4-44『可能性』
時間は少し遡り、場面は王都から移る。
暗い、けれど見通しのいい空間。二番目の魔法使いのみが自由に行き来できるという、この世のどこでもない、けれどこの世に存在する場所。
「…………痛ったぁ……」
そこで、シャルロットはそんな風に呟いた。
そんな言葉を口にできたということは、つまりシャルは未だに生きているということで、それだけの余裕があったということは、受けたダメージも大したものではなかったということだ。
結論から言えば、影の放った魔術はシャルに当たらなかった。それより前に横合いから放たれた魔術が、先に彼女を吹っ飛ばしたからだ。
ほとんど威力のない、それは風だった。ダメージはなく、ただシャルの軽い身体だけを吹き飛ばしている。着地のときに少し身体を打ったが、怪我らしい怪我は負っていない。
「魔競祭のアスタを真似てみたんだけど」
ふと、そんな声がする。このところ、シャルもすでに聞き慣れた声だ。
「うーん、やっぱり僕には合ってないなあ。彼と違って出力があるから、別に困らないんだけど」
いっそ不遜なほど自信に満ちた声に、多少の疑問を感じつつシャルは言う。
「……ウェリウス?」
「そう」金髪蒼眼の美丈夫が、常と同じ笑みで頷いた。「危ないところだったね、シャルロットさん。怪我はないかな?」
「…………」
答えなかったのは、別にいきなり吹き飛ばされた恨みのせいとか、プライドが邪魔しているからというわけじゃない。単に、目の前のウェリウス=ギルヴァージルに見える男が、本当に本物なのかどうかを疑ったに過ぎない。
シャルをこの空間に落としたのは、あの二番目の魔法使い――フィリー=パラヴァンハイムだ。シャルの《影》を形にしたのと同じく、偽のウェリウスくらい作り出しておかしくない。
細められた彼女の視線を見て、ウェリウスは「ああ」と呟く。シャルの考えに思い至ったのだろう。両手を軽く挙げ、ひらひらと振って彼は言う。
「大丈夫、僕は本物だよ。こっちの修行は終わったからね、手伝いにきたんだ。……まあ、というか問答無用で来させられたんだけど」
「……そう」
「フィリー……ウチの師匠は、若い人間にお節介するのが好きなんだ。それが余計なお世話だとしてもね。いや、わかるよ。まったく、これだから年寄りは――って痛っ」
そんなことを言った瞬間、ウェリウスがものすごい勢いで頷いた。というか、おそらくは目に見えない何かが後頭部を打ったのだろう。がくん、とものすごい勢いで頭が揺れるウェリウスだった。
いったい何をしに来たのだろう、とシャルは思う。その視線の先で、まるで何事もなかったかのように顔を上げるウェリウス。
「舌噛むかと思った……っと、さておき。こっちを見ている場合じゃないよ、シャルロットさん」
「――――」
その言葉には答えない。影が動き出していることは、言われずともわかっている。
そいつはウェリウスの存在を完全に、それこそ認識すらしていないとばかりに無視してシャルに迫る。駆け寄ってくる影にシャルは牽制の魔弾を放ったが、影は魔術さえ使わず、ただ身体能力だけでそれを躱す。
「……さて、シャルロットさん。手伝いに来たとは言ったけど、僕に何ができるわけでもない。これは君のための修行だからね。介入しても意味がないし、そもそもできるようにはなってない。だから僕が出せるのは言葉だけだ。戦いながら聞いてくれ」
「修行なんて……頼んでないんだけど……っ!」
「もちろん、ありがた迷惑だろうね。これも師匠なりの優しさではあるんだけど、たいていの場合、そんなモノは通じないことは知ってる。まあ、相手は魔法使いだ。目をつけられた時点で、運が悪かったと諦めるしかない」
滅茶苦茶な理論だ。というより、道理を無理で通している。
だが、確かにシャルが何を騒いでも喚いても、相手が魔法使いだという時点で逆らうすべがないのは事実だ。当の本人からいきなり襲われたりはしなかっただけ、幸運と考えてもいいかもしれない。
本当に。文字通りに次元の違う相手なのだ。
能力で言えば、それこそ人間が蟻を踏み潰すのと同じくらい簡単に、彼女はシャルを殺せるだろう。そんな相手なら価値観だってきっと違う。元より魔法使いたちは、揃って人格破綻者だという噂も聞いた。
それこそウェリウスの言う通り、天災に巻き込まれたとでも思って諦める以外にないのだろう。
「――ただひとつ。師匠は、その本人に達成できない試練は絶対に課さない。その見極めは誰より上手いヒトだ。まあ、そのためには本当に、言葉通りの死力を尽くしてようやくっていうくらいの難易度なんだけどね。そうすれば達成できる修行だし、逆を言えば、師匠はそれができると信じてくれている。――そして」
ウェリウスはそこで一度言葉を切った。
シャルは一応、言葉を聞いてはいたものの、その間も影は攻撃を繰り返してくる。余裕はなかった。より苛烈に、執拗に。まるでなんらかの感情を、それも決してプラスのベクトルにはない思いを抱いているみたいに。
それは敵意や害意といった、こちらに向けられるものではない。
きっと、影自身が、自らの内側に燻ぶらせている感情なのだろう。影が自分を見ているように、シャルには思えなかったから。
だが。だとするのなら。けれど。かといって。
「――わかっているとは思うけれど、その影は君自身だ、シャルロットさん。君ができることなら彼女にはできるし、逆を言えば君にできないことならその影にもできない。ただし、今の君に可能な技術なら、それを完全に、一切の瑕疵なく使いこなしてくる」
「そんなはず……ない」
使い魔の援護を借りて地面に簡易的な儀式場を構築。直接的な戦闘力に欠ける代わりに移動力のあるこの使い魔は、シャルの術式を補助することに長けていた。
地面を高速で動き回り、たとえば場の魔力の流れを乱したり、あるいは今のように限定空間を儀式場化したりと、その活躍は地味ながら大きい。
相手の術式を邪魔する。シャルの意志とは切り離されて動く使い魔が、影の魔術に介入してくれるお陰だ。だが影のほうは、邪魔された術式をあっさり捨て去ると、即座に新たな魔術を構築する。シャルは隙を見計らって攻撃をするが、その全てに対応されていた。
「わたしに、あんなことは……できない」
シャルは言う。相手はシャルが使ったことのない魔術を使うし、何より格闘技能は段違いに高い。
明らかに、自分より強いとしか思えない。
シャルロット=セイエルは――弱い。
目の前の影よりも。そこにいるウェリウスよりも。おそらくはレヴィやピトスよりも。あるいはほかの学生たちよりも。当然のように魔法使いよりも。何より――あの兄弟子よりも。
だが。そんなシャルの言葉を、ウェリウスはひと言で否定する。
「――できる」
「できるって……だから、わたしには」
「できるよ。精神論じゃない、これは事実だ。君はただやろうとしていないだけ」
「…………」
それを言われればそうだろう。確かにやろうとはしていない。
だが、それはやろうと思ってもできないからだ。望むことすべてが可能なんてあり得ない。それこそ精神論だろう。
ウェリウスにだって、そんなことは初めからわかっている。だから彼が紡ぐ言葉は、あくまで事実だけに限られた。
そこから先は、それこそシャル個人の問題だ。
「実際、その影の格闘能力はそう高いものじゃない。せしぜい護身術を嗜んでるって程度で、高いのは技術じゃなく単に身体能力だ。シャルロットさんだって、そりゃあレヴィさんたちほどじゃないにしろ、多少は鍛えているだろう? まして魔術師なら、魔力で身体能力を強化できる。だから、やろうと思えば同じ動きはできるはずだよ」
やろうと思えば。
それは、おそらくシャルにとっては絶望的なキーワードだった。
影が走る。ウェリウスの言葉に引きずられたように。
あるいは術式を阻害する使い魔の存在を面倒に思ったのか、影は一気にシャルのほうへ距離を詰めてくる。魔弾で対抗するシャルだったが、
「……っ!」
躱される。影は飛び上がり、空中で身を捻って足を振り落としてきた。
ただの蹴り――とはいえ、魔力で強化された筋力による攻撃なら馬鹿にはできない。魔術師が抵抗できるのは魔術であって、それによって強化された肉体による物理攻撃ならば、本当に生身で受けるしかないのだ。
だから、シャルは。
「――……!」
自ら、一歩を前に出た。思えば戦いの中で、自らの肉体を積極的に動かすのは初めてのことかも知れない。
身を屈め、影の攻撃をシャルは掻い潜ることで避ける。ほんの一瞬、影に動揺らしき感情が走った気がしたが、それが事実かはわからなかった。
シャルはそのまま振り返る。頭上を飛び越えていった影は、着地の隙を晒していた。だから、シャルは。
その無防備な脇腹を、思い切り蹴飛ばすことで攻撃に代えた。
吹き飛ぶ影。なんとか受け身を取って膝を突いた姿勢になるものの、その周囲はすでに使い魔が走り回った円の中――簡易的な儀式場だ。
一種の結界。魔術的に区切られた空間。場を分けるとはすなわち境界を定めるということで、線で囲うという行為はその最も簡素で原始的な手法だ。使い魔はその小さく丸い身体で転がり、その軌跡で地面に円を記した。魔術円を――最も簡単な結界を。
次の瞬間、円の真下から力が流れた。
目には見えない、たとえるなら重力や空気圧に似た力の奔流。無色のエネルギー。魔弾と似たようなものだが、その範囲は比べものにならない。
地面そのものに殴られたみたいな勢いで、影の肉体が宙に跳ぶ。だが、影はそれでも止まらなかった。空中に弾き飛ばされた、その状態で影は腕を真下に伸ばす。開いた掌が、まるで目に見えない果物を握力で潰そうとするみたいに――閉じる。
その瞬間、魔法円そのものが効力を失った。区切られた範囲に、自分が立ち入ったという事実でもって、その場所の魔術的な所有権を無に戻したのだ。
その上で――影はそのまま空中に着地した。
正確には、目に見えない足場に降り立ったと言うべきだろう。魔術師が使う単純な障壁、盾を作る魔術の応用だ。生み出された場から動かない障壁は、面の向きさえ変えれば足場として利用することもできる。
とはいえ、それをとっさに行うのは難しい。まして逃げ場のない空中に留まるなんて本来ならいい的だ。
だから影は、そこで行動を止めなかった。位置関係として上を取ったまま、これまでより強力な魔術を準備し始める。シャルの使い魔による阻害は、それが地面を動くものである以上、地面にいないモノには効果が薄まってしまう。それも狙いのひとつなのだろう。
そして。空気が、風が。冷気を帯びながら、影の周囲に少しずつ集まり始めた。
よく似た現象を引き起こす魔術なら、シャルはすでに知っている。
「……これ、は……っ!」
天災の再現――雹の魔術。暴風と氷塊で敵の全方位を囲み、ずたずたに相手を破壊する魔術だ。
しかも相手は上にいる。そして本来、雹とは上から降るものだ。
魔術は複雑だが、同時にひどく単純なイメージによって補強されるモノでもある。これが本当に《雹》の魔術であるのなら、そのイメージに近ければ近い形で再現されるほど、その効果は本当に増す。
結界を破るのは、外側より内側からのほうが簡単だ。なぜなら境界への侵入は、それ自体が相手の権利を侵すものだから。
火の魔術を防ぐのなら、単に障壁を張るより水の魔術をぶつけたほうが効率がいい。なぜなら水は、火を消す概念であるからだ。
ならば当然、雷や雹といった《天候》の意味を持つ魔術であるのなら。
平地で前に向かって撃つより、天から地に落とすほうが強くなる道理だろう。
そして直後。
魔術師アスタ=プレイアスの切り札のひとつ。
《雹》の魔術が、少女の頭上から襲いかかった。
※
「魔術の再現、か……かの《天災》も、ほかの魔術をまったく別の真珠として効果を再現するって聞くけど」
ウェリウスは思う。その差異に、彼はすでに気がついていた。
学生の中で、アスタの《雹》を直接受けたことがあるのはウェリウスだけだ。いくら魔力を制限されているとはいえ、元来の威力が高すぎる《雹》のルーンを、アスタは人間に対して滅多に使わない。魔術師が普通に持つ抵抗力程度では、この魔術を防げないからだ。
ましてあの魔競祭の試合のとき、アスタはほんの一時的に全盛期と同じだけの魔術行使を可能としていた。それを本気でぶつけてくるのだから、アスタはそれでもウェリウスなら死なないと信頼していたのだろう。誇るべきか悲しむべきかはともかく、だからウェリウスは、《雹》のルーンによる魔術の効果を知っている。
――それが、ただ威力が高いだけの攻撃魔術ではないということも。
あのとき、ウェリウスは咄嗟に魔術を使おうとしていた。八種の元素魔術全てに適性を持つ彼が、《天網式》と名づけた三種の切り札。元素魔術に関して、おそらくは史上最高の術者であろうウェリウス=ギルヴァージルだけに許された固有魔術。
八種全ての元素を一度に操り、その上で全ての元素に別々の概念を付与する壱式――因子超越統御。
八重の属性全てに対応する架空の上位生命。異界に住まい、最も純粋な概念としての元素である《精霊》を喚起、そして使役する弐式――異界包括統御。
そして、あの試合では使おうとして使えなかった最強にして最後の切り札、参式。
あのとき、もし参式が使えていれば――などという言い訳を、ウェリウスはもちろん潔しとしない。そもそもあれは使えなかっわけではない。
使おうとして、邪魔されたのだ。
ウェリウスもルーン文字に関してはひと通り調べている。だから雹のルーンが何を意味し、どんな象徴であるのかについても知っていた。
それは人間では逆らえない大自然の脅威であり、どうしようもない突然の不運だ。作物に致命的な損害を与え、実りの全てを無に返す――それがあの文字に込められた意味だった。
つまり。あの印刻は単なる攻撃魔術ではない。
あれは――本当に抵抗を許さない。魔力の結合を阻害し、魔術的な防御を対象に許さないという効果が秘められた魔術だ。
もし攻撃の対象が魔物ならば、その効果は致命的だ。魔力が結びつくのを邪魔し、空間そのものを掻き乱す。身体そのものが魔力で構成されている以上、いわば《雹》は魔物にとって防御不可能の攻撃だ。魔物は魔力的な強さではなく、単純な肉体の硬度でしか対抗できない。
また魔術師が相手なら、よほどの実力者であっても、高位の魔術は使えまい。ウェリウスが参式を発動できなかったのは、それが恐ろしく難易度の高い魔術であるからだ。雹に阻害された時点で、それこそ単純な防御魔術くらいしかウェリウスは発動できなかった。
この事実を、受けたウェリウスは当然だが知っている。だが、ほかに気づいている人間がいるかどうかはわからない。
けれど少なくとも、シャルは知っていたのだろう。どこかで《雹》の発動を見た可能性ならある。ウェリウスはそう判断した。
なぜなら今、影が再現している魔術にも、同じ阻害の効果がかかっているからだ。逆を言えばシャル(の影)は、ただ見ただけの魔術を、まったく同じ精度で再現したということになる。
この点がメロとは少し違う。彼女の固有魔術はあくまでも全てオリジナルだ。彼女の魔術再現は、結果的に生じる現象が同じなのであって、術式自体は完全に別のモノである。代用はできても、完全な代替とはなり得ない。さきほどウェリウスがやったのも同じだ。引き起こされる、その結果が同じというだけ。
だがシャルが――正確にはその影が――使っている魔術は、アスタが見せた《雹》完全に同じだ。
アスタがルーンを用いて使っている魔術を。言い換えれば術式の制御を《雹》という文字に完全に任せて使っている魔術を。
シャルは――独力で再現した《丶丶丶丶丶丶丶》ということになる。
無論、規模は劣るだろう。効力も間違いなく弱体はしている。それでも術式自体は、少なくともウェリウスでは見分けさえつかないレベルの再現度だった。
そして、あの《影》にできるということは、間違いなく本人にもできるということだ。ウェリウスもまた、フィリーが創った影と何度か戦ったことがあるから、そのことはよく知っている。
――それでも。僕の影と彼女の影では違いすぎるけれど……。
ウェリウスにとって、あの影は自分の戦力を再認識し、その運用法を考えるためだけのものでしかない。戦う相手だとさえ認識していなかった。同じだけの能力があるとはいっても、所詮は影。そこに精神はなく、つまり真っ当な魔術師なら敗北する理由がない。
シャルロットでなければ。
そもそも、こんな影は敵ですらない。
※
目の前で集中していく魔力。描かれていく術式。その効果。これから何が起こるのか――。その全てを、シャルはほとんど直感的に理解する。
もともと、彼女は《術式を読み取る力》と、《それを再現する力》に長けていた。魔法使いの弟子とは名ばかりで、実際には父が残した魔術書から独学でここまでの魔術を習得した彼女である。ウェリウス自身は知らないことだが、アスタと学院で初めて顔を合わせた際、彼の術式も寸分違わず真似られていたのだから。
それだけならば、結局はそれだけのことでしかない。いろんな魔術を他人より早く覚えられる。確かに恵まれた才能ではあるだろう。
だが、それがいったいなんの役に立つというのか。誰かの魔術を真似たところで、その練度が及ばないのなら意味がない。シャルはそんなことに価値を見出していなかったし、そもそもそれを才能だとさえ認識していなかった。
実力以上に難しい魔術は、結局のところ覚えることができない。それになんの意味がある。それは魔法使いに至れる才能ではない。ちょっと覚えが早いだけで、その程度ならオーステリアの学生はみんなそうだろう。
――理解していなかったのだ。
それはもはや、才能などと呼べるものではないということを。
与えられた、ひとつの能力――あるいはそう、機能とでも呼ぶべき次元の異能であることを。
「……っ」
正面から衝突し合った再現雹を見届けもせず、シャルは後ろへと駆け出した。
後出しで撃ち上げる形だった自分では、先んじて撃ち下ろした影の攻撃には分が悪い。威力の大半は相殺できるだろうが、それでも撃ち負ける。
ならば、せめて余波の届かないところまで逃げるべきだった。
「…………」
とはいえ。シャルはこれまで、魔術で《雹》再現したことなど一度だってない。印刻魔術を普通魔術で再現するなどという発想、それ自体を持っていなかった。
にもかかわらず、シャルは数度見ただけの魔術を完全に再現できた。それを見たときに術式を把握していたからだ。自分がそれを理解している、ということさえ自覚していないままに。
――だが、自分はどうやらそれができるらしい。
確かに考えてみれば、一度でも見た魔術なら、術式は全て覚えている。
ならば、あとはそれをまったく同じ風に再現してやればいい。
世界がどう描かれているのか。それをどう書き換えれば、どんな魔術が使えるのか。その全てを把握することができれば、極論ではあるが、可能性として使えない魔術は存在しない。
魔術師の最終目的。
――全能の神にすら至るように。
もちろん現実には不可能だろう。それは実力を越えた魔術の成功を約束するものではないし、シャルにはそこまで理解できない。
だが、少なくとも、これまで見た魔術の中ならば。あるいは、再現できるものもあるだろう。
「――……」
逃げるのをやめ、シャルはその場で立ち止まった。横目でちらとウェリウスを窺い、彼が真顔でこちらを見ていることだけを知る。
それから意識を戻した。相対する影にではなく、ただ自らの内側に。
――詠唱は不要だ。儀式もいらない。元よりそれらは、脳内で描く術式に足りない概念を補填するだけのものでしかない。
世界の描写を書き換えるのが魔術である。それは一冊の本だ。人間には理解できない言語で記された、長大で複雑な物語だ。
それを正しく理解し、読み手、いや書き手さえをも完全に騙しきれるほどの書き換えが可能ならば。
それは正しく全能だ。
ふう、と息を吐き、右手を前に挙げる。開かれた掌は砲台だ。その照準を、中空に立つ影に合わせる。狙いを定めるよう、左手で右の手首を握った。
何かを感じ取ったのか、影もまた魔術を起動し始めた。それは術式を見る限り、やはりシャルは一度とて使ったことがない魔術だろう。けれど、確かにきっと、どこかで見たことはあるのかもしれない。
さあ――書き換えろ。定められた法則を変更しろ。
行うべきは攻撃だ。ならば火がいい。あれはそのものが破壊の概念と非常に近しい。闘争の意味を持っている。戦火の狼煙を上げるのだ。
ただの炎ではつまらない。魔術師であるのなら、綺麗に澄んで、美しく煌めく、そして何者をも焼き払う最高の炎を生み出すべきだ。
シャルの掌に炎が浮かぶ。小さな火の玉。それでいい。規模なんて意味がない。そんな見せかけの火力にとらわれる必要はない。必要なのは純度だ。小さくても、それが何者をも焼き払う最高熱ならばそれでいい。
端で見守るウェリウスが、そのとき驚愕に目を見開いたことに、シャルは気がつかなかった。
ただ、言う。彼女はウェリウスを素直に尊敬している。自分以上の術者であることを認めている。そこに感情はない。ただ、そうであるという事実を、そのまま認識しているだけ。少なくとも彼女はそう思う。
だから――炎を創るのなら、真似るのは彼の魔術にしよう。
シャルは言った。言葉を放ち、魔術を放つ。
「――燃えろ」
瞬間、火炎の塊がまっすぐに飛んだ。
見た目には単なる火属性の魔弾。手のひら大の小さな攻撃。
だがウェリウスにも、相対する影にも、その火炎の脅威は理解できていた。影は反射的に、用意していた魔術を破棄し、別の魔術を作り出す。
それは水だった。水を生み出し、それを自らの前で円盤状の盾として構築した。火の魔術なら水で防ぐという、当たり前の発想。
だが――元より異常を、神秘を、奇跡を担う魔術師に、当たり前で対抗すること自体が間違いだ。
水の盾に、炎の弾が激突する。だが炎弾は水に吸い込まれて消えるどころか、逆に水の盾を焼き始める。
「……概念、魔術……っ」
呟いたのはウェリウスだ。まあ、彼でなくても理解はしただろう。《水を焼く火》なんてものは、概念魔術でなければ使えない。火の中に含まれる《モノを焼く》という概念を、あらゆる対象に強制適用する。こうなるともう、それが火であろうが空気であろうがなんであろうが関係ない。本来あり得ないことだろうと、触れたモノはみな《燃える》。
それだけの強制力を持つのが概念魔術なのだ、というより、世界そのものを騙せるほどの書き換えだからこそ、結果的にそれが概念魔術と呼ばれている。
とはいえ。それだけならばウェリウスは驚かない。同じことはウェリウスでも可能だ。実際、魔競祭で似たようなことは行った。
そもそもオーステリアの学生ならば、概念魔術の域に至った得意技のひとつやふたつ、持っていて何もおかしくない。当たり年と呼ばれるウェリウスたち以外にも、たとえば学生会の会長や副会長辺りだって使っていた。
また仮にウェリウスの概念魔術とシャルの概念魔術がぶつかった場合、おそらくウェリウスが勝つだろう。どちらがより正確か。概念魔術同士のぶつかり合いは、もはや単純な威力ではなく、質の勝負になる。その意味で言えば、アスタの使う印刻は質の上で全てが概念魔術のようなものだ。だから彼はその貧弱な魔力の割に撃ち合いに強い。どちらが異常かと問われれば、ウェリウスはアスタだと答えるだろう。それだけならば。
だが。シャルは、この魔術を生まれて初めて、一切の練習もなく、ぶっつけで使って成功させたのだ。それも元素魔術の修練の末ではなく、ごく真っ当な普通魔術として。
そんなこと、果たしてウェリウスにもできるかどうか。実際にはそれより上の効果が出せるのだから、できる必要はない。だが、おそらくは不可能だ。
元素魔術でないのなら。自身の属性に囚われず、好きな魔術を使うことができる。ならば。もしシャルが、火以外の属性も纏めて概念魔術の領域に持ち上げることができるのなら。
それはもう――ウェリウスの切り札たる《因子超越統御》を完全再現されたのとまったく同じだと言っていい。
「……シャルロットさん。君は――いや、師匠はこれを知って……?」
思わず、といった風にウェリウスは言葉を零す。その視線の先では、水の障壁を破られた影が、シャルの攻撃で完全に焼き払われていた。
概念の炎だ。それは影さえ焼き尽くす。
重ねて言うことだが、同じことはウェリウスにもできる。それもより高いレベルで。
だが、これはもはや逆だろう。ウェリウスにできることならばシャルにもできる――少なくともその可能性は持っている。そう表現すべきだ。
――むしろ、彼女にできない可能性のあるモノのほうが存在しないのではないんじゃないのか……。
そんな風にさえウェリウスは思った。
コトは、あるいは魔術にさえ限らない。さきほど戦闘の中に、格闘を混ぜてみせたように。それさえフィリーの思惑のうちならば。
本当に。言葉通りの意味で。
可能性の上で、シャルロットにできないことは何もない。
の、かもしれない。そう思った。
無論、そんなものは机上の空論である。できないことはできない。技術が足りなければ、魔力が足りなければ、知識が足りなければ。シャルにはそれができないだろう。誰だってそうだ。
だが技術があれば、魔力があれば、知識があれば。
シャルロット=クリスファウストは、あらゆる可能性に至れるだけの才能を秘めているのかもしれない。
才能がない、ということがないのかもしれない。
「…………、君は」
戦闘が終わり、ほっとひと息ついたように胸を撫で下ろすシャル。その様子だけを見ていれば、ウェリウスにとって、シャルは愛らしい学友のひとりだった。
けれど今、ウェリウスは自身が思い至った可能性に戦慄せざるを得なかった。
才能があるということは、才能の問題ではない。矛盾しているようだが事実だ。他者より秀でていることを才能と呼ぶのであれば、彼女のそれをいったいなんと呼べばいいのだろう。
完全すぎるのだ。そんなものはもう人間じゃない。それこそ、神様が創り出したようなものだった。不完全さがないということを、ウェリウスは素晴らしいことだとは思わない。思えない。
シャルの事情を、身の上を、ウェリウスは知らない。
おそらく身寄りはないのだろうとか、それでも腐らず魔術の修練を積んで、オーステリア学院でトップクラスに至ったのだろうとか。その程度を想像するだけだ。それ以上の背景は知らない。
わざわざ呼び出したのだから、フィリーはおそらくシャルの背景を在る程度は知っているのだろう。とはいえ、それを聞き出そうとは思っていなかった。必要なら本人に聞くべきだと考えていたからだ。
これまでは。
今、ウェリウスは何を措いても、遠慮などせず聞き出すべきなのではないかと思っている。
ヒトは何者にもなれる、という表現は聞こえがいい。だがもちろん、現実はそうじゃないことを誰もが知っている。たとえ魔術師ではなくとも。ヒトは何者にもはなれない。自分以外の何かにはなれない。
ならば。
もし、彼女が何者にもなり得る可能性を持つのならば。
――シャルロット=セイエルは、人間ではないのかもしれない。
「知ってた」禁止令(十一話振り二度目)。
活動報告がございます。
よろしければお読みくださいー。




