4-32『正しい運命との向き合い方』
パンが、死んだ。
その事実を、理性は驚くほど簡単に受け入れていた。心臓を射抜かれたのだ。これで生きているわけがない。
一方で、感情はその事実をまったくと言っていいほど受け入れない。そうだ、パンは治癒魔術が使えるはずだ。こんな傷、すぐ治して立ち上がるに決まっている。
そんなはずがないと理解していながら、目の前の現実に納得できない。
理不尽だ。
どうしてこうなる。
いったい、何がいけなかった……?
「別に。単なる八つ当たりみたいなものなんですけれど」
その声にアスタは、ゆっくりと面を上げる。
それくらいの反応は返せるくらいになっていたし、その程度の反応しかできないくらいだとも言えた。
視線の先にいたのは、レファクール=ヴィナだった。
町を滅ぼし、住民たちを魔物へと変えた元凶。どこに隠れていたのか、視界の開けた湖の前に突如として現れ、そして――。
「……お前、が」
喉が引き攣って、言葉がうまく出てこない。
渇いていた。喉が――いや、きっとほかの何かが。まるで焼かれたみたいに。潤いを失ってからからになっている。
「お前が、パンを……」
それでもなんとか絞り出した問いに、レファクールはあっさりと、なんでもないことのように答える。
「――殺しました」
それがどうかしたのか、とでも問い返さんばかりの気軽さ。
いらいらする。あまりにも呆気ない、なんでもないという感覚が、逆にアスタに火をつけた。
「なんで、……殺した?」
「ではなぜ、貴方たちは魔物を殺したのですか?」
「な、」
「貴方たちの知り合いだったのでしょう? それをあっさりと殺しておいて、逆の立場だから責められるのは納得がいきませんね。いえ、別に納得したいだなんて、そんな意味のないこと考えてはいませんが」
「そん、なことを訊いたわけじゃ……っ!」
「でしょうね。こんな適当な言葉であっさり煙に巻かれたら、逆にどうしようかと思いました」
「――――、っ」
「では、そうですね。あれでも一応、あの合成獣は私の子どもみたいなものでしたからね。その敵討ちというのではどうでしょう? 納得できるのでは?」
――もう、話していたくない。
駄目だ。この女は、もう、駄目だ。価値観の全てが終わっている。
同じ人間だとは思えなかった。アスタにはもう、レファクール=ヴィナという一個体が、決して理解できないバケモノだとしか思えなかった。
こんな怪物と言葉を交わしたところで、得るものなんて何もない。ただ精神を蝕まれていくだけだ。
一刻も早く離れたい。この女が視界に入る場所になんて、もう一秒だって存在していたくなかった。
――あるいは。
目の前の魔物の存在のほうを、今すぐ消し去ってしまいたい。
「……俺も、殺す気なのか……?」
「いえ、別に。私は人殺しは嫌いです」
「――そうか」
いっそ殺しに来てくれればよかったのに。そう思う。心から。
だって、そうすれば。
こっちだって、なんの抵抗もなく殺せるのに――。
「――――!!」
瞬間。アスタは弾けた。
そう見紛うほど素早く動き出したという意味でもあったし、その時点でもう考えるのをやめたという意味でもあった。
合成獣との戦いで起動した《駿馬》のルーンは、まだ活きている。だから、そのまま最速で駆けた。レファクールの油断を突けば、ひと息のうちに彼女の生命活動を止めることも、あるいは可能だっただろう。
実際、彼女は完全に気を抜いていた。戦う気など一切ないという様子だった。
もちろん、無抵抗の人間を一方的に攻撃することへの忌避感なんて、アスタはまったく備えていない。ほかの誰かならばともかく、少なくとも目の前の怪物に対しては。
だが。
怪物は、それでも怪物だった。
「危ないじゃあ――」呟くような声が、静止したアスタの耳に届く。「ないですか」
その直後に吹き飛ばされた。
「が、」呼吸が、「――っは」
止まる。肺の感覚がどこかに吹き飛んだ。背中で鋭い痛みが踊る。狂うように。食らうように。肋骨が軋み悲鳴を上げ、内臓のどこかをたぶん痛めた。口から飛び出た鮮血が、レファクールの顔をわずかに濡らす。
殺すつもりだった。一切の容赦なく急所を狙っていた。
あの速度なら、間違いなくレファクールの心臓を貫けただろう。その反動でアスタの指も折れただろうが、そんなことを斟酌するつもりは欠片もなかった。
だがアスタは止められた。伸ばした腕はレファクールの片腕で止められ、その上で腹部に蹴りを受けた。
流れるような動作。傍から見るものがあれば、その美しさに目を奪われたであろう、それは武術を修めた者の動きだ。肉体能力を十全に磨き上げ、身体機能を完全に制御化に置いた効率的かつ理論的な動作。
獣には決してあり得ない、意志ある生物だけが持つ武力だった。
「いきなり攻撃するだなんて、美しくない行為ですね。そんなの……殺されたって、文句は言えませんよ……?」
「――っ、る……せえ、な……っ」
蹴り抜かれた胴が、その中身が骨がぎしぎしと軋む。
魔術師の身体能力が、その外見とは関係ないことくらい知っていたはずなのに。それさえ忘れてしまうほど、アスタの頭には血が昇っていたらしい。
それでも、吹き飛ばされたお陰で少しは頭に冷静さが戻ってきた。
だからこそわかる。理解できてしまう。
目の前の女を相手にして、アスタに勝ち目はない。万にひとつもだ。彼我の実力は、それこそ天と地ほどに隔絶している。
アスタがこれまで魔物を相手に、ギリギリのところで勝ちを拾ってこられたのは、あくまで相手が魔物だったから――言い換えれば知能の低い獣だったからに過ぎない。
知性ある魔術師を相手取るには、アスタの能力は絶望的なまでに足りていなかった。
「……んなこと、初めから知ってるっつーの……」
いちばん賢い選択は、諦めてこの場を立ち去ることだろう。
レファクールのような狂人の言うことを真に受けるのは馬鹿らしいが、追ってこないとは言っているのだ。見逃すと。彼女はそう告げている。
現に今の一撃だって、もちろん当たりどころによっては死んでいてもおかしくない攻撃ではあったが、決して必ず殺してやろうという意志までがあったわけじゃない。
ここで逃げれば、アスタはきっと生き残る。
そう。目的はあくまでも生き残ることだ。ここでレファクールを相手にかみつく理由なんてない。敵討ちを気取るには、実力も意志も足りていない。
――だが。
そんなこと、知ったことか。
「――お前、さあ」
泣き叫びたくなるほどの熱さを堪え、アスタは静かに立ち上がる。
問うた言葉に意味はなかった。意味なんて、初めから何ひとつ理解していない。
何もかもが理不尽だった。なんの前触れもなく異世界に投げ落とされ、理由も知らぬまま町のみんなを殺され、わけもわからずいきなり現れた魔術師に殺されかかっている。
――なんだよ、それ。
何ひとつ意味がわからねえよ。
「どうして、みんなを魔物に変えたんだ」
「……? 誰かを救うのに理由が必要でしょうか」
「みんな死んだんだぞ……」
「殺したのは貴方たちでは?」
「ならどうしてパンを殺した……?」
「子を殺された、その復讐をする母に理由を求めないでください。貴方にはヒトの気持ちがわからないんですか?」
「じゃあ俺も魔物に変えようとは思わないのか」
「でも失敗だったので。あんなモノ、私の理想とは程遠い。申しわけなくて、できません。残念なことですが」
「……そうかよ」
もう――堪えられなかった。
言ってることが狂ってる。何ひとつ論理的じゃない。そもそも理解したくない。
こんなクソみたいな、三流の脚本はごめんだ。事件が起きるなら、その伏線くらい張っておいてくれ。もっとがんばっていれば、もう少しくらいマシな結末に辿り着けたかもしれないのに。ここまでやって来て、その結果がこれなんてあんまりだ。酷すぎる。
――何か間違いがあったなら教えてくれ。俺が悪かったって言うんなら、その罰は俺が受けるべきなんじゃないのか。それとも、何もかもこれで正しいっていうのか。
これが、運命だっていうのか。
ふざけるな。
「何が正しいかとか、もう、そんなことは知らねえ。でも……」
それでも。
魔術師ならば、自分の意志にだけは逆らうな。
それが《生きる》ということだ。
「――お前は殺す。それが正しいと、俺は信じる」
是非なんて知らない。可不可なんざ考えるな。
やると決めたら貫き通せ。
この世界に来た瞬間からもう、一ノ瀬明日多は魔術師に変わっているのだから。
「……残念です。私は殺生が嫌いなのですが」
レファクールは首を振った。心底から、本当に自分がそう思っているという風に。
美しく整ったそのかんばせを、悲痛な面持ちに歪めている。
「ですが、仕方ありません。私は私を守るために、貴方を殺すしかなくなってしまう」
「馬鹿言うな。お前にはもう、何もできねえよ」
「……本当に残念です。聞いていた話では、もう少し賢いと思っていたのですが。そんな貴方では、運命を変える資格など持ち得ない」
「運命なんて知るか。そんなもの、俺は認めねえ」
初めから、パンが死ぬ運命だったなんて。
そんなことは信じない。何も信じたくない。それを認めるということは、自身の力不足を肯定するということだ。レファクールの行為を割り切るということだ。
あり得ない。その罪はアスタとレファクールの間で、それぞれ等価に分かち合われなければならない。
だからアスタはただ片手を挙げ、それをレファクールに向けることで、攻撃の意志を表明する。
対するレファクールは、本当に失望したという表情で視線を下げ、静かに地を蹴った。
勝負は一瞬だ。決着は初めから決まっている。
印刻魔術以外の攻撃手段を持たないアスタは、《書く》という工程を経なければ魔術は絶対に使えない。
その時間は、レファクールを前にして無防備にも等しいほどの隙になる。彼女はただアスタに近づき、その首を軽く手折れば済むのだから。魔術さえ使う必要がない。
頬についていたアスタの血が、ぽたりと垂れてレファクールの胸元を汚した。
それと同時に前へと進む。ただの数歩でアスタは終わる。
その一歩が、けれど彼女には踏み出せなかった。
「……!!」
その刹那、レファクールはアスタの存在を完全に忘却した。
敵にもなり得ない弱く脆い魔術師からは視線を切り、それ以外の脅威に振り返る。
そして彼女は目の当たりにした。
背後に、いつの間にか姿を現していた、強大な白い魔竜の姿を。
「なん――っ!?」
水が。押し退けられて溢れた質量が、一気に解放され湖畔へと迫った。
レファクールはそのとき、ただ逃げることだけを考えた。魔竜――伝説とさえ呼ばれる神獣を相手にしては、いくらレファクールでも勝ち目はない。
だからこそ、彼女はこのときふたつの事柄を見逃した。
ひとつは単純に、この時点ですでに手遅れだという事実。水底で静寂を保つ魔竜が、能動的にレファクールを襲う可能性なんて想定すらしていなかった。でなければこの場に訪れたりするはずがない。かの神獣がヒトを襲わない事実を、レファクールは町にいる間に調べ上げていた。
そして、ふたつ目はもっと簡単なことだ。
彼女の胸元を汚した赤。アスタの一部である血液が。
そのとき、淡く光を放っていたということだ。
そう。アスタはすでに、《書く》ことを終わらせてあったのだ。
あとは単に、魔力でもってそれを起動すれば済む。レファクールが動くよりさらに速い。
だが、偶然かかっただけの血の汚れを、文字として解釈するのは難しい。そもそも本来なら印刻魔術は正確に《書く》ことを行わなければ成立しない。仮にも血の汚れがたまたまルーン文字に似ていたとしても、書いたわけではない以上、それを文字だと言い張ることは不可能なはずだった。
本来ならば。
つまり、レファクールは知らなかったのだ。
アスタのルーンに対する適性を。そして何より、ルーン文字にはただひとつ、文字ではない文字が含まれているということを。
空白のルーン。総数二十四のルーンに含まれない例外。
すなわち――《運命》のルーン。
その文字を魔術として扱えるルーン使いなんて、世界中を探したってほかにはいない。
「……言ったろ、何もできねえ――って」
自嘲するようにアスタは笑う。彼にだって何もできないのだ。自力ではレファクールに敵わない。そんなことは初めからわかっていた。
だが、それで全てが決まるわけじゃない。自分の力で勝てないのなら、誰かほかの奴が勝てばそれでいい。
だから賭けた。レファクールを汚した自分の血を媒介に、空白のルーンを成立させる。
それがどんな効果を及ぼすのか。アスタにだって確証はなかった。
ゆえにアスタは、自分がどれほどの偉業を成し遂げたのか理解していない。それまで誰ひとりとして成功させていない、運命を捻じ曲げ、自分にとって最も都合のいい未来を引きずり出すという、原点にして到達点たる最高の魔術。
その発露を理解していない。
ただ、もともと魔竜の力を借りるために、この場所まで合成獣から逃げてきたのだ。それをそのまま流用しただけに過ぎない。
目の前の魔竜が――あのときアスタとパンのふたりを助けてくれたのだということを、信じただけのことだった。
「嗚呼――」
そして、レファクールは微笑んだ。
――素晴らしい。
やはり何度見ても魔竜は最高の幻獣だ。これ以上に美しい在り方が、世界に運命に存在するだろうか。
自分がその一部になれるのであれば、その結末は悪くない。いや、最高だと言ってもいいくらいだ。
レファクールは恍惚の表情を浮かべて、うっとりと小さく呟いていた。
「……素敵」
そしてそのまま、魔竜に飲み込まれて姿を消す。
同時に、湖から溢れた怒濤がアスタに至る。横たわるパンの肉体といっしょに、アスタは大質量の水を全身に受けた。肉体から力が抜け、精神が細く火を消していくのが自覚できている。
けれどアスタは、笑みを作った。
視線が、流されていくパンとぶつかったみたいな錯覚を覚えながら。
「ざまあ、みやがれ……!」
そう、天に向かって吐き捨てる。それくらいはしないと気が済まないから。
けれどいったい、誰に対して吐かれた言葉なのだろう。
自分でも理解できないまま、肉体は精神をゆっくりと手放していた。
全てが、空白に包まれる。
※
――生きるというのはどういうことか。
その問いを彼に発したのは、いったいどこの誰だったか。そのとき彼はどう答えたのか。
大切なことのはずなのに。どうしてだろう、上手く思い出すことが彼にはできない。
ただ、思った。
そんなことに答えはないのだと。意味なんてないし価値なんてない。だから理由なんて求めるべきじゃない。
それでも、運命に全てを委ねることだけは嫌だった。
だから彼は決意する。自分の意志だけは裏切らないようにと。肉体の生死なんてどうでもいい。思えば彼女は、彼を守って死んだようなものだ。
言い換えるなら、彼は一度すでに死んでいる。
なら、最後まで心までは殺さないように。その意志だけを貫き通して、魔術師として生きて死ぬ。それだけが目的で、つまり目的なんてないようなものだ。
だとしても。
このときの答えは、少なくともそれだけだった。
※
「もしもし? もしもーし?」
ぺちぺちと。優しく頬を叩かれて、アスタは空白から覚醒した。
跳ね上げるように身体を起こそうとした途端、全身を激痛に襲われ、アスタは盛大に呻きを発する。
「ぐぎ……ぃ、あ……っ!?」
「ああ、駄目だよ急に動いちゃ。自分でわかってるか知らないけど、君、割と怪我がヒドいんだからね?」
「――っず、あ……何、が……?」
絞り出すように。なんとかそれだけは言葉にできた。
地べたに横たわる自分のすぐ近く。そこに見知らぬ少女がひとり、しゃがみ込んでいることだけは理解した。眼球の動きだけで視線を巡らせれば、正面には波ひとつない、静かな湖の光景。見つけたのはそのふたつだけで、あとは魔竜も、レファクールも、パンの姿さえ見当たらない。
全て水に呑まれてしまったのか。
辺りはすでに仄暗い。あれからどれほどの時間が経ったのか。
わからない。わかるのは結局、自分が生き残ったのだという事実だけ。自分だけが――置いていかれたのだという諦念だけだった。
「まあ、とりあえず無事みたいだね。何があったのかわかんないけど……とりあえずは傷、治そっか」
横合いの少女が微笑んで、アスタの身体に両の手を触れた。
いつかも感じた、暖かな魔力が流れ込んでくる。治癒魔術だということはすぐ察した。
「あんた……」
思わず声を漏らしたアスタに、少女が柔らかく微笑みかける。
「ん? 治癒魔術を受けるのは初めてかな? まあ心配しないでよ、これでも腕はいいんだからねー。もちろんお金も取らないし。初診無料、なんちゃって?」
「……ありがとう」
よくわからないままに、それでも礼だけは告げておいた。
頭があまり回っていないらしい。その自覚がある。けれど感覚が告げていた。
――全て、終わってしまったのだと。
「……それで、あんたは……?」
しばらく治療を受けてから、やがて小さくアスタは問う。
少女はやはり、朗らかな表情で微笑んだ。年の頃は、アスタと同じか、もしくはひとつふたつ上くらいに思える。見方によっては銀色にも見える、けれどどこかくすんだ金属のような灰色の短髪が特徴的だ。瞳は夜のように漆黒で、けれどその肌は雪のように白かった。平均的と思われる体躯だが、どこか華奢な印象がある。
「んっとね、まあ通りすがりだよ。探しモノの途中でね。今、倒れてる君を見つけたトコ」
「……そうか。悪い、助けられたみたいだ。ありがとう」
「それはいいんだけどね」少女はわずかに苦笑する。「えっと、大丈夫? 話せる? いろいろ訊きたいコトあるんだけど……平気?」
「訊きたい、こと……」
「町に誰もいない理由とか、君がここで倒れてた理由とか。そんな感じかな。無理にとは言わないけどね。恩着せるの、ヤダし」
「いや……俺からも、いろいろと訊きたいことはある」
「そっか。んじゃちょうどいいね。町に戻って、少し話そ?」決まり、と少女は立ち上がって、アスタに片手を伸ばしてくる。「立てる? たぶん大丈夫だと思うんだけど、無理は禁物だかんね」
「……助かる」
ほんの一瞬だけ迷ってから、アスタはその手を握って、立った。
身体の痛みは、少なくとも起きた瞬間よりはだいぶマシになっていた。目に見える傷はだいぶ小さくなっている。治癒が効いたのか、あるいは単に麻痺しただけなのかは、わからないけれど。
「なんかこう、あんまり愉快な話は聞けそにないけどさ」
立ち上がった少女は、アスタを町の方向に先導するみたいにして歩いた。
少女はアスタの手を握ったまま、、やはり柔らかい表情を――何か察して、気を使っているのだろうか――浮かべながら言う。
「とりあえずは、名前だけでも交換しとかない? もしかしたら、しばらくの付き合いになるかもだし」
「……。アスタだ」
端的に答えた。なぜだろう、もう、一ノ瀬の苗字を使う気にはなれない。
ぶっきらぼうに聞こえてしまったのか、少女は答えに小さく苦笑。けれどすぐに元の笑みに戻ると、なぜかアスタの手を両手で握って、それから答える。
「ん、なんかいい名前だ。気に入っちゃったよ。この町には、どうして?」
「……いや別に。たまたま、なんとなく」
「なんとなく、ね。んじゃもうひとつ質問なんだけど、マイア=プレイアスって名前、覚えないかな?」
「――――」
覚えのある名前だったが、アスタは咄嗟に反応を隠した。
何か理由があったわけじゃない。ただ初対面の相手にはできる限り情報を与えないほうがいいだろうと、ふと考えただけだった。
けれど少女は悪戯っぽく微笑んで、
「今、心臓どきってしたでしょ」
――いつでも攻撃できるようにしよう。
そう、アスタは自然に考えていた。
「……お前は」
あえて答えず、ただ問う。答えを貰ったところで、意味のある問いではなかったけれど。
問われた少女は、なぜかそのとき噴き出した。堪え切れないとばかりに笑ってみせて、それから慌てて首を振った。
「ごめんごめん。そんな警戒しないでよ」
「……、」
「大丈夫だよ」少女は笑う。「ここにはもう、君を傷つけるものは何もない」
「……別に、警戒してるつもりはない」
「そか。ちなみにわたしはマイアのともだちってだけ。言ったでしょ、探しモノって。マイアはいっつも勝手にいろんなトコ行っちゃうからさ。ふらふらー、って」
「……なるほど」
彼女らしい話だと、そう思った。ほかに答えようもない。
だから代わりに、アスタは改めて訊ねてみる。
「それで、あんたの名前は?」
少女は、やはり笑顔で答えた。
花の咲くような。あるいは地上を照らす太陽のような。
とても温かみのある笑顔で彼女は言う。
「わたしはキュオネ=アルシオン。――呼ぶときは、キュオでいいからね」
次回、過去編A(転移直後)最終話。
『くゆる煙は天高く』




