4-24『時間空間運命因果の諸法則』
――いいか、時間がねえ。一度しか言わねえからよく覚えろ。
時間を操る魔法使いの、「時間がない」という言葉は皮肉だろう。
もちろん、そのときのアスタに意識する余裕などなかった。
当然といえば当然だ。これまで、平和な国に暮らすただの中学生でしかなかったアスタの双肩に今、大勢の人間の命が懸かっているのだから。
――そもそもオレがこの土地に来たのは、ある魔術師を追ってのことだった。
魔法使いは言う。彼もまた目的があってこの場所に来た。
アーサーが。マイアが。何よりアスタが。
この場所で一堂に会したことには、きっと意味があるのだろう。
――誰かは言えねえ。知識を得た時点で、それは常識に、つまりは絶対の事実に変わっちまう。そして確定したモノは変えられねえ。確定しても問題ない情報ではあるが、本来なら知らなかったはずの事実を知るという時点で矛盾が生じるからな。その歪みは大きければ大きいほど問題を生むし、お前らが干渉できる過去は逆に狭まっちまう。自力で気づいてくれ。
無茶苦茶な理論。だとしても、それが魔法使いの言葉なら信じざるを得ない。
この世界で、時間に関係する魔術を扱えるのはアーサー=クリスファウストただひとりなのだから。
彼が言う以上、それが正しいことになる。いや、仮に間違っていても、それを確かめるすべがないと言うべきか。
曰く、確定した運命は、たとえ時間を逆行しても変えられない。
――そもそも、同一時間軸上の同一地点に、同じ人間は存在できねえ。時間の魔術ってのは制約が多いんだ。魔法使いでさえ例外はねえ。だが今回に限って、お前らに限っては話が違う。この場でお前らふたりだけが、過去の三日間の時間軸上に存在していない人間だからだ。
あの魔竜によって、アスタとパンは三日間だけ世界から切り離されていた。
空間と時間は相互に干渉し合うものであり、それらを操作する魔術とは根本的な部分で同一のものである――というのがアーサーの説明だ。
意味なんて、正直さっぱりわからない。
だが、アスタには初めから選択肢などなかった。
――この迷宮にはほとんど魔物がいない。外に追い出されたからだ。もちろん迷宮である以上、あとから魔物は生まれるし、実際にお前らも行き合ったんだろう? それこそが運命だ。
偶然にも魔竜に飲み込まれ。
都合よく三日間だけ空間から隔離され。
落とされた迷宮で、ほとんどいないはずの魔物と遭遇しそれを撃退。
この時点で魔術の使い方を修得し。
そして、最後には事情を知るふたりの魔術師と遭遇する――。
――いいか、運命っていうのは偶然っつー意味じゃない。むしろ必然のことだ。それらは世界に刻まれた絶対の決まりごと、ゆえに魔術をもってしても改変することはできない。だが、物事には必ず因果がある。決められた事実は、それを決めた要因があるってことなんだよ。そのことを頭に刻んでおけ。全ては偶然じゃない。何かしらの意図が介在している。数多あるはずの可能性を、ひとつの運命に収束させた《誰か》がいるっていうことだよ。わかるか? わからないなら今わかれ。
誰かしらの意図。つまりは黒幕がいるということだ。
誰かが、無数にある未来の可能性を、ただひとつに収束させる。
無限を唯一に変えること。
それが、運命という法則の中身だと彼は言う。
――今回の場合、オレの追っていた魔術師がそれを果たしたわけだな。オレを、ついでにマイアの馬鹿を迷宮に隔離した。邪魔をされたら困るから。なら外で何をしているかといえば、この迷宮から魔物を放出して何がしたいのかといえば……ひとつしかない。虐殺だ。殺したいんだよ。なんでか、なんて訊くなよ? そんなことに意味はねえ。あっても答えられねえし、仮に理由があったらそれを許すのか? そうじゃねえだろ。理由なんざ捨てておけ。どっちにしろ、常人にゃ理解できねえよ。
とうてい納得できる言葉ではない。
ここまで用意周到に、面倒で遠回しな手を使って行ったことが、ただ殺したいからだなんて……そんなことは馬鹿げている。
だが、馬鹿げているからといって放置できるわけじゃない。
アスタは覚えている。この町に来てから、助けてくれた人々のことを。暖かく迎え入れてくれた町の住民たちを、何も知らない余所者にいろいろなことを教えてくれた魔術師たちを。
その全員が殺されるかもしれないと知って、見過ごすことなんてできなかった。
たとえ、それが身の程知らずの大博打だとわかっていても。
――無理を言ってると思うか? まあ、だろうな。それはわかってる。だがもうここまで至ってしまった時点で選択肢はない。行ってこい。お前らにならできる、とは言わねえ。ただ、任せた。
魔法使いはそう言った。
最上位の魔術師が。不可能なんてないと思わせるほど逸脱した世界の頂点が。
今になって、頼れる相手がド素人の異世界人しかいないという皮肉。
――迷宮の結界を破れ。あるいは張られる前に防げ。もしくは、張った魔術師を倒せ。結界を解かせろ。そうすれば、あとは俺たちがなんとかする。
その言葉を最後に、魔法使いが魔術を励起する。
世界で唯一、彼にだけ許された秘術の極致。時間魔術。
その御業をもってして、ふたりの魔術師を過去へと送り出す――。
その間、マイアはやはりひと言も口を利かなかった。
※
「……意外だな。何も言わねえとは思わなかった」
アスタとパンを過去に送った直後、アーサーは小さくそう口にした。
視線は動かしていない。先程までふたりがいた、今は何もいない空間を見つめているだけだ。
だが、この状況で口を開く以上、話しかけた相手は決まっている。
「私が何か言おうとしても、どうせ止めたくせに」
マイアもまた、やはり視線は向けずに口を開いた。
張っていた気を少しだけ抜いたように、どこか力のない様子だ。
「だが、お前なら気づいていたはずだ」
「……まあ、否定はしませんけれど」
「どうしてだ? お前なら止めると思ったんだがな」
「確かに、初めは止めようと思いました。でも、私にはわからなかったんですよ、師匠」
師匠と呼んだマイアに対し、アーサーは否定を口にしない。
だから、マイアは続けてこう言った。
「――貴方が嘘をついて、ふたりを騙した、その理由が」
アーサーは。やはり否定を口にしない。
ただ無言で虚空を見つめていた。それをマイアは、先を促しているのだと解釈する。
「だからやめたんです。もし、多少なりとも師匠が《何をしようとしているのか》がわかっていれば、邪魔するか手助けするか、そのどちらかを私はしたと思います」
「……まあ、あの状況で何も言わねえ性格じゃないわな、テメエ」
「よくご存知で。……それでも何もしなかったのは、師匠が何をしようとしているのか確信が持てなかったからです。私にわからないことなら、安易に口を挟むわけにもいかないでしょう」
「――だが」アーサーが口調を変える。「察しはついてんだろ?」
マイアは答えた。
「確定した過去は変えられない。だって、もう運命に記載されているんですから。でなければ師匠の話は矛盾する。少なくとも三日間、私たちがこの場所に閉じ込められる事実はもう決定されている。そして確定した運命を魔術では覆すことはできない……そう言ったのは師匠ですよ。なら、その過去はすでに絶対です。もう、覆しようがない」
肯定も否定もない、そのこと自体が肯定だ。
そう。アーサーは嘘をついていた。
たとえ過去に戻ったところで、この段階ですでに確定した事実は変えられない。
でなければ、こうしてこの場所に存在するアーサーとマイアの存在自体が、すでに消滅しているはずだ。
改変されたはずの過去では、アーサーとマイアはこの迷宮に《三日間も閉じ込められることはなかった》はずなのだから。必然、今この場にいる《閉じ込められたアーサーとマイア》は存在しないということになる。ならなければ、それは矛盾だ。
そもそも《閉じ込められなかったふたり》は、当然ながら、アスタとパンを過去に送ることはしないだろう。その問題自体が発生していないのだから、解決のための行動を取る理由がない。
――いわゆる、因果の逆説だ。
この問題は解決しない。ゆえに初めから、問題そのものが生じない。
ふたりが過去を変えることは、絶対にできない。
「どうしてそう言い切れる? 運命は変えられない――その言葉のほうが嘘かもしれねえだろ」
アーサーが言い、そしてマイアが首を振る。
「そんな嘘は、それこそつく意味がないでしょう」
「オレが何をしようとしているのかわからねえんだったよな? なら、そこにもお前がわからねえ理由があったのかもしれねえ」
「なら逆に訊きます。どうして――他人を過去に跳ばす魔術なんて使えたんですか」
「……、」
「師匠の説明によれば、たとえ魔法使いでも因果には縛られる。ならそもそも理論的に、《過去へ跳躍する魔術》なんてものが存在することそれ自体がおかしいじゃないですか。それは意味のない魔術だ。だって、戻ったところで変えられない。それが事実なら、変えられないということを、師匠が知ってるわけがない」
そう。その情報が嘘でないと仮定するのなら、最低でも一度は試していない限り、無理だということ自体を知ることができない。
ならば――考えられる可能性は。
「前提条件の時点で師匠が嘘をついていないとするのなら。最低でも、魔法使いである師匠だけは例外的に過去へ跳べる。だからこそ、たとえ過去へ跳んでも歴史は改変できないという事実を知っている。そう考えるのが、まあ状況的にはいちばん妥当でしょう」
「……推測ばかりだな。ほかの可能性を消去し切れてない」
「ええ。ですが蓋然性は最も高い……と、私は思うってことですよ」
「そうかよ」
アーサーの口から、罵倒の言葉は出てこなかった。
まるで、その代わりと言わんばかりに言う。
「……まあ、とはいえ《運命》は観測されない限り絶対じゃない。三日間閉じ込められることは決まっているが、それが《三日以上》になるか、それとも《三日の段階で脱出できる》かは未確定ということだ。あのふたりが上手くやっていれば、今はもう脱出できるようになっているかもしれない」
「そのために、あのふたりを騙して過去に向かわせたんですか?」
「だとしたらどうする?」
ここで初めて魔法使いは、その視線を錬金魔術師へと向かわせる。
視線は鋭利だった。何か文句があるのかと、止めなかったお前に何が言えるのかと、その双眸が語っている。
だがマイアは、ゆるやかに首を横へと振った。
「あり得ませんね。師匠が、そんなことをするはずが……いえ、理由がありません」
「……ちっ」
舌打つアーサー。魔法使いをやりこめる人間など、そうはいるまい。
「これだから、小賢しいガキは嫌いなんだ」
「えー? 私は師匠のこと大好きですよー? あ、もちろんアスタも、パンちゃんもね?」
「……無駄話してる余裕ねえだろ。行くぞ馬鹿」
苛立たしげに髪を掻き乱し、アーサーは吐き捨てると答えも待たずに歩き始めた。
マイアは慌てて、「あっ、置いてかないでくださいよー」とアーサーの横に並び立つ。
その表情には、いつしか笑みが戻っていた。
アーサーは呆れ果てたと言わんばかりに、大仰な溜息をついてみせる。
「――で?」
「はい?」
「はい、じゃねえよ。わざわざ言い直したんだ、確信があるんだろう。聞いてやるから言ってみろ」
「では言いますけど……師匠って、いつも無駄に偉そうですよね――って痛たたたたたたっ! こっ、こめかみシメるのはノー、ノーです師匠!!」
「言葉には気をつけろ。偉そうなんじゃない、偉いんだよオレは」
「あいたた……乱暴だなあ、もぉ」
片手で握り締められたこめかみを、自分の指でマッサージしつつマイアは唇を尖らせる。
ただ、アーサーの視線が未だにマイアへ注がれていることに気づき、彼女はやがて口を開いた。
「……単純な話。あのふたりは戦力として期待できないでしょう? 事実として、任された仕事は、アスタとパンちゃんじゃ荷が重すぎる」
「そうか? あのガキ、魔術も知らねえ状態から、たった数日で、少なくとも三十層クラスの魔物とやり合って生き延びてんだ。才能があるんじゃねえの?」
「多少の才能があるくらいで、どうにかできる相手じゃないでしょう? その程度の相手に、ほかの誰でもない、アーサー=クリスファウストが裏をかかれるわけがないんです」
この点に関して、マイアの口調は断定的だった。
しばし、ふたりが迷宮を歩む硬質な音だけが響いている。
その無音ならぬ静謐をたっぷり耳にしてから、マイアは言葉を続けた。
「……私が会ったとき、すでに師匠は傷だらけでしたけど。あのとき、どれくらい驚いたかわかります?」
「オレだって人間だ。傷くらいつく。別に、魔法使いは戦いに強い人間という意味じゃないからな」
「そんなの方便でしょう」マイアは肩を竦めた。「それはその通りですが――冷静に考えて、魔法使いに傷をつけられる人間は限られます。そんな相手を、あのふたりでどうにかできるわけないでしょう」
「それは違う」
このとき、初めてアーサーはマイアの言葉に否定を返した。
推測を切って捨てられたマイアは、けれどアーサーの言葉に驚いた様子さえなく微笑む。
「……でしょうね。だとすれば、鍵になるのは――アスタですか」
「なぜ、そう思う?」
「このとき、この状況に、都合よく現れる異世界人……ちょっと出来すぎでしょう。物事には因果があると、そう言ったのも師匠です」
「お前、あいつが異世界人だと気づいたのか? なぜだ。その発想は、そうそう出てこない」
「え? ああ、それは単純な話、異世界人の知り合いがひとりだけいるんです。これは偶然ですけど――」
「偶然じゃねえよ」アーサーは吐き捨てた。「この状況で、世界にも滅多にいない異世界人と知己のある魔術師が都合よく用意されるなんて、偶然なわけがない。踊らされたな、お前も――オレも」
「……アスタと会うために、私はここへ来たと?」
「そうだ。オレを追っていたお前が、ここに追いつくこと自体はあり得るだろう。あたかも自然だ。――だが」
全てのことに、因果があるとするのなら。
果たして――アスタをこの世界に呼んだ存在とは。
「アイツは、この世界そのものに呼び出されたのかもしれない」
「世界、そのものに……?」
「そうだ。世界だって滅びたくはないからな。自分を守るモノくらい、自分で用意するだろう」
「…………」
「なら無謀でも、その賭けに乗る以外はねえ。どっちにしろ、あいつらがいなきゃここから出るのに相当な時間を食っちまうからな」
それだけ言うと、以降アーサーは口を噤んで歩き始める。
話をこれで切り上げるつもりなのだ、ということをマイアは察する。
このとき、彼女は言い知れない恐怖を感じていた。
まるで世界の全てが、人間より遙か上位のモノに用意された傀儡でしかないかのような。まるで自分も、あるいはほかのあらゆる全てが、誰かの――そう、たとえば神と呼ばれる概念の――遊び道具でしかないかのような。そんな恐怖を。
そして、ならば魔法使いは。
この世界で唯一、その絶対者に抗おうとしている人間なのではないだろうか。
だから――答えないとはわかっていたけれど。
マイアは、訊ねざるを得なかった。
「師匠の敵は。もしかして、一番目の――《運命》の魔法使い、なんですか……?」
意外にも、アーサーは答えを返してくれた。
少なくとも言葉は返ってきた。
「――だとするなら。それを教えて、運命を確定させるわけにはいかないな」
二日目達成。




