4-21『挿話/弟子』
――あれから実に、四十八回ほど死んだ。
もっとも、数え間違っていなければの話だが。
「…………」
口を開く気力はすでにない。どうせ聞かせる相手もいない。
これだけの数の死を迎えてなお、自分の心がまだ死んでいないという事実に、ウェリウス=ギルヴァージルはわずかな笑みを零す。
初めの一回は、本当に死んだと思ったのだ。
魔竜。幻想の頂点に立つ、最強の一角。
その中に限って言えば、目の前のそれは最弱に近い一種なのだろう。それはわかる。
だが、魔竜の中で弱いという比較は、人間にとってなんの意味も持っていない。どちらにしろ、勝てないということに変わりはないのだから。
何が、今のお前なら勝てる可能性もある、だ。
そんな言葉を、ほんの少しでも信用した自分が馬鹿だった。いや、それを言うなら、そもそもフィリー=パラヴァンハイムに弟子入りした時点で阿呆以外の何者でもないが。それにしたってこれは酷い。
魔竜は強かった。
当たり前の話だ。強いから魔竜なのだと言ってもいい。
精神論でどうにかなる話ではないのだ。本当の意味での《天災》に歯向かうような行いだと言える。地震や台風を、生身で止めろと言われたようなものだ、と表現すればいいだろうか。
手加減なんてできるわけもない。文字通り死ぬ気で、全力を賭して死に抗った。
そして――当たり前の死を迎えた。それだけの話である。
フィリーの修行は、弟子入りした当初から苛烈を極めていた。それこそ死ぬ寸前まで行ったことが数え切れないほどにある。
とはいえ本当に死んだのは、さすがに初めての体験だ。
――いや、正確には違う。これもまた当たり前の話だが、いかな魔法使いでも死者を蘇生させることなどできない。つまりウェリウスは初めから死んでいないということになる。
それでも死んだ。そうとしか言えない。
一回目。ウェリウスは初手から切り札を切った。
体力も魔力も、人間と魔竜では初めから比較にならない。それでも打倒を考えるなら、最強の一撃を最速で決めるべきだろう。
ならば選ぶのは、ウェリウスが持つ最高の一手。魔法使いから授かった、三つの天網式のうちのひとつ。元素魔術師が、その研鑽の果てに至る極み。
それは、ここではないどこか、つまりは異界に存在するという概念を、この世界に接続する魔術。
すなわち精霊種――元素を司る概念生命を喚び出し、使役する究極のひとつ。
天網弐式。異界包括統御。
ウェリウスが喚び出したのは、扱える元素霊の中でも最も攻撃能力に優れる火の精霊だ。
それに名前はない。それに肉体はない。それはそもそも存在しない。
それは物質的な《火》ではなく、世界そのものに記述された《火》という概念の具現なのだから。
つまり《火》という概念に含まれた意味は、この魔術で全て行えるということ。燃やす、暖める、照らす、乾かす、焦がす、灰にする――。
その精霊に不可能はない。それが火という概念の中に含まれている限り。
精霊の火は世界の法則そのものだ。それはそういうモノであるとあらかじめ決まっており、全てにおいて優先する。質においては負けがない。
例外があるとすれば、それは相手が同じく《世界そのもの》である場合だけだ。
ここまで言えばわかるだろう。
魔竜とは、つまりそういうモノだった。
どちらも同じ世界の法則そのものならば、その優劣は質ではなく、ただ量でのみ競われる。
ウェリウスの火は、魔竜の皮膚を軽く炙るだけで終わった。いかにそれが世界の決まりそのものでも、扱うのが人間である以上、出力に限界は生じてしまう。
つまりウェリウスの全力の一撃は、ただそこに在るだけの、無防備な魔竜にさえ力負けする程度だったということだ。
その後の結果は言うまでもない。
目にさえ捉えられぬ速度で、魔竜の尾は振るわれた。魔竜にしてみれば、羽虫を払った程度のものだろう。
それだけで、ウェリウスの肉体は消し飛んだ。
回避だの防御だのなんて、考える時間すらなかった。気づけばウェリウスの全身は尾の一撃で粉々に破砕され。
ウェリウス=ギルヴァージルは、死んだ。
そして、気づけば生き返っていた。
「…………っ!?」
さすがに焦った。普段見せている余裕の笑みも、今回ばかりは消えている。
まさか、圧倒的な殺意を前に幻覚を見たのか――なんてことまで考えてしまったのだから、ウェリウスの焦燥も著しいことがわかるだろう。
まるで時間が巻き戻ったかのように。
気づけばウェリウスは、また魔竜の正面に立っていたのだ。
二度目。ウェリウスは愚かにも、同じ攻撃を繰り出し、まったく同じ過程を経て命を落とした。
三度目。またも理解できない事態に襲われる中で、今度は魔術を使う暇さえなく一瞬で魔竜に踏み潰された。
四度目。どうやら死んでも生き返るらしいと理解して、距離を取ったところで魔竜の突進で全身が破れた。
五度目。まずは一撃、どうにか防ごうと張った障壁ごと噛み砕かれて胴が千切れた。
六度目。必死に距離を取り、作戦を練ろうと考えた瞬間、魔竜の真骨頂たる息吹によって蒸発した。
七度目は――正直もう覚えていない。とりあえず、まあ何ごとかあって死んだことだけが確かだ。
そんなことをウェリウスは何度も繰り返し、気づけばもう四十八回の死を迎えていた。
これで四十九度目の挑戦だ。
「……いやはや。本当、あり得ないね」
乾いた笑い。そして意味のない独り言。追いつめられている証だった。
今、ウェリウスは魔竜から少し離れたところにいる。火の元素魔術による幻術――それによって、自らの身を隠しているのだ。
真っ当に当たっても殺されるだけだ。生き返るから、だから死んでもいいだなんて思えない。そんな甘えは魔法使いが許すまい。
とはいえ、手詰まりではあった。
いや。本当なら、もう心が折れていてもおかしくない。
ウェリウスは自身の実力を客観的に理解している。彼は強い。それこそ七星旅団にさえ匹敵するほどの強さが彼にはあった。慢心も卑下もなく、ただ事実としてそうだと彼は知っている。
少なくとも、現段階ではレヴィより強い。その時点で学院最強だと言って差し支えあるまい。まあクロノスの実力はわからないし、どこぞの天災や紫煙といった異常な例外もいるが、普通に考えれば彼は世界全体でさえ上位に位置づける実力者だ。
だからこそ理解できる。
その程度では、たとえ千回繰り返したところで魔竜は倒せないと。
それでもこうして戦っているのは、ひとえに自身の師に対する信頼があるからだ。逆を言えば、諦めていないことにほかの理由はない。
――確かに、ちょっとどころではないくらい異常な師匠だ。
だが、そんなことは弟子入りする前からわかっていた。相手は魔法使いだ。むしろ異常であってもらわねば困る。初めから、真っ当なんて求めていない。
それに、口ではなんだかんだと言いながらも、彼女はウェリウスを弟子だと認めてくれている。これまでに何度も死ぬような目に遭ってきたし、今回に至っては本当に死んだが、彼女は一度だって弟子の育成に手を抜いたことはなかった。《私の弟子なんだ、強くなってもらわなければ私の沽券に関わる》――その言葉に嘘はなく、欺瞞はなく、だからこそウェリウスは今の実力を身につけた。
まあ修行は本当に常軌を逸していたし、はっきり言っていつか殺してやろうかと本気で思うくらいにはいろいろとあり得ない暴虐に巻き込まれてはいた。体のいい使いっ走りとしてこき使われたこともある。
それでも疑ったことはない。
フィリーができると言うのなら、それはきっとできることなのだ。何か方法がある。あるいは何かの抜け穴がある。そう信じていた。
それが、魔法使いにとって最も唾棄すべき感情であることを知らずに。
「――話にならないな」
ふと、声がした。聞き間違えるはずもない、フィリーの声だ。
あれからどれくらい経ったのか。なんだか久し振りという気がする。
「師匠。いくらなんでも、魔竜には勝てませんよ」
「だろうな」
フィリーはあっさりと言った。
「だろうなって」
「勝てる相手と戦ってなんの意味がある。当たり前を起こしても修行にならないだろうが、間抜けめ。魔術師なら奇跡を起こせ」
「奇跡が起きなきゃ勝てない相手と、そもそも戦いたくないんですけど」
「なら諦めて死ね」
「…………」
なんだろう。普段と、フィリーの態度がどこか違う。
もちろん常から言葉遣いの悪い彼女だ。この程度の暴言は昔から飽きるほど浴びてきた。けれど、なんというか、言い方が微妙に違うのだ。
こちらの心を、嬉々として責め立てるときの喜びとは違う。
彼女の口調には、明らかに失望したかような怒りがあった。
「……師匠?」
「余裕だな。諦めたのか、それとも。いずれにせよずいぶん見苦しい。よくもそこまで弱くなったものだな」
「いや、もちろん諦めたつもりは――」
「――死んだんだぞ」
胸を。言葉が貫いた。
その瞬間、ウェリウスは確かに撃ち抜かれたのだ。
「生き返ったからいいとでも考えているのか? 馬鹿めが。だから負けるんだ貴様は。一度死ねば、人間はそこで終わりなんだよ。そんなことすら忘れたか。はん! お前にとって、オーステリアはずいぶんとぬるま湯い環境だったようだな」
「…………」
「魔競祭だってそうだ。確かにアスタ=プレイアスは強いだろう。だが決して敵わない相手ではなかったはずだ。いや、呪いのことを考えれば、お前が勝たなければおかしい相手だろう。違うのか? 自分を客観視するのは、ええ? 確か得意なはずだったな? だが現実はどうだ。お前は負けた。負けたんだよ。そして魔術師にとって敗北は死だ。死んだんだよお前は。それとも言い訳があるか? 試合だったから問題ないのか? 相手の全力を待ったせいか? 本気でやったら殺しかねなかったからか? で、それは敗北の言い訳になるのか?」
アスタ=プレイアス。紫煙の記述師。七星旅団の六番目。
魔術師ウェリウス=ギルヴァージルに、初めて土をつけた男。
「いや、なるだろうさ。確かにその通りだ。あんな公の場で魔術の秘奥を公開できるわけもない。しかも相手は呪われている。呪いを解いたあとならばともかく、呪われた状態の奴に本気で攻撃したら殺してしまう。殺すわけにはいかないよな? そりゃそうだ。しかもお前は、自分にとって全力で競うに値する相手と試合ったことなどほとんどない。相手は紛れもなく世界最高峰の魔術師のひとりだ。実力を試してみたくなるのもわかる。その結果として負けても、まあ仕方ないさ。いい試合だった。次は勝てるようにがんばろう。誰に訊いたってそれでいいと答えるさ。でも、ほかの誰がいいと答えても関係ない。そうだ、私はお前に、ウェリウス=ギルヴァージルに訊いている。いいのか? それでいいのか。お前が、お前自身が、自分にそれを許せるのか? どうなんだよさあ答えろウェリウス!!」
「――違う」
その通りだ。そんなことは許せない。
ほかの誰が認めても、ウェリウスがそれを認められない――。
「なら悔やめ。悔しがれ。何を笑って受け入れている。死ぬほどの後悔をしろよ。だって死んだんだぞ、お前は。殺されたんだ。アスタ=プレイアスに、目の前の魔竜に。負けてんだよ劣ってんだよ自覚しろいい加減、目を覚ませ」
「……悔しくないわけ、ないでしょう」
「なら隠すな。別に誰も見ていないだろう。気取るな。驕るな。死に物狂いで踊れよ無様に。そうして考えろ。思考を止めるな。どうすれば相手を殺せるのか――それ以外の些末が今のお前に必要なのか? あ?」
「……必要ない」
「そうだ。目の前の敵を見ろ。魔竜だ。幻想の頂点だよ。単身で殺せる魔術師なんざ、世界中探したって数人いるかどうかだろう。お前は強いよ。でも魔竜よりは弱い。魔竜を殺せる魔術師よりも弱い。当然、魔法使いよりも弱い。でもやったな、それでも充分に強いよ。――満足か?」
「そんなわけ――」
そんなわけがない。その程度ではまったく足りない。
なんのために生きてきた。
恐れられ、棄てられ、けれどその終わりに納得できなかったから。抗おうと思ったから今日まで生きてきた。
泥水を啜り、敵を殺し、その血肉を貪って生きた。魔法使いに弟子入りし、貴族の後ろ盾を得て――ただ頂点を目指すためだけにここまで来た。
まだ足りない。まだ届かない。
「ならどうする?」
決まってる。
「――今は無理でも、次の瞬間にはできれば文句ないですよね?」
魔法使いが。笑う声が耳に届いた。
まったくなんて女だろう。ウェリウスは思う。まさか、どう足掻いても無理な課題を、こうもあっさり寄越してくるとは想像もしなかった。
「そうだ。それでいい」フィリーの笑みが、見える気がした。「結局は精神論だよ。精神論で勝てない相手にこそ精神論で勝てよ。魔術はそういうものだろう。魔術師とはそういう生き方だろう。弱さを認めろ。受け入れろ。だが肯定するな抗え否定しろ飲み込め打ち勝て次に行け。心で負けてるから勝てないんだ、心で勝てれば死んでも死なない」
「……本当、無茶苦茶言いますよね」
「無茶とわかってこの国まで来たんだろう。ならやり遂げろ」
「わかって、ますよ……」
「言っておくが」
「なんです?」
「無限に死ねると思うなよ? そもそも本当に死んだら生き返れない。お前という存在の位相を、私がずらしているから死なないだけだ。その数は五十。つまり――五十回死んだら本当に死ぬ」
そういうことは先に言え、とウェリウスも笑った。
「今、確か四十九回目でしたっけ?」
「そうだな。だから、死ねるのはあと一回だ? やるか? 諦めるなら立たしてやっても構わんぞ」
「――うるせえよ」
まったく、好き放題に言ってくれるものだ。
今に見ていろ、魔法使い。
「五十回もいらねえよ。この一回で終わらせる」
「言い切ったな、馬鹿弟子が」
「当たり前だろうが。俺を誰の弟子だと思ってる」
ウェリウスは指を突き上げた。どこにいるかなど知らないが、けれど魔法使いに向けるつもりで。
同時に、元素魔術による幻覚を切る。もう――隠れる必要なんてない。
「……勝つ気か?」
問われた言葉に苦笑する。本当にこの師匠は。
いつだって厳しい言葉でヒントをくれる。
「当たり前だろ。ああ――この課題の目標はもうわかってる。俺じゃ魔竜には絶対勝てない。なら課題の意図は――封印だ。勝てなくても勝てる。負けなければそれでいい。――そうだろ?」
「……それがわかって、なぜ固執する? 勝てる相手じゃないことはわかるだろう」
「そんなん、やってらんねえよ。それじゃアスタの真似事だ。知ったことじゃない。僕は……俺は勝つ。倒す。魔竜如き、敵じゃないね」
「好きにしろ。死んでも知らん。――だから、別れは言わないでおく」
「言っておくけどな。次はテメエだ、クソバアア。今までさんざ弄んでくれやがって。俺がそのまま済ませるなんて思ってんじゃねえだろうな」
「ガキが。言ったな?」
「だったらどうした」
「私に向かって舐めた口を利いたんだ。――破門だよ」
「……師匠」
「師匠などとはもう呼ぶな。今をもって、お前は私の弟子じゃない」
「……ああ、そうですか」
「そうだよ――ウェリウス」
本当に。なんて――なんて師匠だろう。
この期に及んで、そんな言葉をくれるだなんて。
なんて――甘っちょろい師匠だろう。
――だから。
「それじゃあちょっと見ていてください、母さん」
「なっ――!?」
だから、これがせめてもの反撃。初めて一矢報いた気がする。
狼狽える魔法使いなんて、見るのはこれが初めてだ。
フィリーと最初に会ったときを、ウェリウスはふと思い出していた。
棄てられ、蔑まれ、死を待つだけだったウェリウスを。拾い上げて育ててくれた――ただひとりだけの師匠。
貰ったものの価値なんて、ウェリウスにはとても計り知れない。命を貰い、力を貰い、名前を貰い、言葉を貰い――きっと心も貰っている。
感謝を告げたことはなかった。口にせずとも、それはきっと伝わっているはずだから。
だから。それでも。だからこそ。
この戦いを。最後の修行を。
弟子から師に向ける、最後の「ありがとう」に代えるから。
次は《魔竜殺し》の称号を持って。
「――さて。それじゃあちょっと、爬虫類駆除といきますか――!」
対等な関係で、その名前を呼ぶために。
ウェリウス=ギルヴァージルは、魔竜を殺す。
■恒例行事・今回の茶番
アスタ「ねえ、ちょっと待って。主人公は俺じゃ……」
シャル「…………」
アスタ「いや無言で肩に手を置くんじゃねえよ」




