ=ガードナーは、ずっと昔に亡くなっている。
しかも、目の前の母は――母の姿を取った魔力の塊は――まるで靄みたいに半透明だった。いっそ純度の高い幽霊と言われたほうが納得できる。もっとも、いくらなんでも目の前の女性が、魔物であるようには思えなかったけれど。
「あー……まあ、そりゃ疑問に思うわよねえ」
「お答えいただけるものと思っています」
頭を掻き、ばつの悪そうに笑う母。思わずレヴィも苦笑してしまう。
本当に。昔から、子どものような女性だった。それでも彼女はレヴィの憧れで、いつだって母みたいになりたいと願っている。今も変わらず。
「でもレヴィだって、だいたいのところはもうわかってるんでしょ?」
「ええ、まあ。お母様がここに来た理由ならば」
「ガードナーの女はオーステリアの守護者」
母親の言葉に、レヴィは小さく頷きを返す。
言われるまでもないことだった。
――ガードナーはオーステリアを守る。
そのために生きている。その使命が生きる理由だ。理由で、意味で、価値で、全てだ。オーステリアを守らないのであれば生きている意味はなく、オーステリアを守るためならば命の価値さえ投げ捨てる。
そう教えられて育ってきた。それを誇りに思って生きている。
レヴィ=ガードナーという存在の、全てがただそのためだけにある。
それを疑問に思ったことはない。不満を抱いたことも、不自由を感じたこともない。
正しく、ただオーステリアのためだけに。
それがどういうことなのか、十全に理解した上で受け入れている。義務づけられた責任ではなく、自ら選び取った使命として。
「――では、なぜオーステリアだけが守られなければならないのか」
エリファの言葉は続く。彼女もまた、オーステリアのために、言葉通り命を投げ出した人間だ。
どころか。死してなお今も、彼女はこうして迷宮に――オーステリアに縛られている。
娘であるレヴィでさえ、それは知らなかった。
「なぜオーステリア学院だけが、王国の紋章たる《逆十字》を掲げることが許されているのか。――ねえ、レヴィ。貴女は、それももうわかっているのかしらね?」
考えてもみれば、オーステリアは変わった街だ。
そもそもガードナーは、ギルヴァージル家のような貴族ではない。それに近い、あるいは部分的に勝るほどの権利を、厚遇をアルクレガリス王家から許されているものの、実際に貴族らしい行いはしているものの、厳密な定義における叙勲をガードナーの家は受けていない。
ガードナーは確かにオーステリアの守護者で、代表で、何かあれば誰もがガードナーの対応を待つ。けれど――統治者というわけではない。オーステリアは王国にもほとんどない自由都市であり、貴族領ではなかった。
統べる者ではなく。
あくまで、護る者だから。
「そこに、意味があるのですか――?」
レヴィは問う。街を護る意味など、彼女は初めから弁えている。
けれど、きっと、彼女の母の言うことは違うのだろう。
「そんなこと言っちゃって」だが、レヴィは笑った。「本当のところ、察しはついているのでしょう? 貴方は優秀だから。賢すぎて――本当は、知らなくてもよかったことさえ悟ってしまう。それは、必ずしも幸せとは言えないわね。私の言えた義理ではないけれど」
「…………」
「アスタくん――と言ったかしら? 見てたわよ。外は無理でも、街の、それも迷宮の中で起きたことなら私にもわかる。――共犯者、ね。なるほど、言い得て妙といったところかしら。その前までの貴方なら、そんなことを彼に頼んだりはしなかった。複雑な心境だわ。親として、感謝すればいいのか悪いのか」
困ったわ、とエリファは微笑む。頬に手を当て、あまり困った風には見えなかったが。
レヴィは答えられなかった。単純に、アスタのとやり取りを――この迷宮で、初めてアスタ=プレイアスという存在を認識したときの会話を、訊かれているとは思わなかったからだ。それも母親に。少し照れる。
ただ、この場合、彼女が口を開かなかったのは何も恥じらいからだけではない。エリファの言う通りだ――察してしまったから。
「ごめんね。ごめん。私の才能では、この迷宮を完全に閉ざすことはできなかったから。どうしてもできてしまう綻びに、私では手を出せなかった。それを修繕してくれたふたりには、申し訳ないと思う。……ふふ、知ってる? アスタ君の義理のお姉さん……マイアさんは、私の教え子だったんだから。彼女だけだじゃなくて、シグウェルくんも、セルエさんも、私が教えたの」
「……お母様は、学院で教師にはならなかったはずでは」
「学院でのコトじゃないわ。まだみんなが小さかった頃の話。ものすごい才能を持て余している子たちだったからね。ユゲルくんくらいかしらね、初めからしっかりしてたのは。あの子だけは、自分のやるべきことを初めから理解していたから」
「七星旅団のメンバーと、会っていたんですね……」
「全員じゃないけどね。私も、家は飛び出しちゃったけど、それでも母さんの血なのかなあ……才能ある子を見ると、鍛えてみたくなっちゃうの」
「才能……ですか」
「何、落ち込んだの?」
にやりと笑う母親。別に落ち込んでなどいない、と答えそうになって、寸前で堪えた。
ふう、とエリファは軽く溜息を零す。
「貴方だって才能ならある。それも長いガードナーの歴史の中で、おそらくは最高の才能を。断言するわ。――貴方以上の守護者は、この先の歴史に現れない」
「……」
「それをいいことだとは、必ずしも思わないけれどね。才能は、未来を決めてしまうことがあるから。縛ってしまうことがあるから」
――閉ざしてしまうことがあるから。
エリファの話は遠回しで、何を言いたいのかがわからない。
落ち着いてみせてはいるけれど、これでもレヴィだって混乱している。祖母に言われ、オーステリアの迷宮に隠された、ガードナーだけが立ち入れる下層まで訪れて。その先で、死んだはずの母親と再会して。
さすがによくわかっていない。エリファが言うほど、レヴィだって何もかも悟っているわけじゃない。
その思いが表情に出てしまったのか、それとも娘の感情など母親には初めから筒抜けなのか。エリファはわずかだけ苦笑を見せ、それから表情を急に引き締めると。
唐突に、腰に下げていた剣を抜き放った。
「――剣を抜きなさい、レヴィ。敵が得物を手に取って、反応しないなんて馬鹿げてる」
「……!」
そのとき、母が纏っていた大らかな雰囲気が根本から変質し、消えた。
剣を抜いたのは反射だった。目の前の女性霊が明確に、自らに敵意を向けていると気づいたから。母が行った突然の行動には驚いても、放たれた意志には肉体のほうが反応してしまう。
魔術師としては、きっとそれで正しい。
「――ガードナーに伝わる鍵の術式は、解放と封印の両方を司る。それを完全に扱えずして、守護者を名乗ることはできない」
「……では」
「私にできる最後のことがこれ。だから――まずは私を超えなさい。最も強かった頃の私を、今、ここで超えなさい。そうでなければ、この迷宮を封印することも、解放することもできはしないのだから」
「……お母様に、剣を向けられることがあるとは思っていませんでした」
もう、心が麻痺してしまったのだろうか。ここに来てからずっとそうだ。
どんなことが起こっても、それでいいという気分になってしまう。投げやりなような。全てが自分と関係ないかのような。
そんなレヴィに、母親はもう笑みを向けない。
「――私は、レヴィに一度、剣を向けたことがある」
「え……?」
「生んだときに、わかってしまったから。貴女が最後なんだって。貴女が――ガードナーの完成形なんだって。だから封じたの」
「封じ、た……?」
「貴女の才能を、未来を、能力を、全てを――鍵をかけて私が封じた。それを今、ここで解かなければならない」
想像さえしていなかった言葉だった。自らの能力が母親によって鍵をかけられていたなどと、いったい誰が思うだろう。
まして今でさえ、オーステリア学院の中でも最優秀の学生だというのに。
「貴女にもわかっているのでしょう? 私たちがなぜ、長い年月をずっとオーステリアで過ごしてきたのか」
す――、とエリファが構えを取る。
レヴィもまた、剣の切っ先を向けることで応えた。
「――どうしてこの世界には、迷宮なんてものが存在しているのか。本来ならあり得ないはずの結界空間が点在しているのか」
「…………」
「そう、逆。視点が違う。世界に迷宮が存在しているわけじゃない。本当ならそんなものは存在していない。というよりも――本当は」
迷宮が存在しているのではなく、ただ見えているだけだとするのなら。
それは、つまり。
「――この世界そのものが、ひとつの巨大な迷宮ということ」
「…………だと、するのなら」
「ええ、そう。オーステリアの迷宮は世界の中心。常に綻び、歪み、崩れて壊れて滅ぼうとしている世界を留めおく楔。それを維持することができるのは私たちが持つ術式だけ。だから私たちは護る者と呼ばれている。そう、名乗ると決めている。貴女はそれを継がなければならない。――いえ、そうすることを貴女が決めた。――やらなくて済むのなら、それでいいと思ったんだけれどね。だから封印まで施した。でも貴女は、ここに来てしまったから。自らの足で、ここに」
「……私は。いえ、この世界は」
「ええ。もう――保たない。かつてふたりの魔法使いが閉ざした封印は、もう壊れる寸前にまである。そのとき、この世界の全てが瘴気に満たされることになるでしょう」
このとき、彼女の中で様々なことが線を結ばれて繋がった。
迷宮で出会った魔物。七星旅団と七曜教団。魔法使い。オーステリアという学院。ガードナーに課された使命。運命の魔法使いと空間の魔法使い。
――ああ、なるほど。そういうことか。
と、このときレヴィはただ、そう納得していた。
「貴女がそれを食い止めなさい。それは貴女にしかできない。貴女はそのために生まれてきたの。世界が滅ぶ運命にあるから、貴女というガードナーが生まれたと言ってもいい」
「……はい。わかっています。これが、そのために必要なんですね」
「ええ。だから――」
だから。レヴィ=ガードナーは。
「――世界を護って死になさい」
言われるまでもない。
と、レヴィ=ガードナーは頷いた。




