4-39『ヒトと魔物と』
「――……さて」と。
俺はそう小さく呟いた。そのことには、意味があったわけじゃない。
ただなんとなく、とりあえずのように出した声だった。あるいは単に、現実逃避だったのかもしれない。
現在の状況を端的に言うのであれば、身動きできないのひと言だ。
完全に、微動だにもできないというほどではない。ただ俺に伸びてきたあの触手じみた何かが、俺の胴体を腕ごと縛り上げているというだけ。まるで捕り物になった罪人だ。
「…………」
とりあえず現状は誰から、ないし何かから攻撃されるという様子はないようだ。その点は安心してもいい……とはまあ、言えないが。
動けないというのはそれだけで問題だったし、何よりこの場所はいったいどこなのやら。そのことも考慮しなくてはならない。
――周囲の様子を見るに。
どうやら、この場所は迷宮の内部らしい。
瘴気の気配を感じるし、何より見た目がまさにそのものだ。石材を組み合わせて作ったような長い一本道の通路が、前後に延々と続いている。
魔術製の触手に捕まった俺は、そのままあの廃屋の床を――結界を貫通して、迷宮の中にまで引きずり込まれたということだろう。
それにしても、王都の地下にこんな迷宮があるとは知らなかった。王都に訪れたのは夢で、実はまだオーステリアにいるんじゃないか、なんて。そんな感覚を味わうようだ。
「…………」
しかし、たとえばエウララリアは、この地下迷宮の存在を知っているのだろうか。
俺は考える。迷宮は魔術学的な定義の上では結界の一種ということになるが、魔術師が普通に構築する結界とは違い、明確に出口が存在する。
つまり、この場所も迷宮ならば、どこかで地上に繋がっているはずだということ。それはいったい、どこに通じているのだろうか。
あり得るとしたら、それこそ王城のどこかというくらいしか俺には思いつかなかった。秘密の通路という扱いなのかもしれない。可能性の話だが。
「――さて。考えごとは纏まったかな?」
思考を裂くように、かけられた声があった。ないはずがなかった、というべきか。だから俺は驚かなかった。
俺を拘束するこの触手は、つまるところ魔術の一種である。ならば姿は見えずとも、術者が必ずどこかにいる。わかり切っていたことだ。
そして、このとき聞こえてきた声には明らかに聞き覚えがあった。
何度も聞いたわけじゃない。数えるほどだろう。けれどどうしてか、その声を忘れるということは、今後絶対にないような気がしてならない――そんな声。
それに向かって返事をする。
「……久し振り。と、いうべきかな、アルベル」
「君に名前で呼ばれるのはぞっとしないな」
通路の先の暗がりから、枯れ木のような男が姿を現した。
珈琲屋のそれとはまた違った意味で、嫌に印象にこびりつく、けれど決して好ましいとは思えない声音。
「僕のことは《木星》と――そう呼んでほしいね、紫煙」
枯れ草色の外套。変わり映えのない不吉で無愛想な面。小枝みたいに細い痩せぎすの身体。落ち葉みたいにくすんだ金髪。
アルベル=ボルドゥック。
七曜教団の《木星》を自称する、幹部の一角と思しき男だ。
「あっそ」奴の言葉に、俺は軽く肩を竦めて答えた。「ちなみに俺は、そんな二つ名でなんて呼ばれたくないんだけど?」
「残念だけど、僕は君を名前では呼びたくないんだよ」
「気が合わないな」
「嬉しいことにね」
「おっと訂正。初めて気が合った」
嘯き、せいぜい憎たらしく見えるようにと表情を歪め、俺は笑う。
アルベルはまったく取り合わず、ただ「そうだね」とつまらなそうに頷くだけだった。
――状況的には、すでに詰んでいる。
拘束魔術で動きを封じられ、その戒めを解く方法はない。魔術が一切使えない以上、当たり前だが魔術師に対抗するすべなど皆無だ。
それでも挑発的に喋ったのは、どうやら今のところ、とりあえずは俺が殺される心配がないらしいと判断できたからだ。殺すつもりなら、奴は初めからやっているだろう。わざわざ捕らえたということは、つまりそういうことだ。
と思う。でなければ終わっている。
また、仮に殺されないのだとしても――それは殺されないだけということかもしれないわけで。
わかりやすく、俺は絶望的状況だった。
「……で? こんなとこに呼び出して、いったいなんの用だよ。生憎と俺には、野郎と逢引きするような趣味ないんだけど」
「まったく。君の吐く言葉は、本当にいちいち僕の神経を逆撫でするよ」
「そう言われてもね」
もちろん意図的にそうしているわけで。アルベルもそれはわかっているからだろう、言葉ほど表情に怒りの色合いはなかった。無表情とは言わないまでも、貼りつけた仮面のような笑みは、その内心を容易には悟らせない。
この程度の浅い挑発に、乗ってくるわけもないということだろう。
アルベルは今、自身が圧倒的に有利な立ち位置にいることを理解している。当たり前だ、そんなこと子どもにだってわかる。こいつの気分次第では、それこそ一秒あれば俺は殺されることが可能だろう。抵抗なんて一切できない。
奴が優位に立っている現状、その余裕を剥ぐことは難しそうだった。
「僕だって不本意なんだ。一応、勧誘して来いとは言われてるんだけどね。まったく……あり得ないよ」
「……勧誘だって?」
唐突に吐き出されたその単語に、不覚にも虚を突かれてしまった。
それくらい、意外な発言だったということだ。
「ああ。上からのお達し、とでも言えばいいのかな。もちろん僕としては誠に遺憾というか、正直心から理解に苦しむんだけれど……もし君にその意思があるのなら、教団には迎え入れる用意がある、だそうだよ。伝言だ」
「……どういうつもりだ」
問う。実際、不可解ではあった。
強引に呼び出し、拘束したかと思えば、やることが宗教勧誘と来た。いったい何を考えている。
「別に」アルベルは首を振った。「言っただろ、僕の本意じゃない。断るんなら早めに頼むよ。意味のない会話を続けるのは嫌いだ」
「……なら断る。お前らみたいなのと組む気はない」
「そう。それは残念だ」アルベルは嬉しそうに言った。「もっとも君に、そんな運命はないだろうとは僕も思っていたんだけれど」
運命ねえ。最近よく聞く。
「で? 断ったからには口封じって流れか?」
「別に殺すつもりはないよ。何度でも言うけれど、僕たちは正義の味方だ」
見る者を安心させる、酷く柔らかな笑みでアルベルは言った。
無論、俺がそれで安心できるわけもなく。むしろ不安が増す勢いだ。
「――今のところはね」
「なんだかな……」俺は縛られたままの体勢で、大きく溜息を零してみせた。「俺はなんでお前らに目をつけられてるのか、ちっともわからねえよ。俺がお前らに何かしたか?」
言ってから、なんだか悪役の開き直りみたいな台詞だ、と自分で思った。それもだいぶ小物の悪役。
果たしてアルベルは、高い位置から俺を見下してこう言った。
「何もしていないさ」
「……、」
「何もしてない。そう――君は何もしていない。それこそが罪だと自覚してほしいね」
「なるほど」ちっともわからん。「狂信者に訊いた俺が馬鹿だった」
「なんとでも言っているがいいさ。力を持ったということは、選ばれたということなのに。にもかかわらず世界を知らず、運命から目を背け、ただ自分の思うがままに全てを捻じ曲げる――だから人間ってのは救いがたい。許されることじゃないんだ、そんなことは」
「そうか。俺はそもそも、誰かから許されようと思ったことがない」
「傲慢な考えだ。だがそうだろう、それで当たり前だ。君が救われようだなんて、それこそ烏滸がましい」
「ああ、そう……」
俺は吐き捨て、アルベルから視線を逸らした。これ以上、こいつと口を利いていられる自信がない。
いったい何が言いたいのかまるでわからなかった。というより、これはもうあえてわからないように言っていると思うべきだろうか。
わかるのは、いずれにせよこいつだって何も雑談をするために俺を捕らえたわけではないだろうということだ。そこには何かしらの目的がある、はずだ。それが何かわからないのが不愉快だった。
ここいらでひとつ、こちらから突っ込んでみるのもいいかもしれない。
「――俺もさ。考えてはみたんだよ」
「…………」アルベルはこちらに視線を向けたまま、けれど何も言わなかった。
それがどういう意図なのかは不明だ。だから勝手に都合よく解釈して、促されてもいない続きを語る。
「お前らがいったい、何を考えているのかってことを」
「……へえ。是非、拝聴させてもらいたいね」
「なら、僭越ながらお聞きいただこう」
どうしてアルベルと話していると、こうも精神がささくれ立つような、神経を爪で引っ掻かれているような、そんなどうしようもない不快感に襲われるのだろう。
わけもなく不愉快だった。どうにも落ち着かない。酷く呼吸が苦しくなっている。
顔には出していない。だがきっと目の前の男も、俺と同じ気分を味わっているのではないか。そんな確信だけが、胸の底の辺りで白く淀んでいた。
「――お前らは、《世界を救いたい》とか言ってたな」
「言ったね。その通りだよ」
「つまり逆を言えば」ひと息、俺は間を挟んだ。「……このままでは世界が滅ぶ、と。そういう意味合いの込められた表現になってる」
「……」
「ま、あくまでお前らが比喩や観念論で話してるんじゃなければの話だが」
そう考えるには、すでに様々な方面で被害が出すぎている。狂信者が何人も集まってまったく意味のない行動を取っていると考えるよりは、全員が――たとえ狂っていたとしても――同じ思想を確信し、同じ理想を目指して活動していると信じるほうがまだいいだろう。
連中は確かに狂っているが、そこには異常なりの論理が厳然と存在している。
だから、
「この際もう《なぜ世界が滅ぶのか》とか、《どうやったらそれを回避できるのか》なんてことは考えないでおく。考えたところでわかるわけねえし、そも俺は信じてないしな。重要なのは現実に、これまでお前らが何をしてきたのか。そしてこれからどうするつもりなのか……その点だけだ」
俺は滔々と語る。思考は、ほとんど喋りながら纏めていた。
縛られたままで地面に座り込み、偉そうに推測を語っている俺。だがアルベルは、俺を止めようとはしないらしかった、ただ無言で俺の話を聞いている。
その凍りついたような、あるいは枯れ果てたような表情から、何かを読み取ることはできなかった。
「……とにかく。意図も目的もどうでもいい。お前らの理屈や信念なんて、俺は一切興味がない。重要なのは結局、お前らが俺の、俺の身内の敵にしかならないってことだ。世界を救う――だなんて、そんな下らない言い訳は、俺の身内に手を出してもいい理由にはならない」
「身内に手を出されるのが嫌か、紫煙」
「その通りだ。そしてそれだけだよ、木星。俺は世界なんかより、もっと大事なものを持っている」
だからお前は俺の敵だ。それ以外の一切を認めない。
これ以上何かをする前に――殺す。
そう決めて、だから王都までやって来た。
「……だろうね。きっと君なら、そういうことを言うんだろうと思っていた」
アルベルは静かに目を伏せて零す。やはり表情からは、その内心を窺い知ることができなかった。
ただ、彼の口調にはどこか諦念や無念、あるいは慙愧にも似た感情が染み出しているよう俺には思えた。気のせいでなければ。
彼はきっと、嘆き、苦しみ、諦め、それでも怒り続けている。この俺に対して。
「本当に、反吐が出る思いだよ。性質の悪い自己主義者め」
「なんとでも言え、狂信者」
「少しは世界を知れよ、裏切者」
罵倒し合う俺たち。いや、お互いにきっと、相手を罵ろうという意思なんて持っていない。
そこにあったのはただ純粋で、それゆえに救いのない隔絶だ。どうしようもなく違うという事実。それだけできっと充分だった。俺たちは永久に相容れない。
狂信者と裏切者が憎み合うのは、あるいは近親憎悪でしかないのだろう。
「……それで、そう。なんの話だったかな」
しばらくして、諸手を挙げながらアルベルが言った。
それで今のはお終い、と。そう道化のように告げている。
「そうそう。確か、僕らが何をしているのかという話だったね。幸い僕には時間がある。続けてくれ」
「…………」
また含みのある言葉だった。僕には、と来たか。つまり、僕以外は暇なく忙しく働いているということか。
アルベル以外の誰かが、すでにこの街で行動を開始しているかもしれない。エウララリアにグラムさん、何より教授までいるのだ。外でコトを起こすのは並大抵じゃないだろうが、いったいどうなっているのか。
どうせだ、と俺は突っ込んで訊ねてみる。
「お前ら、今度は王都で何かする気か? またずいぶんと働き者だな」
「ああ」アルベルはあっさり頷いた。「そうだろう? 何せ世界のためだからね」
「そんなこと言いながら、まったく俺の行く先々にばっか現れやがって。実のところ、俺のこと追いかけてるんじゃないだろな」
「そんなわけがないだろう。僕らが君を追っているわけじゃない。むしろ君が、僕らを追っているんだと思うけれどね」
「馬鹿言え。俺はお前らみたいなもんには、間違ったって出会いたくねえよ」
「僕も同じさ。けれど――運命なら仕方がない」
「何が運命だよ、下らない。駆け落ちする貴族かお前は」
「君こそ滑稽極まりない。自分の意志で、世界を選択できているだなんて本気で信じてるのか」
「何言ってんのかわかんねえよ。お前、そういう詩的な表現しないと喋れないの?」
「君こそいちいち皮肉が多い」
「お前だってそうだろが」
「君には劣る」
「本当にもう、一から十二まで腹立たしい奴だな、お前は……」
「その表現は普通、《一から十まで》だろう」
「うるせえな。つまり一ダース分うぜえってことだよボケ」
盛大に表情を歪めて罵倒したが、俺自身も何を言っているのかいまいちわからなくなっていた。
ただただ本当に、目の前の男とは絶対に相容れないという確信だけが強くなっている。
「……本当に。うっかり殺したくなってくるから、少し黙っていてくれないか」
アルベルもまた、先程よりはわかりやすい表情で怒りを露わにしている。
とはいえ、これもお互いに演技なのだろう。相容れない、ということをわかりやすく形にしているに過ぎない。ということはつまり実際に相容れないわけで、結局はやはり腹立たしいのだが。
というわけで、俺はわかりきっていることを口にした。
「つまり、現状では俺は殺せないわけだ」
「そうだね」アルベルは頷く。「だが勘違いしないほうがいい。別に絶対じゃないんだ。七星は所詮、保険でしかない。ないならないで、そのときはそのときだ」
「……保険?」
「君は救世主の定義を知っているか?」
「は……?」突然、話が飛んでいた。「知らねえよ。世界を救ったらじゃねえの」
「そんな逆説の話ではない。なら言い換えよう、救世主の資格だ。何をすればヒトは世界を救える?」
「知るか、そんなこと」
「滅びは必定だ。それに抗うには、決められた運命に抗う意志の力が不可欠でね。その《運命を変えられる力》というものは本来、人間ならば誰でも持っていたものだという」
「なんだそれは」俺は頬を掻いた。「哲学か? それとも宗教の話か」
「僕はこれでも宗教徒だ」
「……ああ。そういやそうだったな」
「だが人間はやがて、運命を変える力を失ってしまった。今ではその可能性を持っている人間は、世界にもほんのわずかにしか存在しないという」
「それがお前だって言いたいのか」
「違うよ」アルベルは、憎々しげに首を振った。「それが君たち《七星旅団》だと言いたいんだ」
「…………」
「もしこの世界が一冊の本なら、その主人公になり得るのが君たちという個だ。周囲の脇役とは違う、君らは運命を、その流れを変える力を持っている。にもかかわらず、それをゴミのように棄てている。それが僕には許せないのさ」
「……そう言われてもな」
俺には逆恨みを通り越して、もはや濡れ衣を強引に着せて斬りかかられているレベルの話なのだが。
「では特別ならぬ僕たちが、それでも世界を救わんとするならどうすればいいのか」
アルベルは言う。もはやそれは、天からの啓示をそのまま言葉に変えているだけのようだ。
そこにアルベルの意志があるのかさえ定かではない。彼ではない誰かの言葉を、ただアルベルの肉体を通して聞いているに過ぎないような。そんな感覚。
「――答えは簡単だ。僕らもまた人間から、次の段階へと進化すればいい」
アルベルは、そう言い切った。
それが残念ながら世迷い言でも妄想でもないことを、俺は知っている。
そのために――アイリスは教団にいたのだから。
「オーステリアの合成獣も、タラスにいたあの泥人形も」
「そうだよ。人間を材料に、魔物を混ぜ込んだ。――そのなれの果て、《魔人》の域には至らなかった失敗作だ」
「……魔人」
「ああ。現生人類を駆逐する新たな惑星の支配者。僕たちは、それを人工的に創り出そうとしていた。その存在に、自らがなろうとしていたのさ」
「なら、迷宮に放置していた魔物は」
「人体実験の過程で生まれた副産物だね。そう、人間だよ。元は。全てが」
「……」
「人工の魔物じゃ、なかなかあの強さの魔術は扱えないからね。ヒトが混ざってないとあそこまでは無理だ。――けれど、あんなんじゃ理想には程遠い」
魔物は、その肉体を魔力で構成された疑似生命だ。人間ではない。だが生命だ。
ヒトと魔物と。
その違いはいったいどこにあるというのだろう。
どこだったところで変わらない。同じにしてしまおうというのが、連中の方法論なのだから。
ヒトの知性と、魔物の滅び肉体が合わさって生まれたものは、その時点でもう新種の生物ということになる。より高次の、より進化した存在。
フェオは吸血種の先祖返りだ。ヒトの血を吸うことで魔力を奪い、自らの力に変えることができるという能力を持っている。それは本来、ヒトには備わっていない機能だ。混ざりモノだということだ。
フェオが先天的なら、アイリスは後天的に作られた混ざりモノだろう。触れた相手から魔力を《略奪》する機能もまた、本来なら人間には備わっていない。
――そうして生み出した新たな概念を、彼らは《魔人》と呼ぶらしい。
「ついて来い、紫煙。この世界の本当の姿を、お前に見せてやろう」
アルベルが言い、奥に向かって歩き出す。追わなければ、そのまま逃げられそうですらあった。
おそらく。アルベルはきっと、独断でこの場所に来ているのだと俺は思った。暗殺目的でもない限り、アルベルが俺と接触することにはリスクしかなかったはずだ。
だからというわけでは決してないが、俺もまた奴を追って歩き始める。縛られたままでは歩くのも億劫だが、まあ転ぶほどではない。
――煙草が吸いたいと、俺は思った。
 




