4-35『彼ら彼女らの修行風景 その2』
大変長らくお待たせいたしました。
本当に申し訳ございません。
「――――、っ」
と。メロ=メテオヴェルヌは目を覚ました。
視界には晴れ渡る青い空。風に乗って流れ行く雲の自由さに、彼女はわずかな共感を覚える。最も彼女は流されるのではなく、自らの意志で行く先を決めているのだが。
瞼が開かれたせいか、太陽の眩しさが自覚される。
メロは緩慢な動作で腕を持ち上げ、視界をその影で遮った。身につけた服の袖の辺りが、ほんのちょっとだけ破けている。……ああ、と彼女はそれを見て思った。
足を持ち上げ、その反動でひょいと立ち上がる。
上から横に向いた視界が、十歩ほど先に立っている男の姿をそのとき捉えた。
「……今、何分くらい倒れてた?」
人影に向けて問う。彼女にしては珍しく、さして訊く意味のない疑問だった。
男は果たして、そのことに気づいているのかいないのか。どちらともつかない無表情で、ただあっさりと答えを返す。
「五分もないくらいだと思うが」
「……あっそ」
「ああ」
それだけの会話。まるで初対面のように口数が少ないが、それは単に、お互いがそれでいいと考えているに過ぎなかった。メロにとって、付き合い自体は長い相手だ。
知り合いの中でも、たぶんいちばんに。
シグウェル=エレク。
《超越》、そして《魔弾の海》の二つ名を所持する彼は、当代最強の呼び声高き冒険者だ。
こと戦闘力に限って言えば、それこそ三人の魔法使いにさえ匹敵するとさえ言われている魔術師。唯我独尊を地で行くメロでさえ、唯一、自らより強いと認める男だ。
見た目にはそう目立つ特徴のない、どこか冴えないとさえ言える外見。こだわりのない性格で、執着するのはせいぜい食に関することくらい。とてもではないが強者には見えない。
魔術の腕も、言ってしまえば平均以下。アスタよりは多少マシだが、それでも本来なら、伝説に名を残すどころか、魔術で生計を立てるのも難しいというレベルである。
それでも彼は、メロ=メテオヴェルヌの戦闘の師だ。
決して魔術の師匠ではない。単純な技量で言うならば、それこそ比較にもならないくらいメロのほうが上なのだから。そもそもお互い、明確に師弟関係を結んだつもりもなかった。
自らの才能に奢り、その実力に増長したメロが、無謀にも《最強》に戦いを挑み――そして一切の言い訳も利かないほどあっさり、完膚なきまでに敗北したというだけ。
以来、《天災》は幾度となく《超越》に挑み続け、そしてその数だけ黒星を重ねている。
「そんじゃ、もう一戦やろ」
「ああ」
メロの言葉に、やはりシグは淡々と頷くだけ。
どう思っているのかなど、その表情から読み取ることはできなかった。嘘をつかない性格であるため、訊けばあっさりと答えることだろう。けれど、なぜか訊ねる気にはならない。
何度も挑戦してくるメロを面倒に思っているのか、それとも次の世代を育てようという心意気を少なからず持っているのか。
そのどちらも正解に思えたし、それ以上にどちらも間違いだと思えた。
要するに、よくわからなかったのだ。
「んじゃ、行くよ――」
言うなりメロは駆け出した。ただし前ではなく横に向かって。
シグウェル=エレクを相手にして、一か所に留まり続けることがどれほどの愚策か、メロは文字通り身に染みて理解している。
直後、メロがそれまで立っていた空間を、視界にすら捉えられぬ速度の魔弾が通過していく感覚があった。それがどれほど力の抑えられたものなのか、やはり嫌というほどわかる。
シグの魔弾は止まらない。まるで押し寄せる波濤の如く、空間を埋め尽くさんと魔弾が迸る。攻撃魔術としては、最も基礎的と言われる《魔弾》。そのひとつを極めれば、それだけでヒトは最強に至る。
対するメロは足を止めずに、詠唱もせず魔術を作る。
彼女にとって、魔術は基礎代謝に過ぎない。自らの内側で渦巻く強大なエネルギーの塊を消費するだけの行為。術式の違いなど、単に退屈を紛らわせるレパートリーの付加でしかなかった。呼吸と同じくらい楽だ。
「――――、」
弾指――あるいはそれに迫るほど短い時間のうちに、メロが術式を完成する。
全天二十一式、第十三番。
――《不見十力》。
それは中空に不可視、かつ不可侵の力場を創り出すメロの固有魔術だ。
しいて言うなら、オーステリア学院の学生会会長――ミュリエル=タウンゼントの使う、設置型の魔弾に似た技術だろうか。ただし、術式の悪辣さは比較にもならない。
メロが創り出した力場は、常に外側へと反発するエネルギーを放っている。それは形を自在に変え、まるでうねる蛇のように空間を縦横無尽に駆けるのだ。無限に形を変える、高硬度の鎖のようなものだと考えれば近いだろうか。それは敵を打つ鞭になり、攻撃を防ぐ盾になり、巻きつけば動きを阻害する拘束に、足下から撃ち出せば移動を補助する加速器に……いくらでもその使途を変えることができる万能の力場だった。
目には見えない純粋なエネルギーの塊が、四方から螺旋を描いてシグに迫る。
低威力の魔弾程度は、少し触れるだけで簡単に軌道を逸らす。渦を巻くように盾を作れば攻撃はメロに届かない。彼女にしか使えない、これが魔術、それが世界を歪めるという行為だった。
――だが。
「…………」
対するシグが行ったのは、やはり魔弾を撃ち出すだけの行動だ。
いっそ思考停止とも思えるワンパターン攻撃。ただし今回、彼はそれまでの魔弾より、ほんの少しだけ威力を上げた。
それだけだ。
それだけで――メロの魔術は正面から破られる。
魔弾が直撃するだけで、メロの魔術はあっさりと破壊されてしまうのだから。普通なら、そんなことはあり得ない。メロの魔術は、ただの便利な紐というわけではないのだから。術式に込められた《干渉を弾く》という効果があるからこそ、ほかの魔術を上回るように存在を保っていられる。いわば魔術を破る力場だった。
それが、逆にあっさりと壊される矛盾。そこに理屈なんて存在しない。
単なる力技だ。
シグの魔弾が――そこに込められた魔力の量が、あまりにも常軌を逸しているせいで、ほかの魔術など規模も効果も概念も無視して上から一方的に壊されてしまう。攻撃が最大の防御、などという言葉で納得できる領域を超越している。
当然、反撃もまた魔弾だ。目に見えないわけではないのに、それでも捉えられないほどの速度で迫る魔弾。
メロは残る力場を遠くの地面に突き刺し、
「……っ」
それを縮めることで、強引にその場所から移動する。《不見十力》を伸縮自在の紐のように扱うことで、魔弾を無理やり回避したのだ。
けれど、シグはそれさえ読んでいた。
いや、正確には違う。シグにわかっていたのは、この程度ならメロは回避するだろうということだけだ。どう対処するとか、どのように回避するとか、そこまで考えてはいない。
そんな必要もなかった。
どこに逃げようが、躱しようのない攻撃をすればいいだけの話なのだから。
――そう。
それこそが、魔弾の海の真骨頂――。
「……っとにデタラメだな、エレ兄は……っ」
呟くメロ。その口の端に浮かんだ笑みは、果たしてどんな感情の発露なのか。
だだっ広い草原。オーステリア近郊の地形が、まるで隕石に穿たれたかのように変わっている。
その異常を生み出した存在こそが。
「全天魔海――」
シグウェル=エレク。魔弾の海。
その真髄は、魔弾による空間飽和。
今、メロの視界が蒼に墜ちて染まっている。視界の全てを魔弾が埋めている。
質量が、魔力の大きさが、まるで世界そのものを歪ませているかのような。
それはさながら、地獄絵図の再現だ。
「――無条航路」
そして、メロは爆撃の中に呑まれて消えた。
※
もちろん直撃はしていない。あんなもの食らえば、死ぬを通り越して消し飛んでしまう。
魔術師が持っている魔力抵抗など、この規模の攻撃を前には無に等しいだろう。いくら天災でも、どうしようもないモノはどうしようもないのだ。
メロひとりを気絶に追い込む程度、魔弾の余波だけで充分だった。掠ってもいない魔弾の衝撃波だけで吹き飛ばされ、宙を舞い、そのまま無防備に墜落してメロは気絶する。
まあ、普段通りと言えば普段通りではあった。
戦いの師匠と表現すれば聞こえはいいが、実際のところ、シグは何かをメロに教えたことなどないし、メロもまたシグに何かを訊ねたことなどない。
ふたりの間で交わされるのは、常に魔弾と魔術だけ。
常に実戦。その中で、何かを掴めるならば持って帰ればいい――。
それだけのことでしかなかったし、それだけで充分だった。
「ぐえ」
と、かなり情けない声を出して墜落したメロを尻目に、シグは戦いの終わりを自覚した。
普通なら、メロだって何も無防備に吹き飛ばされることはない。魔術を使えば、防御はできずとも最低限の対処はできるはずだった。地べたに落っこちて気絶だなんて、間抜けな割にそこそこ重傷を負いそうな事態に、彼女が陥るはずがない。
にもかかわらずそうなったのは、シグの魔弾があまりにも強すぎたせいだ。
威力が高いとか、速度が速いというだけの意味ではない。それは存在規模の話だ。
あまりにも強く在りすぎる魔弾は、空間を、そして周囲に偏在する魔力そのものさえ歪ませてしまう。
そのせいで、シグの前は常に魔力知覚へ妨害がかかっているような状況になっているのだ。
つまり、魔術師が魔力を練り上げ、術式を構築するという過程そのものへ、半ば自動的に邪魔が入るということ。
本気のシグに相対すると、魔術自体を発動しにくくなってしまうのだ。
自然に。ただ、そこに在るというだけで。
もっとも実際にはそれだけではなく、お互いに駆け引きややり取りがあった上での決着ではあるのだが。シグの場合、魔弾の威力を意図的に低くすることもできる、というのが模擬戦では大きかった。何も殺し合っているわけではないのだから。
ある一線を越えれば、魔術は威力を上げるより下げるほうが難しい。
寄って模擬戦の場合は、魔術の威力を下げるというより、威力の低い魔術を使う、というほうに傾きやすい。自然、メロは手札を縛られる形となる。
――だから。
たとえばもし、本気で殺し合うことがあるとすれば。
初めて会ったときならばともかく、今のメロを相手にすれば勝負はわからない、とシグは考えていた。
才能に胡坐をかき、力に驕っていた間抜けな子どもはもういない。
それはシグが殺している。今のメロは、冷静に思考と判断を重ね、戦術を構築できるだけの理性を培っている。
現にこの模擬戦の中でさえ、彼女は戦うたびに実力を少しずつ上げていた。
それは外から数字で判断できるような差ではないけれど。目に見えないところで、メロは未だに強くなっている。
たぶん、七星旅団の中では、誰よりも。
「…………」そう。
その部分が、メロの最も秀でた才能なのだ。少なくともシグはそう思う。
彼女は自分に満足しない。常に、いつだって上を目指している。
心底から本気で、最強の座を狙っている。
三桁では足りなくなるほどの敗北を重ねてなお、彼女は一試合たりとも捨てようとは考えていないのだから。全ての模擬戦で、メロは真剣にシグを下そうと狙っている。
その向上心は、きっとほかの誰にもない彼女の宝だ。あるいは魔術の才能それ自体より。
きっと、彼女は死ぬまで、諦めることを知らずに生きるだろう。
――そうでなければ、意味がない。
育ててやっているなんて思ったことはない。鍛えてやったとさえおこがましくて言えないだろう。
それでも、なんの理由もなく、こんな風に模擬戦へ付き合ってやろうとは思わない。
――でなければ、シグウェル=エレクはなんのために存在するのか。
なんのために最強の看板を守り続けているのか。それがわからなくなってしまう。
マイアから任された七星旅団というひとつの家族を。護れない最強に存在意義などあり得ない。
かつて、一度、シグは家族を失った。キュオネの命を失った。
マイアがくれた居場所を守ることができなかった。
ユゲルの教えを活かすことができなかった。
セルエの願いを叶えてはやれなかった。
アスタひとりに後悔と責任とを押しつけてしまった。
メロの家族を、永久に喪わせてしまった。
――そんなことは、もう、二度と御免だった。
口に出したことはない。けれどシグは、心の底から後悔している。
だがシグは確かに、この場所を大事だと思っていたのだ。かけがえのない大切な、何物にも代えられない宝物だと思っていた。
あのときの後悔を繰り返すわけにはいかなかった。
――だから、せめて。遺すべきものだけは遺しておきたいと思っている。
アスタのことは、ユゲルがどうにかしてくれるはずだ。セルエにはマイアが話をしているはずだ。ならあとは、シグがメロを見ていてやろう。
少なくとも、このときにはもう――シグウェル=エレクはそう考えていた。
※
――そのとき。
レヴィ=ガードナーはひとり、迷宮を最深部まで潜っていた。
オーステリアの最深層。かつて教団の生み出した合成獣と戦ったその場所に、彼女は今、ひとりで訪れている。
身体は軽かった。単身で、しかも前回よりよほど多い魔物との戦闘をこなしながら、けれどレヴィに疲労はない。
魔競祭でメロに敗北してからというもの、精神の調子はともかく、戦闘の技量はむしろ殻を破ったみたいに向上していた。
「……さて」
本来、この場所は最深部である。そういうことになっている。
管理局の地図に、この層より下は記載されていないし、存在すると考えている人間がそもそもいないだろう。
だから、ガードナーの係累だけなのだ。
オーステリア迷宮が、三十層で終わりではないということを知っている者は。
というか、実を言えばレヴィさえ最近までは知らなかった。
セルエからアスタの過去を聞き、その足で向かった学院長室――そこで、彼女は実の祖母からその事実を聞いたのだ。
騙されていた、と憤慨してもおかしくはない。けれど怒る気にならなかったのは、祖母がなんの理由もなく隠すはずがないと知っていたからだ。
もしメロとシャルが関わった幽霊騒ぎの一件を聞き及んでいれば、あるいは自力でその答えに辿り着いたかもしれない。オーステリア迷宮には、まだ隠された空間が存在するという事実に。
ただまあ、その程度は早いか遅いかという程度の違いでしかなく、彼女が自分の先祖の霊に出会うことはない。
はずだった。
迷宮を抜けるレヴィ。やがて至ったいちばん奥の壁の前で、口を開かず立ち止まる。
――そういえば、迷宮には隠された通路がある、という話を教えてくれたのはアスタだったか。何がきっかけになるか、まったくわからないものである。
そして、レヴィは剣を抜き放った。
――開式剣。
ガードナーの持つ《封印》の魔力性質が発露された、鍵の効果を持つ魔剣術。
その効果で、扉を開く。
隠された迷宮の奥へと向かう。
この先に何があるのかを、レヴィは聞いていなかった。
ただ、「必要なものがあるから」と言われただけに過ぎない。「今の貴方なら大丈夫だと思います」とかなんとか、なんだか意味深な言葉で誘導されただけ。
必要なことなら祖母は言うだろう。
行けばわかるとは、実際に向かってみなければわからないという意味に違いない。
ならば、迷いはなかった。
この先に行けば、強くなれるというのなら。躊躇う理由は何もない。
だから、歩みを前に進めた。
何も考えず、何が出てきても受け入れるという気持ちで。
レヴィ=ガードナーは。
※
「――久し振り、レヴィ。ここまで来たっていうことは、そろそろ時間ってことかしら」
※
亡くなったはずの、実の母親と再会することになる――。




