4-34『彼ら彼女らの修行風景 その1』
全身を不快に濡らす汗には、覚醒したと同時に気づいた。
気分が悪い。およそ最悪と呼べるほどに。
肌に纏わりつく微妙な冷たさと、それが吸着させる服の感触が気持ち悪い。手甲をつけているのが嫌で、少女は堪らずそれを外した。
そして地面に叩きつける。
真っ暗で、黒しか見えなくて、けれど遠くまで見通せる奇妙な空間。思ったほどには音も響かず、両の手甲は見た目の重量に反し、静かに彼女の足元へ落ちた。
「……っ、ざけやがって……っ!」
――なんてものを見せる。不愉快極まりなかった。
今すぐにでも、あのふざけた魔法使いの顔を殴り抜いてやりたい気分だ。
不可能だとはわかっていても。初めから、少女の人生は理不尽と隣り合わせだった。今さら無理が嵩を増しても、大した差にはならないだろう。
記憶が、その人間を形成する重大な要素だというのなら。
彼女の人生は嘘ばかりだ。本当なんてひとつもない。全てが欺瞞で塗り潰されている。
だからこそ。
ピトス=ウォーターハウスは、自分という存在を心底から嫌悪している。
「こんなもん、今さら見せられなくたって知ってるっつーんですよ……っ!!」
少なくとも知識としては。なにせ、育ての親から直接に聞かされているのだから。
彼女の記憶は、全身に大きな怪我を負ったところから始まる。
その怪我を、いったいいつ、どのように受けたのかは覚えていなかった。その記憶を失っていたからだ。
一般常識や魔術の知識、あるいは言葉などは記憶していたけれど、自らに纏わる記憶を何ひとつ彼女は覚えていない。「つらいことがあったから、自分で記憶を閉じ込めてしまったのだ」と教えられ、それをそのまま信じていた。
当然、身よりもない怪我人が簡単に生きていけるほど、この世界は甘くない。
彼女を助けてくれたのは、レファと名乗る妙齢の女性だった。ピトスを不憫に思ったらしく、その身許を引き受けてくれたのだ。
古臭い、人の少ない田舎町。そこでピトスは、レファとふたりで暮らした。
質素な生活ではあったが、貧しさに喘ぐほどではない。平穏で他愛もない暮らし。
それが、少女にとっての全てだった。それさえあれば、それでよかった。
ピトスにとって、レファは言ってみれば、母親のような存在だった。
記憶を失った恐怖感と、身寄りがないという不安。それは誰もが想像する以上に大きく、重く、まだ若い少女に圧しかかる。
レファは、それをピトスと分け合って担いでくれた。そう思っていた。
優しい人だったとは言いにくい。かといって厳しかったのとも違う。単にわかりづらい人格だったのだろう。
傷が癒えれば、あとは子どもらしくどんどんと成長していったピトスとは異なり、レファの見た目は年齢でほとんど変化することがなかった。美しい外見を保っていた。
そんな風に、どこか浮世離れした人だ。それは外見だけに留まらず、本人がまた何を考えているのかわからない、なんだか違う世界に住んでいるみたいな性格だったのだ。
普段は絵を描いたり、あるいは彫刻に挑戦したりと創作的な活動をしていた。才能がないのか運が悪いのか、生憎と芸術の素養には恵まれなかったピトスには判断できなかったが、それらの作品はあまりお金にはならなかった。レファ自身も趣味だと断言していた。
それでも子どもひとりを十全に育てるだけの財産はあったらしい。
というのも、彼女はときおりふらっと出かけては、しばらくすると大金を持って帰ってくることがあったのだ。いったい何をしているのか、そう訊ねたピトスにレファは「魔術師としての仕事をしている」と答えた。彼女は嘘をつかない。訊けばたいてい答えてくれた。
実際、強い魔術師ではあったらしい。
適性が違うためだろう。彼女の魔術はほとんど覚えられなかったけれど、代わりに肉体を使った戦い方を叩き込んでもらった。淡々と、ただ攻撃してくるレファに相対するだけの、教えるというには優しさのない授業だったけれど。それを楽しいと思いはすれ、つらいなどと考えたことは一度たりともない。《使い魔使い》と《治癒魔術師》――お互い肉体に関わりの深い系統だ。相性は、そもそもよかったのかもしれない。
無念があるとすれば、結局、格闘戦では一度もレファに勝てたことがないくらいだろう。
血が繋がっていないことは知っていた。ピトスの両親は、すでに亡くなっていると初対面で聞かされていたからだ。
けれどピトスは、そのことを不幸だなんて考えたことはない。彼女は幸せだったのだ。
わかりづらい人だけれど、自分を愛してくれているのだと思っていた。
愛されれば、生きていけるのだと思っていた。
だからピトスもレファを愛した。
生活能力のない彼女に、食事を作ってあげることが楽しかった。モチーフさえわからない彼女の絵を、眺めている時間が好きだった。ときおり出かけるレファの帰りを待ち、都会のお土産話を聞くことが嬉しかった。いくら叩きのめされても、彼女から戦いを教わる時間が大事だった。丁寧だけれど、どこか慇懃無礼な彼女の口調を、真似して一緒に話していた。
――全てがピトスの財産だった。ほかには何も持っていない。
その中でピトスは、自らが持つ魔術の才能を開花させていった。
そう、時間はかからなかったと思う。
いつしか本職の冒険者にも迫る実力を身につけたピトス。
それが、カウントダウンだとは知らなかった。
彼女はひとりでも生きていける。それだけの実力を身につけた。
ならばもう、一緒にいる必要はないだろう。
レファは――《金星》レファクール=ヴィナは。
だから当初の予定通り、彼女の過去を全て話して聞かせた。
そして同時に、用済みになった田舎町の住人を全て、魔物に変えて滅ぼした。
――嘘だと信じたかった。
だが、できない。記憶がまだ、どこかに残っていたのだろう。全てとは言えないにせよ、思い出したことがあったのだから。
ピトスは知ったのだ。自分の敵が目の前にいたことを。その後ろには魔法使いさえいるという事実を。
自分の周りにいる人間は、ひとり残らず死んでいくのだということを――。
下らない。馬鹿らしい。こんなに滑稽なこともない。
愛されていると勘違いして、多数の死体を踏み躙って生き永らえた。
何が治癒魔術師だ。誰かを殺したことはあっても、誰かを救ったことなんて一度もない。
みんな死ぬ。みんな死ぬみんな死ぬみんな死ぬ。
――なのに自分だけが生きている。
だから死にたい。でも死ねない。今すぐに死んでしまいたいのに、そんなことは許されない。生きたかった全ての人たちの、犠牲の上にいるのだから。
なら先に――レファクールを殺すしかない。
そう思った。彼女を殺し、その裏にいる魔法使いもその仲間も他人を踏み躙る命を奪う悪徳の全てを殺して殺して殺して殺して殺して。
最後には自分もそこへ行こう。
だから、その後の人生の全てを、復讐に捧げることを決めた。
ひとりでは無理だろう。なら他人を利用してでも。オーステリアへの進学を決めたのは、たったそれだけの理由でしかない。学院で築ける人脈は、将来きっと役に立つ。
騙せばいい。奪えばいい。利用して搾取して役に立ってもらおう。
死ななければいい。
そのための治癒魔術だ。生きてさえいれば辻褄は合う。踏み台にする罪悪感も安らいだ。
奴らを殺すためにほかの全てを犠牲にしても、命さえ残せばそれで済む。
レヴィもシャルもウェリウスも。そのための駒に過ぎなかった。
特に、アスタ=セイエルは素晴らしい。彼自身が役に立たなくても、七星旅団は魔法使いと敵対している。ほとんどわからないレファクールたちの情報を、手に入れられる公算は高まるだろう。
あのときの素人が、まさか伝説と呼ばれるほど成長するなんて予想外だったけれど。
そうなってなお甘い彼には、嫉妬を通り越して殺意すら覚えたけれど。
幸い、向こうは自分を覚えていないのだ。なら利用させてもらう。
――そのために、愛されるように振る舞おう。
だから愛した。自ら愛せば愛してもらえる。その方法も、レファクールが教えてくれた。
ころりと騙された自分のように。みんなには駒になってもらう。全てを欺くために生きよう。
そして最後に願わくは、自分も殺してくれればいい。
「――どうせ、最期にはみんな、死んじゃうんだから……」
※
死んだ。実際、マジで死んだと思う。果たして何回死んだことやら。
魔竜との最終戦で、ウェリウスは結局、命を落とした。あれだけ啖呵を切ったのに、これはかなり恥ずかしい。
ともあれ。
『――ふん。まあいいだろう。合格にしておいてやる』
「そりゃ……どうもですよ」
相討ちとはいえ、竜殺しを成し遂げたのだ。
その成果は、とりあえず、誇ってもいいのではなかろうか。
『しかし、まだまだだな。四十九も命を使って、ようやく下位の竜を滅ぼせる程度か』
「……いや普通なら英雄クラスですけど」
『普通でどうする、馬鹿め。お前の目標は普通の範疇か』
フィリーの言葉に反論できず、仕方なくウェリウスは口を閉じた。
とはいえ――相討ちとはいえ滅竜を成し遂げたのだ。褒めろとまでは言わないが、もう少し、こう、何かあってもいいんじゃないか。
そう思ってしまっても、責められる謂われはないだろう。
『まあ、五十のストックギリギリとはいえ、達成は達成だからな。褒めてやる』
「……いりませんよ、別に」
しかし実際に褒められてしまうと、それはそれで微妙な気分になるから難しい。
フィリーの助言がなければ、失敗していただろうこともわかる。本当に『まだまだ』だということだ。
実際、魔竜の封印には失敗したわけだし。それでもまあ、倒せたのだから戦果としては上だけれど。
なんというか――締まらない。
『おい、ウェリウス。いつまでぼさっとしている? 次行け次に』
頭を掻くウェリウスに、フィリーはあっさりそう告げる。
「……まだ次があるんですか」
『いや』呆れ交じりの呟きに、けれど返ってきた答えは否定だった。『お前はもういい。次はシャルロットのところへ行ってやれ。送ってやる』
「……シャルロットさん? どうして――」
『いや、なんだか加減を間違ったみたいでな』フィリーはあっさりと言った。『死ぬかもしれんに』
「……そういうことは早く言えっ!!」
叫び、ウェリウスは駆け出した。自分が連れてきたというのに、そこでシャルに死なれるなんてあってはならない。
位相のずれた異次元空間。ならば駆けていれば、あとはフィリーがシャルの元へ辿り着かせてくれるだろう。
――いったい、彼女にどんな修行を課したんだ。
慣れている自分ならともかく、フィリーをよく知らないシャルたちが彼女のノリに晒されるのは盛大に危険だ。
駆ける中で、ふと姿の見えないフィリーが残した、最後の言葉が耳を掠める。
『――まったく。厄介な奴ばかり集まったものだ……』
※
――厄介なことになった。
そんな冷静な思考とは裏腹に、シャルの現状は窮地と称するほかにない。
影は、想定を遥かに逸脱した強さだったのだ。
もはや複数の魔導書そのものとも表現すべき魔術の種類。そのひとつひとつをシャルは学習していったが、かといって相殺だけでは千日手だ。
何より、そろそろ魔力の残りが疑わしい。
一方の影は、魔力の底なんて見えないとばかりに、湯水の如く魔術を使う。このままでは先に息が切れるのは、きっとシャルのほうだろう。
勝ち筋が見えなかった。
魔術は互角。だが魔力量では負けている。
つまり――普通に考えれば勝ち目がないということだ。
「……なんでわたし、こんなことしてるかな……」
仕舞いにはそんなことまで考えてしまう始末。ついて来たはいいけれど、まさか魔法使いから修行を課されるとは思っていなかった。諦める気はないが、精神を削られているのは否めない。
元より、シャルは大した目標など持っていない。
自分が魔法使いの弟子だから。
才能があると持ったから。
魔術師になった理由なんてその程度だ。あるいはほかのすべを知らなかっただけ。
その才能さえ、どうやら学院でも最上位に立てるほどではなかったらしい。
――下らないなあ。
そう思った。本当に投げ出してやりたいくらいだ。
魔術で困ったことはない。やろうと思ったことはだいたいできた。
結局は、だから、それがシャルの限界だったということだろう。
頭上で跳ねる使い魔も、気づけば静かになっている。あるいはもう、自分に愛想を尽かしてしまったのか。
そんなことを考えていたせいだろう。
切れた集中力が、そのとき致命的な隙となって表れてしまう。
「――あ」
気づけば。目の前に。
影の放った魔術が迫っていた。
相殺も防御も、もう間に合わないだろう。時間が引き延ばされたみたいな感覚の中、それが自分に直撃するのだということをシャルは悟った。
――死ぬかもしれない。
その思考に、思ったほど抵抗も忌避も感じないことに苦笑しそうだ。
結局、それはシャル自身の失敗だ。
初めて会った父親に、まるで興味がないような反応をされた。そのことが、ここまで自分を腐らせていたらしい。なんてザマだろうか。笑うに笑えない。
――何もなかったのだ。自分には。
誰かにどこかで言われたように。シャルロットという個は、自分だけのものを何ひとつ所持していない。全てが誰かの真似ごとで、だから浅いし、意味がない。
特別では――ない。
自分が固執していたことが、なんの意味も持っていなかった。それだけで、シャルはこうもあっさり折れてしまうらしい。なんて脆さだろうか。
弱い。こんなにも、自分は弱かったのだ。
なら、ここで魔術を受けて死んでしまうのも、当たり前なのかもしれなかった。
そして――シャルは魔術の直撃をその身に受けた。
割と重要めの活動報告がございます。
書籍化に関しての続報です。ご覧ください。




