4-22『■■■■■■■』
目が、醒めた。それと同時に意識が冷めた。
冷たい床の感触と、鈍く響く身体の痛み。視界は薄暗く、仄かな明かりだけが唯一の色だった。
一ノ瀬明日多は弾かれたように立ち上がると、慌てて辺りを見回す。
少女はすぐ隣で、明日多と同じように意識を失っていた。見たところ外傷はないが、安心するのは早いだろう。
「パン……パン! 大丈夫か!?」
「う……、ん……っ?」
明日多の言葉に、パンが反応して身じろぎする。軽く頭を振りながら、少女は上体を起こすと明日多のほうをまっすぐ見据えた。
「……アス、タ?」
「ああ。怪我ないか、パン?」
「えと……うん。特に痛むところはないみたい」
「……そっか」
よかった。安堵が全身を包み、それと同時に脱力した。理性がそれどころではないと叫んでいるが、肉体のほうが追いついていないらしい。
気づけば明日多は、そのまま床にへたり込んでしまっていた。
「……わたしたち、確か魔竜に」
しばらくして、立ち上がったパンが不思議そうに言った。
明日多は「うん」と頷いて、もう一度立ち上がると改めて辺りを見る。
「呑み込まれた、って。思ったんだけどね」
その割に。辺りの光景には、とてもではないが生き物の感じがない。
「じゃあ、ここは魔竜の胃の中なの、かな?」
「知識がないからわからないけど」溜息をついて明日多は言う。「魔竜の腹の中は、こんな建物の中みたいな通路になってるのが普通なのか?」
「さすがに違うと思うけど……」
「……だよな」
首を捻るが、答えなんて出てはこなかった。考えてわかるものなのかさえ、今の明日多には定かでない。
ひと言で表現するのなら、そこは、狭い通路の途中だった。
大人ひとりが立って歩くには充分というくらいの、石畳が敷かれた四角い廊下。壁も天井も灰色がかった石で覆われており、とてもではないが生物の内臓だとは思えない。
そもそも狭い通路とはいえ、立って歩けるという時点で少なくとも魔竜の内部ではないだろう。
どちらかと言うのなら、マイアと訪れたあの迷宮が雰囲気としては最も近い。
「……転移した、ってことかな」
パンが言う。転移。つまりワープというヤツだろうか。
魔術が存在するのなら、それくらいの不思議はあってもおかしくない気がする。
「にしたってどこに……、っ!?」
首を傾げた。途端、明日多は思わずバランスを失い、膝から崩れ落ちてしまう。
なんだか気分が悪かった。
まるで全身を毒性のある泡で包まれているかのような不快感。頭痛と嘔吐感が、体内で激しい自己主張を開始していた。
「ぐ、……う」
「――アスタっ!」
思わず口元を押さえた明日多。その背にパンの掌が触れる。
「気持ち……悪い」
「アスタ、落ち着いて! 魔力を身体に巡らせるの!」
「魔、力……?」
「そう、瘴気に身体が侵されてるの。落ち着いて魔力を通して、毒を外に放出して。そうすればすぐよくなるから!」
言われるがままに、肉体へと魔力を巡らせていく。
エドと会話を交わして以来、魔力のコントロールは呼吸と同じくらい自然に行えるようになっていた。心臓から全身の末端へ、瞬時に魔力が巡らされる。何か流れがつかえるような感覚があり、おそらくそれが瘴気だろう。
それを強引に押し流す。
軋むような痛みが筋肉を苛んだが、瘴気の不快感はそれに勝る。痛みを無視して押し通した。
しばらくすると、全身を覆っていた不快感が消えていくのがわかる。
体内の瘴気を流し終えたからだ。ダメージ自体は残っているが、行動に支障が出るほどではない。
「……もしかしてここ、迷宮の中なんじゃ……?」
呟いた明日多に、パンも頷いて同意する。
「たぶん。わたしは入ったことがあるわけじゃないけど、でもこれだけ瘴気に満ちてるってことは……そうだと思う」
「瘴気ってのは、迷宮にしかないんだよね?」
「うん。魔力が長い年月をかけて、次第に腐っていったのが瘴気だから。もともとは同じものだけど、瘴気は迷宮にしかないよ」
「ふうん……?」
なぜか。そのことに明日多は違和感を覚えた。
けれど何が引っかかったのか。そこまではわからなかったし、パンが言うなら事実ではあるのだろう。深く気にすることはなかった。
それよりも、
「なんで魔竜の口から迷宮に?」
重要なのはそちらだ。迷宮というからには、魔物や、あるいはほかの危険が数多く待ち受けていることだろう。
早いうちに、脱出の糸口を探さなければならない。
「そんなの、わかんないよ」パンは首を振る。「そもそも魔竜なんて普通にいる魔物じゃないし」
「まあ、あんなのがそこら中にいるようじゃ生きていけないか」
「どうしよう……早く出口を探さなきゃ」
不安げなパン。戦力的には、それでも明日多より信頼できるはずなのだが、彼女はまだ十代の女の子でしかない。
もちろん、明日多だって年齢は変わらないのだが。
それでもこうなった以上、自分が彼女を引っ張っていかなければならないと明日多は思う。
もう、思考が麻痺しているのかもしれない。
「レファクールさんがいれば、頼りになったかもしれないけど……」
いや。あるいは彼女が巻き込まれなかったことを喜ぶべきか。
ともあれ、いつまでもここにいたって仕方がない。
明日多たちが魔竜に呑み込まれたことを知る人間はいないし、いたところで果たして明日多たちが迷宮に迷い込んでしまったなどと気づくかどうか。異世界基準でも、魔竜の口が迷宮に通じているなんて思われないことはパンの態度が証明している。
自力で脱出する以外に手はなかった。
「……どっちに行けばいい、かな」
放り出されたのは、まっすぐに続く通路の真ん中だ。
前か後ろか。出口がどちらなのか、判断できる要素はない。光源があることだけは幸いだったが、道の先はいずれにせよ闇だ。
「なあ、パン。出口がどっちかわか――」
「アスタ」
問いかけたところで、それを切るようにパンが口を開いた。
その表情は硬く、声音には緊張がある。彼女は明日多が着ている服の袖をきゅっと握ると、それを引っ張りながら通路の先――明日多の視線から後ろ側へと指を向けた。
「何か、聞こえない?」
「何かって……」
言われ、明日多は耳を澄ませてみる。
すると確かに、通路の先から何かとたとたと歩くような音が聞こえた。
その音に思わず息を飲む。
早足だ。おそらくすぐにこの場所へ辿り着く。だが明日多には、それが人間の足音ではないように感じられたのだ。
音だけで正確な判断ができるわけではない。けれど、なんだか足の数が二本ではないという気がする。
まるで四つ脚で歩く、獣の足音のような。
そう思った瞬間、今度は低く唸るような声まで耳に届く。明日多が判断するに、やはりそれは獣の喉音だ。
たとえば、そう。狼とか、獅子とか、そういった巨大な猛獣を彷彿とさせるような――。
「――逃げよう」
「え?」
判断は速かった。狼狽えるパンの手を取って言う。
「なんかものすごいマズい気がする」
「……わたしも」
と、パンが頷いた瞬間だ。
通路の先に、何やら大きな黒い影が見え――、
「――走るぞっ!」
答えはもう待たなかった。パンの手を引き、明日多は全速力で逆側に駆けていく。
「い、今、今なんか、アスタ……っ!」
「喋るな舌噛むぞ、いいから逃げるんだよっ!」
全速力。魔力の巡った肉体は、地球にいた頃と比較にもならない身体能力を発揮する。
パンもまた魔術師だ。初めは動転していたようだが、それでも走り出しさえすれば、むしろ明日多より速いくらいの速度で足が動いている。
だが最も速いのは、
「追ってきてる追ってきてる追ってきてる! ねえアスタ、なんか明らかに追われてると思うんだけど!」
「知らん! 気のせいだ! そういうことにしといて、お願い!」
「現実逃避してる場合じゃないよ!」
「いいんだよ! 逃げるが勝ちだから!」
「何それ!?」
動転のあまり会話がおかしい。とはいえ、もちろん明日多にだってわかっていた。
後ろから追ってくる《何か》のほうが、明日多たちよりわずかに速い。このままでは、すぐにでも追いつかれてしまうだろう。
逃亡という選択肢自体は正しかった。
だが、それはあくまで逃げ切ることができればの話だ。
「くそっ……!」
すぐ正面には曲がり角が見える。だがおそらく、ちょうどその辺りで追いつかれてしまうだろう。
舌打ちながら、明日多は足を止めず、首だけで背後を確認する。
そこにいたのは、真っ黒な体躯をした巨大な獣だ。
外見的には狼が近いか。けれど、その獰猛な目つきも、グロテスクに赤い口も、真っ当な生物のものとはとても思えない。
――魔物だ。
それも、思っていたよりずっと近くに――、
「パン、ごめん!」
反射だった。明日多は、パンを曲がり角の方向へと突き飛ばす。
「きゃっ!?」
場違いに可愛らしい彼女の悲鳴に、なぜか苦笑が零れてしまう。
そして。
明日多の身体に、巨大な獣の突進が直撃した。
「ぐ――、ぎ、ぃ」
覚悟して受けた攻撃。明日多は両手を身体の前で交差し、獣の突進を受け止めたのだ。
だが、明日多と同じくらいに大きな体躯を持つ魔獣の勢いを前に、その程度の防御は意味を持たない。
右腕が、べぎぃ、と酷く嫌な音を体内で鳴らした。
勢いのままに吹き飛ばされ、明日多は突き当たりの壁に背中から激突する。肺が溜めていた空気を、全て一気に逃がしてしまった。
「か、……ぁ」
背中が。いやそれ以上に腕が右腕がその骨が。
「っい、ぎいいいいいいいいいいいいいいぃぃぃぃぃぃぃぃぃっ!!」
激烈な痛みを主張する。
――折れた。完全に逝った。ちょうど肘と手首の中間辺りで、綺麗なまでに真っ二つ。
「あ、アスタっ!!」
横から、泣きそうなほど震えたパンの声。それが耳に届いたから、なんとか意識を保てている。
「――――――!!」
当然、骨が折れたからといって、魔獣が攻撃の手を休めるわけもない。どころかむしろ、機と見てとどめを刺しにくる。
そんなことは、初めから理解できていた。
頭が麻痺。それでいい。痛みなんて自覚している余裕はない。
歯を食いしばり、目からは涙を零しながら、それでも明日多は立ち上がる。一歩を前に出て、パンを庇うように獣の前に立ち塞がった。
足を、前に振るう。
蹴りというには狙いの甘い一撃。当然、そんなものが魔獣に通用するはずもない。
加えてその瞬間、
「――、ぶ」喉から。
血が溢れた。口の端を赤が流れ、明日多の顔を汚していく。
そのせいで動きが止まった。おそらく、壁へ激突した際にどこか中身を傷めていた。
がくり、と倒れ込みそうになる身体を気力だけで留めた。
――やばい。
動け。動かなければ死ぬ。動け動け動け動け動け――額の傷が焼けつくように痛み出した。きりきり、きりきり、と脳が痺れを発している。
死にたくない死にたくない死にたくない。
生きろ。生きろ生きろ生きろ生きろ生きろ生きろ生きろ生きろ生きろ。
果たしてそれは、明日多自身の意思だったのか。
それとも、ほかの何かに命令されたのか。それはわからない。
何もわからない。
――かちり、と。
瞬間。何かが噛み合う音が聞こえた。
きっと死んだ。これまでの自分を自ら殺した。一ノ瀬明日多はこのときに終わり、名前さえ持たない何かに変わった。
新しい何かを得た代わりに。
きっと、大切な何かを喪ったのだ――。
「――――…………」
そして――アスタは。
その目に、魔獣の笑みを捉えた、気がした。
巨大な魔獣の口元が、凶悪な歪みを浮かべていて。
だから。
「づっ……あああああああああぁぁぁぁっ!!」
刹那。アスタは、折れた右腕を強引に跳ね上げた。
それは盾だ。身体に一撃を食らうより、もう使い物にならないほうを犠牲にしたほうがいい。
そしてその動きは、魔獣も完全に捉えていた。
丸太のような四脚が爆ぜる。そう錯覚するほどの勢いで跳ねる。
びちゃびちゃと汚い涎を撒く赤い赤いあぎとが、アスタの腕へと吸い込まれるように近づいていき――、
――ぐちゃ――
と、その右腕を噛み砕く。
肌が裂かれ肉が貫かれ骨が潰れ痛みが走った。脳が脳が脳が。耐えきれない激痛に電源を強制終了しようと、
させるか。
「……捕、まえた……っ!」
なぜだか笑えた。どこか、そう、頭の何か大切な部分のネジが、弾け飛んでしまっている気がする。
ともすれば今よりもっと前に。この世界にきたそのときに。
何かよくわからないモノに、一ノ瀬明日多という精神を弄くられてしまっていたのだろう。
魔獣の鋭い牙は今、アスタの腕に深々と刺さっている。
痛みはない。
互いに、逃れられない近距離にいる。アスタは初めからこの瞬間を狙っていた。
――ルーン魔術は、だって、対象に直接刻み印すのがいちばん効果が高いらしいから。
アスタは左手の指で、口元から流れる血を拭う。
そう。右手が盾ならば、そのとき左手は――矛だった。
「犬の肉なんて、食ったことないし……試してみたい、ところだけど」
にやり、とアスタは笑みを浮かべる。笑え。哂え。嗤え。
血に塗れたその人差し指を、アスタは獣の額へと触れるように伸ばす。
何かを察したのか、魔獣は暴れた。太い脚の先の鋭い爪が、アスタの脇腹を引き裂いていく。
痛みはない。
魔獣が暴れるたびに、牙はむしろ深くアスタの腕に刺さっていく。逃げられない。いや、逃がさない。
痛みは――ない。
そして、アスタは獣の額に文字を刻んだ。
魔術の力を持つ印刻。
ルーン文字。
それが持つ意味は、火。
五大の元素の一角にして、原初より存在する破壊の概念。
「――お前、不味そうだし、いらねえや」
瞬間。魔獣の身体が炎上した。
■今回の茶番
アスタ「ほらやっぱ俺が主人公だ!」
パン「いやドン引きだよこれ!」
昨日は活動報告の更新をすっかり忘れておりました。
まことに申し訳ございません。
今日はきちんと書きましたので、よろしければご覧ください。




