4-18『魔術の適性』
遅れました、申しわけない。更新です。
「いやあ、助かりましたよー」
銀髪金眼の男の声に、明日多は「はあ」とだけ答えた。
エドワードと名乗った男。彼は冒険者として活動している魔術師のひとりだと自己を紹介した。
「とはいえ、実際には研究職が主なので、あんまり戦うのは好きじゃないんですけど」
とは本人の談。実際、明日多がこれまで出会った強い魔術師――あの魔法使いの男や、マイアのような――独特の個性というか、鮮烈な雰囲気が彼からは感じられない。本当に、冴えない下っ端とった風情だ。
今は連れ立って、町を目指して道を歩いている。
明日多が「この先は危険らしい」と伝え、同行することになったのだ。
結局、それ以外のことは彼にも言わなかったのだが。
あのマイアならば。きっと、あっさり解決して戻ってくる。そんな予感があった。
「新興の迷宮だと聞いていたので、人の手が入る前に調査しておきたかったのですが」
道すがら、エドは意外にもよく喋った。
どこか弱気そうに見えたのだが、別に人見知りするタイプというわけでもないらしい。口数多く自身の研究について語る様は、なるほど研究者らしい、と勝手なイメージで思わせる。
「えっと。エドさんは、迷宮について研究してるんですよね?」
「そうなんです」明日多の問いに、エドは微笑む。「迷宮については、今日もわかっていることが少ない。裾野は広いと思うのですが、手をつける人間がどうしても……なにぶん古く、そして危険な場所ですから。冒険者でもない限り、入ろうという人間は多くないんです」
「冒険者……」
「ええ。迷宮冒険者。その彼らだって、大半は日銭を稼ぐのが目当てですからね。冒険する者とは名ばかりで、実際に迷宮の攻略、踏破を目指そうという人間はほとんどいません。本当はぼくも、管理局に依頼を出して、冒険者を護衛として斡旋してもらいたかったのですが……なかなか。決してお金があるわけでもないですし」
まくし立てるようにエドは言う。だが話の内容は、明日多としても興味深い。
実のところ、明日多はこの異世界において、身を立てる方法として冒険者職を考慮に入れていた。それも上位の選択肢として。
せっかく魔術なんていう不可思議な力があるのだ。それを使って生きていきたいと考えるのは、不自然なことではないだろう。人並みの憧れもあるし、ほかの仕事が見つけられるとも限らない。命懸けにはなるが、やろうと思えば資格もいらない。そんな、甘い考えではあったが。
もっとも、自分に魔術の才能がないということは、明日多もすでに理解している。その危険性だって、これまでに突きつけられてきた。だから半分は諦めているのだが、やはり憧れは否定できない。
「魔術がもっと上手く使えれば、俺も冒険者を目指したんですけどね……」
「苦手なのですか?」
溜息とともに零す明日多。初対面のエドを相手に、ずいぶんと気を抜いた発言だった。
そういう男なのだ。エドワードが。
心の隙間にするりと入り込んでくるというか、どうにも警戒心を抱かせない。まるで古くからの友人であるかのような気安さを、この短時間で感じさせるところがある。
あるいは初対面であったからこそ、愚痴を言えたのかもしれない。
それくらいには、才能のなさにショックを受けていた。突然に異世界へ落とされた事実のほうは、意外にも簡単に受け入れられたのに。
「……見たところ、魔力はかなりの量をお持ちのようですが」
腕を組み、考え込むようにエドが言った。
それだけは唯一、マイアにも褒められた明日多の才能だ。
「訓練ではどうしようもないことですからね、こればかりは。その意味で言えば、アスタくんには魔術の才能があるように思いますよ」
「でも実際、習った魔術はほとんど使えませんでしたから」
「それはおそらく、自分の適性をまだ理解していないからでしょう」
「え?」
首を傾げる明日多に、エドは頷いて答える。
「全ての人間に、必ずひとつは魔術の適性があると言われております。例外なく全ての人間に、です」
「でも……」
「たとえ魔力がない人間であっても、ですよ」口を開きかけた明日多を、手で制してエドは続ける。「魔術の適性とは結局、自身の魂の反映ですからね。魔力がなければ魔術は使えませんが、それとは別に適性自体は誰もが持っているのです。これは、いわゆる才能とは根本的に別の話です。自分という存在のカタチを、そのまま外部に表すことなのですから。それがひとつの世界という枠組みの中にあるものだという以上、ここに例外はありません。人間とは、世界に創り出されるものですからね。いえ、もちろんヒトを生むのはヒトですが、そのヒト自体がそもそも世界の創作物です。だから例外があるとすれば――それこそ世界の介入を受けず、完全に人間だけの手で造られた存在くらいですよ」
「……よく、わからないんですけど」
眉根を寄せて明日多は言う。魔術の理論を、未だ理解できたとは言い難い明日多にとって、エドの話は正直なところ意味不明だ。
だが伝わらない、ということはエドにもわかっていたのだろう。彼は軽く微笑むと、非常にわかりやすい表現でこう言った。
「要するに、アスタくんにも何かひとつ、使える魔術は必ずあるということです」
「そう、なんですか」
「そうです。ほかの魔術が使えないということは、むしろ逆に利点だと考えてもいいくらいですよ」
「ええ……?」
「なぜなら、適性なんて外から調べる方法はないですから。それが魔術、つまりある程度の熟練を必要とする技術である以上、適性があろうと訓練は必ず必要になります。ですが普通の魔術師は、どの魔術が自分に最も適しているのか、そうそうわかりません。やってみないことにはね。だから中途半端になってしまうことが多い」
――ですが。
とエドは続ける。学者を自称するだけあって、その語り口調は理路整然としていた。
「アスタくんの場合は違う。ほかの魔術の適性がばっさり切れているということは、つまり使えるたったひとつの魔術だけを極めればいいということです。これは有利だ。なにせそれは、アスタくんに最も適した魔術なんですからね。その一点に限って言えば、ほかの誰が使うよりずっと速く、ずっと上手く使いこなせるはずです」
「……じゃあ。俺に向いてる魔術さえ見つけることができれば」
「ええ」エドの微笑みは柔らかだった。「アスタくんはきっと一廉の術者になれる。魔術師は万能を目標とするものですが、冒険者ならばその必要はありません。一点特化の魔術師を目指せばいいだけです」
――希望が見えた、ような気がした。
一ノ瀬明日多に扱える、たったひとつの魔の術を。
これから探していけばいい。
「これも何かの縁です。アスタくんに向いた魔術を探すお手伝い、このエドワードにさせてください」
いくぶん足取りが軽くなった明日多に、エドは邪気のない笑みで言う。
「いいんですか?」
「もちろん。あの場所が危険だと教えてくれたお礼です。ぼくは真っ当な冒険者ではありませんが、それでもその端くれとして、情報には対価を支払わなければなりません。いわば恩返しですよ」
「ありがとう、ございます」
「任せてください。これでも学者ですから、知識はそれなりにあるつもりですよ」
では、とエドは言葉を切り、咳払いをひとつした。
隣を歩く明日多に視線を向けると、彼は指を立てて、こんな質問を明日多にぶつける。
「えっと。体内に魔力を巡らせることはできるんですよね?」
「あ、はい。そこまでは」
「ではちょっとやってみてください」
言われた通りにした。もう明日多はエドの言葉を疑っていない。
ここまでは、マイアに習っていたのだ。
その教えの通りにイメージする。心臓の辺りに、自身の魔力を精製する炉を幻視する。その鼓動を幻聴し、その脈拍を幻覚する。
そこから、まるで血液が全身を巡るように、魔力が肉体へ広がっていく様子をイメージした。じんわりと温かなお湯に全身が浸るような、それでいて粘り気のある不快な泥に包まれるような、快とも不快とも取れない矛盾した感覚。それが、魔力操作の成功を知らせる。
「そうです」魔力の気配を察し、エドが頷いて問う。「今、どんなイメージを思い浮かべていましたか?」
「えっと……心臓の辺りから、こう、魔力が血管に沿って送られていくみたいな」
「映像的ですね。その割には遅い……アスタくん、そのイメージは誰かから教わったものではないですか?」
「……そうです」
「では一度、魔力を戻してください」エドの眼鏡が光った気がした。「それから今度はもっと速度を意識して。できる限り速く魔力が巡るような、そんなイメージを自分で作り上げてみてください」
「やってみます」
速さを意識して、再び同じことに挑戦する。
段階を追ってイメージを作っては、速度が遅くなってしまう。もっと速く賭けるにはどうすればいいのか。
炉心から回路へ。
心臓。魔力の貯蔵庫。そこを出て腕へ脚へ頭へ胸へ腰へ全身あらゆる骨筋肉神経まで――。
「そうです! 今、どんなイメージを?」
「えっと、いやさっきと大差ないですけど……こう、単純に過程を省略して早送りしたみたいな。心臓から手に足に、って」
「そのイメージは映像でしたか?」
「……いや」首を振る。「言葉でしたね」
「音でしたか、文字でしたか」
「音……いや文字かな? たぶん両方でした」
「やはり」エドは首肯する。「アスタくんに魔術を教えたヒトは、おそらく感覚派でしたね。けれどアスタくんは典型的な理論派だ」
「理論派、ですか」
「ええ。理屈と感覚……矛盾するふたつの両立が魔術の前提ですが、それでもたいていの場合、魔術師の適性はどちらかに寄ります」
言っていることは、やはりよくわからない。
だが、マイアが感覚派というのはよくわかる気がした。たぶんパンもそちら側だろう。アーサーは、どちらだろう。どちらとも言えそうだ。
「ではもう一度。今度は音か言葉か、どちらかやりやすいほうでやってみてください」
エドの言葉に頷き、三度、明日多は魔力を循環させる。
だがいざやってみるとなると、言葉か音か、果たしてどちらを選ぶべきなのかよくわからなかった。
上手くいかない。先程と大差のないイメージしか思い浮かばなかったのだ。
「すみません……失敗したみたいです」
「いえ」エドは首を振る。「成功です。先程よりだいぶ速い。最初と比べれば雲泥の差です。ほとんどモノにしてますよ」
「……そういえば」
「だいたいわかりました。町についたら、合っていそうな魔術をいくつか試してみましょう。知識だけはありますからね、いろいろ教えられると思いますよ」
「ありがとうございます」
「いえいえ。……で、実はですね?」
エドはそこで、ちょっと卑屈な笑みを浮かべて頭を掻く。
そして、恥入るようにこんなことを言った。
「――その代わりと言ってはなんですが、町についたら、宿を紹介してはいただけませんかね?」
「宿ですか?」
「ええ。迷宮の噂を聞いて飛び出してきてしまったものでして、実は寝るところも確保していないんです。……あと、できれば宿泊料は、その、あまり高くないところがいいんですけれど……」
恐縮して言うエドに、明日多はふっと力を抜いて微笑んだ。
「それなら、いい宿を知っています」
※
連れ立って水瓶亭まで戻ると、明日多を出迎えたのは怒りの形相を浮かべたパンだった。
腕を組んで仁王立ちし、頬を膨らませ唇を突き出している。柳眉は逆立って、見るからに「怒ってるんだから!」という感じだ。
実際、怒っている。
明日多とて、それがわからないほど鈍感ではない。
「……パ、パン?」
おそるおそる声をかけた明日多に、パンはむくれっ面で呟く。
「置いてった」
「あ、いや」
「除け者にした。アスタだけどっか行ってた。わたしのこと仲間外れにした」
「ちょ、パン、そんなつもりじゃ」
「わたしのほうがお姉ちゃんなのに! ずるいずるいずるい!」
完全に拗ねているパン。お姉ちゃんと言うが、明日多からすれば、正直パンは同年代に見えない。
もちろん、そんなことを言って地雷を起爆させるつもりはなかった。
中学生にもなれば、こういうときに勝ち目など初めからないことくらい学ぶものだ。
「……いや」だから、誤魔化しにかかった。「別にパンを置いてったわけじゃないよ?」
「だって、ずっといなかったじゃん」
「マイアはひとりでどこかに行ったんだ。僕はこちらの……エドワードさんと会ってただけ。そうですよね?」
会話の矛先をエドに向ける。
パンは、そこで初めて存在に気づいたという風に、「うぅ」と言葉の勢いを淀ませた。好機だ。
「あ、はい。この町まで案内していただいたんです」
空気を読んでくれたのか、エドは持ち前の柔らかい笑みで頷く。
パンは「え、あ、そう……ですか」とごにょごにょ呟いた。マイアのときもそうだったが、どうも見知らぬ年上に対しては、ずいぶん人見知りする性格らしい。明日多のような同年代や、町の大人たちには砕けているのだが。
「ここ、お宿なんですよね? しばらく滞在したいのですが……」
そう告げたエドに、硬い表情でパンは首肯する。
「え、えと。はい……今、お母さん呼んできます……」
言うなりとたとたと奥へ駆けていく、もとい逃げていくパン。
上手く誤魔化せた、と明日多はひと息をついた。ともあれあとでまた、別の方法でご機嫌取りをする必要はあるだろう。
マイアが来てからというもの、パンの機嫌は一貫して低空飛行だ。それが爆発してしまう前に、フォローを入れておく必要がある。
もともと、妹がいた明日多である。
年は離れていたし、パンとは違ってかなり大人びた性格の子だったが、それでも年下とのつき合い方は学べていた。だから明日多にとっては、むしろパンのほうが妹のような感覚だ。
――元気にしているだろうか。
明日多は、地球にいるはずの妹について思い出す。両親や友人とも仲は悪くなかった。それなりに幸せな、ごく普通の生活だったのだろう、と今になって思い始めている。それがどれほど貴重だったことか。
それでも思い出すのは、なぜだろう、妹のことが大半だ。きっとパンに会ったせいだろう。
仲が悪かったわけではない……と思っている。かといって、仲がよかったかと問われると返答に詰まる気がした。
次に会えるのはいつのことか。それとも、もう二度と会えないのか。
わからない。その事実に、どんな感情を抱くべきなのかさえ。
――きっとアイツは泣かないだろう。
そんな確信があった。突然にいなくなった自分について、どう思うかはわからない。それなりに悲しんでくれると、それなりに惜しんでくれるとは思う。けれど――泣くことはしないだろうと、そう思う。
父は。母は。ほかの誰かはどうだろう。
突如として世界から消えた明日多のために、涙を流してくれる誰かはいるのだろうか。
わからなかった。わかるはずもない。
誰より明日多自身が、涙さえ流せないでいるのだから――。
「――あら。帰ってたんですね、アスタくん」
ふと名前を呼ばれたことで、明日多の意識が強制的に浮上させられる。
気づけば、エドの姿はなくなっていた。それにも気づかないほど、思索に集中してしまっていたらしい。
奥から声が聞こえる辺り、おそらくはパンの両親に呼ばれて宿泊の手続きをしているのだろう。
そこまでを認識して、ようやく明日多は声を発した。
「どうも、レファクールさん。おはようございます」
明日多の名を呼んだ丁寧語の女性。彼女はこの水瓶亭に宿泊する客のひとりで、芸術家を名乗る風変わりな女性だ。
名をレファクール=ヴィナ。妙齢の女性で、非常に美しく、そして艶めかしいひとだった。本人の性格は、どこか浮き世離れした部分があるものの基本的には普通なのだが、常に薄着で目の毒なのだ。
「はい、おはようです。今日の修行は終わりですか?」
なんだか、虚空に見えない何かを見つけたかのような、非常に透き通った眼と声音でレファクールは言う。象牙色の長髪が、なんだか空気の流れを無視してなびいているように見えた。
「ええまあ、いろいろありまして。レファクールさんはこれから?」
「そうですね。今夜は湖に行こうかと」
この町に来た目的は、絵を描くためだと彼女は言う。普段はほかにも彫刻から陶芸と、こと芸術関係の分野には片っ端から手を出しているそうだが、今は絵に傾注しているという話だ。
明日多はふと思う。あの湖には、魔竜が潜んでいるという事実を。
今のところ、その情報は明日多とマイア、そしてパンの三人の間で止められている。湖の底にある結界の外に、あの魔竜は決して出てこないとマイアが言ったからだ。
だが、かといって明らかに危険がある場所に行くという彼女を、果たして無視してもいいものだろうか。出てこないとは言え、自分から潜れば魔竜に襲われることもある。
神聖視されている場所らしく、地元の人間が寄りつくことは滅多にないらしい。生活用水は湖からではなく、別の場所から汲んでいるそうだ。だから秘密にしているのだが、放置したままというわけにもいかない。
いずれは知られることだろう。それより先に、解決の糸口が掴めれば別だろうが、マイアに聞いたところ、魔竜は魔物としても格が違うらしく、普通の魔術師がいくら徒党を組んだところで勝ち目はないらしい。
「倒せる人間がいるとするなら、それこそ魔法使いくらいだろうね」
マイアはそう言っていた。あるいはそれを期待しているから、あえて伏せているのかもしれない。
ともあれ。そんな場所に、レファクールをひとりで送り込むのは問題な気がする。
短いつき合いとはいえ、同じ宿の客として何度も会話を交わした仲だ。女性がひとり旅をしているだけはあって、魔術師としての腕も持っているらしいが、かといって魔竜を倒せるとも思えない。
せめて、ついて行くくらいのことはするべきじゃないだろうか。
そう考えあぐねていた明日多に、
「――アスタくんも、いっしょに来ますか?」
「え……っ」
レファクールのほうから、そんな申し出があった。
明日多は面食らう。完成した作品ならば別だが、製作しているところを見られるのは嫌だと彼女は常々言っていた。
だから、まさか彼女のほうから誘われるとは思っていなかったのだ。
「いいんですか、レファクールさん?」
訊ねる明日多に、彼女は特に笑みも見せず、けれど柔らかい口調で答える。
「ええ。アスタくん、このところパンちゃんと喧嘩中でしょう?」
「喧嘩と言いますか……いや、まあ、そうですね」
「パンちゃん、意地っ張りなところがありますからね。私が誘ったという名目なら、いっしょにお出かけできるんじゃありませんか?」
「……すみません。なんか、気を使ってもらっちゃったみたいで」
「いいんですよ」レファクールは笑わない。「いい雰囲気になったら消えますから」
「いや、そこまで気を使ってもらう必要はないですけど」
「そうですか……」
珍しく、ちょっと視線を伏せるレファクール。なんだろう、残念そうに見えるのは気のせいなのだろうか。そこが少し気になった。
ともあれ、提案自体は渡りに船だ。パンと仲直りするきっかけにもなるし、一石二鳥と言えるだろう。
明日多は礼を告げ、その話をパンにもしようと店の奥に向かう。
……この世界に来てからというもの、いろいろなことを考える時間が増えていた。いや、正確には時間があっても考えてこなかったことに、今になってようやく目を向けたと言うべきか。
いろいろなひとの善意に、助けられて生きている。
その自覚が、このところ色濃く渦巻いている。
背後にはレファクールの視線を感じた。何を考えているのかいまいちわからない、独特の雰囲気を持ったひとなのだが、それでも彼女はこちらのことを考えてくれていた。
レファクールだけじゃない。パンにも、その両親にも、マイアやエド、あるいは宿のほかの客から町のみんなに至るまで。アーサーだって含めていい。世界は善意に溢れていた。
異世界転移だなんて、普通に考えればそれだけで死因だ。
けれども、明日多は今だって生きている。
こんな異常事態にもかかわらず、それでも明日多は日々を生きることができている。
自分ひとりでは、きっとどこかで野垂れ死んでいた。最初の時点で魔物に喰い殺されていただろうし、あるいはその事件がなかろうと、金も身寄りも能力もない中学生のガキが、異世界で生き抜くなんて絶対に不可能なことだったろう。
――それを、恥ずかしいとは思わない。
ただ嬉しかった。誰かの善意で、誰かの好意で生かされている。その事実が暖かい。
たとえ、地球に帰ることができないとしても。
この世界で、今までと違う、そしておんなじ日常を送ることができるだろう。
そんな風に思っていた。
そんな感傷にいきなり浸ってしまうくらいには、明日多もきっと、先を恐れていたはずだ。
レファクールさんは夜型だ。こんな時間に起きてくるくらい朝に弱い。
だから湖に出かけるのも夜になる。その前に、まずはパンといっしょに夕食を食べよう。
異世界の料理は、お世辞にも地球と比較して出来がいいとは言えないけれど。
パンたちといっしょに囲む食卓には、地球では気づいていなかった暖かさがある。そのことを、みんなが明日多に教えてくれたから。
今夜もきっと、楽しい夕食になるだろう。そんな確信を抱いていた。
――だから。
それがこの水瓶亭で食べる、最後の晩餐になるだなんて。
一ノ瀬明日多は、想像さえすることがなかった。




