1-14『第三十層』
前方から近づいてくる足音に、レヴィは瞬間、足を止めた。
二足方向の足音――魔物ではなく、それは人間の歩く音だった。
隠れる場所はない。あるいは暗がりに隠れればやり過ごすこともできただろうが、移動するまでの間にどうやっても気づかれてしまう。
何より、元から隠れるつもりなんてさらさらなかった。
迷宮区は治外法権だ。その内部で起きる犯罪を、立証することが難しいからだ。
だが、だからといって無法者に好き放題させることなど許せない。
ガードナーは、ただ学院を統べる一族の姓ではない。この街を、この迷宮を抱えるオーステリア自体を代表する家系なのだ。
その庭で勝手な行為に及ぶ者を見過ごすなど、彼女が《ガードナー》である以上あり得ない。
「――止まりなさい」
そう声をかける。どうせ相手も、すでにこちらへ感づいている。ならば正面から出るまで。
それがレヴィの思考方法だった。
悪人だと半ば断定していても、自分から奇襲なんてしない。たとえ殺されようとも、自らに恥じる生き方は選ばないし――選べない。
冒険者というよりも、むしろ騎士としての在り方に近い、それがレヴィの矜持だった。
「誰。名乗りなさい」
腰の小刀は、転移元に落としてきてしまっていた。
もちろん戦力は下がるが、そんなことは何の言い訳にもならない。
「……僕だよ、レヴィさん」
暗がりから現れた人影が、諭すような声音で小さく告げる。
金糸の髪をなびかせて。現れたのは、ウェリウス=ギルヴァージルだった。
「ウェリウス。無事だったのね」
ほっとひと息つくレヴィ。早い段階で、仲間と再会できたことは幸運だ。
ウェリウスもまた安堵したように息を漏らす。
「まあ、なんとか。どうやら近い場所に飛ばされたらしいね」
「そうみたいね。ピトスたちは無事かしら」
「同じ階層に飛ばされたと思うけど。早く合流しないとね。――気づいたかい?」
「どれのことかしらね?」
問題とすべき事情は様々ある。それはウェリウスにもわかっていた。
「さっきライセンスを見てみたけど、ここ、三十層だよ」
「みたいね……私もさっき確認したわ」
――三十層は、不味い。非常に不味い。
このクラスの魔物となると、ウェリウスと組んで二体一でようやく勝てるかどうか、というレベルだ。まして連戦とあらば、逃げ帰ることさえ難易度が高い。
「その上、得物まで落としてきてちゃね……私としたことがとんだ失態よ」
歯噛みするように呟くレヴィ。
すると、ウェリウスはきょとんとしたように言った。
「あれ、気づいてなかったのかい? そうか、ひとつしか持ってないから勘違いしたのか」
「……どういうこと?」
「転移のとき、魔術的な道具は全部、弾かれてたんだよ。君が落としたわけじゃない」
「……そうきたか」
「僕も持って来てあった魔道具の大半が転移のときに取り残された。魔術道具で持ってこられたのはライセンスと、あとはこの指環くらいだね」
そう言ったウェリウスの右手には、翡翠色の宝石が嵌め込まれた指環が輝いていた。
先ほどまでは確かつけていなかったはず、とレヴィは思う。転移後に出したのだろうか。
「一応、切り札のつもりで持って来てあったんだけど。まさかこんな理由で切る羽目になるとは考えてなかったよ」
嘯くでもなく零すウェリウスに、レヴィも納得して首肯を返した。
「ずいぶん、強力な魔道具みたいね」
「自分で手に入れたモノじゃないけどね。迷宮からの出土品らしいよ」
「道理で」呟いてから、ああ、とレヴィは続ける。「なるほど、それが理由か」
「どういうことだい?」
先程のレヴィの言葉を、今度はウェリウスが口にする。
そのことにレヴィは苦笑しながら、
「――ライセンスも魔道具でしょ。それでも転移に弾かれなかったってことは……」
「わかった。迷宮に由来する道具は、転移に弾かれなかったのか」
「でしょうね。――ま、その辺の考察はあとでいいか。重要なのはそこじゃない」
「そうだね……僕ら、たぶん嵌められた」
「ええ。不覚だわ、誰かに見られてたのに気づかなかったなんて」
悔しげに歯噛みするレヴィだったが、それも仕方のない話だとウェリウスは思う。
休憩のために張った結界越しに、まさか外から観察されるなんて普通はあり得ないのだから。
あの転移は、確実に《魔術師》の手によるものだった。
仮に迷宮の罠だとするなら、踏み込んだ時点で発動していたはずだからだ。何よりそんな罠の存在が、オーステリアの地図に載っていない。
誰かが新しく仕掛けたものなのだ。
「転移、か。――《喪失魔術》の使い手とは畏れ入るわね」
諦めとともにレヴィは呟く。
転移魔術は、現代では失伝した技術なのだから。それこそ迷宮の出土品などを除けば、今の時代に転移魔術を行使できる魔術師などいるわけがない。
そのはずだったのだ。
転移魔術の使い手が現代に現れたとあっては、きっと方々で話題になることだろうに。
その使い道がこれでは意味がない。レヴィはそう思った。
「ともあれ、早くみんなと合流しないといけないわね。行きましょうか」
「そうだね――ピトスさんは特に、早く探し出さないと」
「いえ。ピトスはしばらく大丈夫だと思う。問題はむしろアスタね。本気で死にかねないわ」
「アスタくんが、かい? こう言ってはなんだけど――」
――彼なら心配する必要などないのでは?
そう思うウェリウスを、推し留めてレヴィは言う。
「忘れたの、あいつは印刻魔術師よ」
「……そうか」
「そう。――ルーンを刻んだ魔道具がなければ、アスタはほぼ無力に近い」
そして魔道具は今、全て転移の際に置き去りになってしまっている。
ほとんど丸腰のアスタよりは、まだピトスのほうがずっと長生きすることだろう。
ともあれ、三人を捜すため、レヴィとウェリウスは駆け出した。
このままでは五人揃って全滅もあり得る。
その事実を――ふたりは極力考えないようにして進む。
それ以外に、できることなんてなかったから。
※
「――まっずい。やっばいコレ、マジやっばい」
俺は言った。ほとんど白目を剥いていた。
隣を歩くシャルが、若干引きながら文句を言う。
「うるさいな、ちょっと黙っててよ。なんか出てきたらどうすんの」
「出てきたら助けてください」
「あんたさ、プライドとかないわけ……?」
呆れてモノも言えないとばかりに、シャルが溜息とともにかぶりを振る。
だが知ったことか。プライドで命が繋げるのかという話だ。
「いや俺、マジでピンチなんだって。ルーン刻んだ護石や護符がひとつもない」
「……は? あんた、何言って……」
「魔具の類いが全部ない。たぶん、転移のとき外に弾かれたっぽい。やばい」
冗談のように聞こえるかもしれないが、マジだ。俺の戦力は現状、ほぼ十割が喪失したに等しい領域である。今なら低層の魔物にも余裕で負けられる。
《ルーン魔術しか使えない》かつ《魔力がほとんど制限されている》という二重のハンデを抱えている俺は、あらかじめルーンを小石や宝玉、あるいは魔晶、紙片などに記しておき、それを戦闘時に起動するという形で速度を補っている。
戦う前の準備から、戦いは始まっている――とでも言えば格好つくが、実際に俺の戦闘力は、そのほとんどを自作の装備に頼っている。
それを失っては、戦う前から戦いが終わっている。何ひとつ笑えなかった。
「……その状態だと、魔術はまったく使えないわけ?」
さすがに不憫に思ったのか、少し声を震わせながらシャルが言った。
俺は軽く首を振って、
「いや、完全に使えないってわけじゃない。ルーンは使おうと思えば使える。模擬戦のとき、足で地面に刻んだみたいにすれば、だけど」
「迷宮の床にルーン刻めるわけ……?」
「百パー無理」
それは迷宮の結界を破ることと同義だ。そんなことができたらルーンなぞ使わない。
……え、嘘。マジでどうしよう。
完全に想定の範囲外なんですけど、この事態。
一応、対処の方法は何通りか思いつかないでもない。
だがそのどれもリスクが高い上、それに見合うリターンが見込めるかは怪しいものだ。
俺は懐に残されていた煙草を取り出し、
「なあ。吸ってもいいか?」
「この状況で? ……まあ好きにすれば」
「そっか。ありがとう」
「人生最期の一服かもしれないし」
「縁起でもないこと言うんじゃねえよ」
「ごめん」
「別にいいけど」
会話とも呼べない会話。お互いに距離感が掴めないでいる。
煙草を咥え、その先端を指ですっとなぞる。《火》のルーンを描くように。
なけなしの魔力を火に変換する。かすかな火が煙草に灯った。
三十層には、もはや魔力燈などほとんど設置されていない。真っ暗な空間に、シャルが作った魔力の明かりと、俺の煙草の火だけが揺らめく。
「……使えんじゃん、魔術」
ジト目で言ってくるシャルに、肩を竦めて俺は答える。
「だから、使えないとは言ってないだろ」
「そうだけど」
「それに、即席の《火》じゃ煙草の火種程度が限界だ」
「使えないようなものね、それは」
「うるせえよ。燐寸なくても平気なんだぞ、便利だろが」
「燐寸使えばいいじゃない」
その通りだったので俺は黙った。言い負かされてどうするのか。
「…………」
「…………」
そのまま、しばし互いに黙り込んだ。
――あの一件以来、シャルは俺に何も言ってこない。
彼女がなんのつもりであんなことを言ったのか、だから俺には未だにわからなかった。
シャルが向けてきた敵意の理由が。
俺には、理解できてないでいる。
そのことを、もちろんここで蒸し返すつもりはない。今がそんな状況じゃないことくらい、もちろん俺にだってわかっていた。
けれど、それでもひとつだけ、俺はシャルに聞いておきたいことがあった。
確認しておきたいことが。
「なあ――シャル」
「何よ」
「ひとつ、訊きたいんだけどさ」
「だから何よ」
「お前、知ってるのか? その――」
「――ああ」
シャルは酷くつまらなそうに頷いた。
なんだ、そんな話か、と言わんばかりに興味なさげに。
彼女は言う。
「わたしの父親が死んだ、ってことなら――もちろん知ってる」




