4-17『王城の夜』
「――で、なんの話だ?」
王城の庭を抜け、煙草を取り出して俺は訊ねた。
陽はいつの間にか沈んでいて、その名残がわずかに残る程度の明るさしかない。城壁に囲まれたこの王城までは、街の喧噪も届かなかった。
敷地の中で、最も高い塔をふと見上げた。その先端で風を浴びている旗には、逆さに刻まれた十字の意匠。エウララリアの一族を象徴し、国旗としても使われている紋章だ。オーステリア学院の校章にも、同じ逆十字が刻まれている。
その旗のさらに上には、薄く星空が見えている。
「別に、何というほどの用はねえけどな」
教授は軽く肩を竦めた。そうか、と俺は頷く。
「一本くれ」
「たかるなよ」
「取りに帰らせなかったの、お前だろう」
「……確かに」
もちろん初めから、渡す気ではいたのだけれど。
一本を渡し、次いで燐寸の箱を手渡そうとすると、教授はそれを片手で制した。そのことが俺には意外だった。
七星旅団に、喫煙者は俺と教授だけだ。だからこうして肩身狭く、ふたり端っこで煙をくゆらせることは何度かあった。そういったときはよく雑談に興じていたし、一対一で話した回数ならば、もしかすると教授がいちばん多いかもしれない。
その教授は、煙草を吸うときは必ず燐寸で火をつけると決めていた。着火具や魔術は用いず、必ず燐寸で。銘柄にこだわりはないくせに、そんなところだけ頑固だったのを覚えている。
その教授が今、なぜか魔術で火を灯す。煙草を口にくわえると、その先に自然と火が着いたのだ。
「……今、俺はどんな魔術を使った?」
そして教授は、そんな風に問いを出す。
「いきなりなんだよ……普通に、着火の魔術だろ」
「そうだな」教授は頷く。「モノを燃やすという魔術だ。これは火の元素魔術とは違う」
単純に《火を操る》元素魔術と、《モノを燃やす》という結果を起こす普通魔術。起こる結果は同じでも、理論的にはまったく別の術である。
実際、教授が持つ属性は確か《地》と《風》の二重。火の元素魔術は使えないのだから、まあ、当たり前の話ではある。
「それがどうかしたのか?」
そう訊ねた。話の脈略はよくわからない。だが教授は、意味のないことは基本的に話さない。
「元素魔術は、基本的に普通魔術より楽だな?」
「……まあ、普通はそうだな」
両方使えない俺には、わからない話ではあるが。
答えると、教授は静かに息を吐き、そしてこう言った。
「おかしいと、そう思わないか?」
「……何が?」
「元素魔術より、普通魔術のほうが難しいという事実がだよ」
「いや、そう言われてもな……」眉根を顰める。「実際、その通りなんだから、そういうものだとしか」
「だが着火の魔術より、元素魔術のほうがやっていることは高度だ。一本の煙草に火をつけるのが精々の術式と、規模によっては街ひとつ焼き払える元素魔術とで、どうして前者のほうが難易度が高いんだ」
「……術者次第だろ、そんなの」
火の元素魔術師の誰もが、そんな大規模な魔術を使えるというわけではない。ウェリウス並の才能があれば可能だろうが、誰もがあの領域まで到達できるわけではなかった。
確かに、元素魔術はある一定の領域を超えると難易度が劇的に上がると言われる。
そもそもこの魔術は《操作》《増幅》《精製》《付加》《召喚》の段階に分かれていると言われる。元からあるものを操ること、それ自体に魔力を加えて規模を増すこと、魔力だけで一から元素を創り出すこと、創り出した元素を別のモノに足して属性を与えること――そして、創り出した元素それ自体に別の効果を加えること。この五段階だ。
三段階目の《精製》までなら、適性さえあれば誰でも比較的容易に到達できる。だが《付加》の段階まで至ると突然に難易度が跳ね上がり、《召喚》――すなわち元素の中に別の概念を付与すること――の段階となると、これはもう限られた天才にのみ許された領域だと言える。
「召喚の領域まで行くと、あれはもはや概念魔術の類いだ。だが概念魔術は基本的に、ほかの魔術とは一線を画している」
教授は淡々と語る。その視線は、煙草の火種に注がれていた。
俺は答えず、自分でも煙草に火をつけて答えを待った。着火には燐寸を使った。
「本来、魔術とは世界の法則を書き換える行為のことだ。《燃えていないモノ》を《燃えているモノ》だと、嘘をついて世界を誤魔化す――それが魔術だ。結界、元素、転移、魔弾、治癒……全て同じ。どんな魔術師だって、魔法使いだって変わらない。けれど」
ひと息。教授が紫煙を吐き出す。
「――概念魔術は違う。あれは、あらかじめ世界に《書かれていた記述》を、そのまま持ってくる行為だからな。だからほかの魔術に対し、質の上で有利に立てる。ほかの魔術が必死に嘘をついて誤魔化しているのに対して、概念魔術は初めから正解――正しい記述だからな。どちらが上かは言うまでもない」
「…………」
「お前の印刻なんて、まさにそれだ。神の文字であるルーンはいつだって絶対に正しい。当たり前だな、ほかの魔術師が必死に文章を書いている中で、お前はただ正解を貼りつけしているだけなんだから。印刻は、どんな魔術に対しても絶対的な優位がある」
「……簡単に言うぜ、まったく」
「簡単?」教授は笑わない。「悪い考えだな。アスタこそ馬鹿を言うな、簡単なものか。あんなことができる魔術師は、世界中を探し回ったってお前くらいのものだ。事実、俺にだって印刻魔術は扱える」
けれど。
教授は紫煙を吐く。
「お前のように印刻を使うのは絶対に無理だ。あんな解釈で、事実だけで嘘を言うような真似が――お前以外にできるものか」
「……結局、なんの話なんだ?」
「さあな」教授は軽く首を振った。「ただ訊きたいだけだ。――結局、お前はどうしたいのかということを」
「どうしたい、って」
「呪い。本当に解きたいのか?」
「……当たり前だろ」
俺は首を振る。そのために教授を頼ったのだから。
何かヒントでも貰えないものかと。そのために王都を訪れた。
今の俺では、戦うための土俵にさえ立てない。
「――本当に?」
だが。だが教授は頷かない。
一音一音を区切るように、ゆっくりと確認の問いを投げる。
「本当に、呪いを解きたいと、そう考えてるのか? ――本当に?」
「……何が言いたいんだ」
「単なる確認だと言っただろう。何が言いたいわけでもない。訊きたいだけだ」
「……、」
「呪われていれば、お前はもう何もしなくて済むからな。本来なら死んでいておかしくない呪詛だ、充分な言い訳になる。今のお前なら、戦いに身を投じずとも、どこか適当な田舎でゆったり暮らしていくことも可能だろう。その機会を棄ててまで、もう一度、元の場所に戻るつもりか?」
「――当たり前だろう」
俺は、笑った。何を言うのかと思えばだ。
そんな葛藤、とうの昔に棄てている。少し前ならともかく、今の俺は戦うことに前向きだ。少なくともそのつもりでいる。
メロに。あるいはフェオに、アイリスに、ピトスに。
それだけの意志は貰ったつもりだ。
「……そうか」教授は頷いた。「やはり変わったようだな、お前は」
「そうか?」
「ああ。そして――だからこそわかっていない」
教授は。どこか、寂しげな表情をしていた。
彼には珍しい表情を。
だがすぐに表情を引き締めると、彼はあっさりとこう告げる。
「――教団に関してだが。俺はお前に教えておくことが三つほどある」
「突然だな、また」
俺は驚きつつ答えた。ともあれ、聞かないわけにはいかない。
教授は、今度はこちらに視線を向けて口を開く。
「まずひとつ。教団の実験は、おそらくすでに完成している」
「……またいきなりだな」
「ふたつ。この王都の地下には迷宮がある」
「おいおい……そんなこと、いったいどこで――」
いつの間に調べていたのやら。
「そして三つ目」
だが教授は、俺が何を言うよりも早く言葉を重ねた。
おそらく教授は、このことを迷宮で調べていたのだろう。
果たして、彼はこう言った。
「――この世界の迷宮は、全て繋がっている。迷宮とは本来、全てひとつの結界であった可能性が高い」
※
その夜は、王城に部屋を借りることになった。
明日からは早速、教団に関する対策を練ることになる。教授はアイリスの調整があるため――調整という表現で正しいのかは別として――別行動となる。よって俺、フェオ、シルヴィアの三人だけが実質的な調査要因となる。だが俺は今のところ役に立つ気配がないため、まずは自身の解呪が優先される。
それに備えて早く寝ようと解散した俺たち。それぞれに与えられた個室に、めいめい別れることとなった。
唯一、アイリスだけは俺と相部屋になったが、いつものことなのでそれはいいだろう。
自室に戻り、交代で汗を流して、早々に毛布に入ろうとする。
と、ふとノックの音が部屋に飛び込んできた。
扉を開けると、現れたのはフェオだ。上目遣いに、どこか遠慮した様子でこちらを窺いながら、
「――今、平気?」
「ん、ああ」
まあ入れと、室内にフェオを招いた。
ちょこんと寝台に腰かけたアイリスに軽く微笑み、それから俺に向き直る。
けれど、何も言い出さなかった。
「……どうした?」
「いや。その、ほら……えっと……ね?」
「わかんねえよ……」
本当にどうした。らしくもなく、もじもじとするフェオ。
いや、ある意味ではらしいのかもしれないが。
「あ、そうだ。えっと、血、その、吸わなくても平気?」
明らかに今思いついた風にフェオが言う。
それに突っ込むのも悪い気がして、俺は軽く頷いた。
「ああ。そんなに頻繁に出さなきゃいけないものでもないし」
「そ、そっか。そだよね」
「……」
「……」
黙る俺。固まるフェオ。
そしてなんだか楽しげに虚空を見つめるアイリス。
凄まじく微妙な空気が流れていた。
「……吸う?」
しばし考えてから、俺は訊ねた。もちろん煙草の話ではない。
訊ねてから、いったい俺は何を言ってるんだと思ったが、もう遅い。
フェオは驚いたように目を丸くして、「えっ」と声を漏らす。
「あー、ほら、どうせ俺が魔力持ってても意味ないし。ならフェオに渡しておけば、戦力の足しになるかと思ってね?」
「え……、あ、うん。そうだねっ!」
「いや、別にイヤなら無理にとは言わないよ? そんな、ね、俺の血なんてね、飲みたくないだろうし」
「そんなことないよっ」フェオは両手をぶんぶんと振った。「アスタのは美味しいし。その……わたしは、好き、だよ……?」
「…………」
ときおり素でとんでもないことを言うのやめてほしいと思う。
思わず勘違いしてしまいそうだ。というかこっちは男で今は夜でしかも部屋で……ああもう馬鹿かこいつは。いや馬鹿は俺か? もうわからん。
「……フェオ、アスタの血、飲むの?」
「うひゃあっ!?」
唐突にかけられた声を聞いて、フェオが跳ね上がらんばかりに驚いてみせた。実際は俺も驚いていたが、表情に出すのはなんとか堪えた。
アイリスは首を傾げて問い、それから何かに納得したように頷くと、
「じゃあ、わたし、お外に行ってる、ね?」
そう言って、とてとてと部屋を出て行ってしまった。
残された俺とフェオ。
年下の子に気を使われた結果、期せずしてふたりきりである。
「あ、待っ……えっと」
アイリスを止めようとして、しかしまったく間に合わず、フェオの片手が宙に浮いている。
もう半ば捨て鉢になっていた俺は、どうにでもなれという気分で、
「……飲みます?」
「えと。……じゃあ」
そういうことになった。
終わった。
その間の記憶は俺にはない。ないと言ったらない。
なんだろうな。必要なことだし、別に悪いことをしているわけでもないはずなのに。
どうして、こう、言いようのない罪悪感のようなものを味わうことになるのだろうか。正直まるでわからない。
「ん――」
フェオが俺の肩口から口を離す。
その顔が赤い。というか、何やら恍惚の表情にさせ見える。
……血ってそんなに美味しいモノなのだろうか。
こればかりはフェオでなければわからない感覚だろう。
「……」
肩口から口を離したフェオ。が、何も言わない。
なんだかぼうっとした表情でこちらをまっすぐ見つめている。
……なんか、おかしくないか、これ?
「フェオ……? どうした?」
「…………」
「おい、フェオ? おい!」
何も答えない。意識がどこかに飛んでいる。
その視線はぴったりと、先程まで口をつけていた傷に注がれている。彼女の犬歯が突き刺さった、二対の丸い傷跡に。
ふと、柔らかな感触が体を包んだ。
フェオが力をなくしたように、俺へとしなだれかかってきたのだ。
咄嗟のことにフェオを受け止めきれず、俺はぽすんと寝台に押し倒されてしまう。
なんだか、甘い匂いがした。
頬を、耳を赤くするフェオの顔が、文字通り目と鼻の先にある。
……なんか、柔らかい。背筋を何かが駆け抜けた。
だが、その感触とは裏腹に、フェオは力強く俺を押さえつけている。逃がさないとばかりに、がっちりと。
なんだか酔っているような表情だ。
いや、実際にそうだ。フェオは酔っ払っているらしい。
酒精ではなく、血によって。吸血種としての特性を、最近になって使い始めた反動だろう。彼女の血に刻まれた種の因子が、歴史を遡って彼女の本能を刺激している。――それだけ、彼女の血は濃いのだ。
「……アス、タ……」
「おい、フェオ。落ち着け。な? 冷静になれ? ねっ!?」
「カラダ、が……熱い……よ」
様子が明らかにおかしい。血に対する欲求が、フェオの精神を侵している。
「のど、かわい……た」
さらに血を飲ませれば、この状態からは脱するだろう。確証はないが、おそらく。
だが、それでいいのだろうか。正直、なんかちょっと雰囲気がよろしく、
「――れろ」
首を「――――~~~~っ!?」舐められた。
赤い舌で。舐る。這い回る。ぞくぞくした。熱い。まずい。
「ん、……はむ」
「まずいまずいやめろやめろやめろ、ちょ、フェオさん? 聞いてる? フェオさーん!?」
まずい。何がまずいって正直ちょっと気持ちいいのがかなりまずい。なんか妙な気分になってきてしま、ちょ、おい。
もちろん抵抗は試みている。だがフェオの膂力が、血の魔力を得て異様に強くなっているせいで、俺の筋力では彼女に逆らえないのだ。
顔から火が出る。
フェオもまた真っ赤だった。照れているわけではなく、完全に酔っているからだろう。俺は照れている。ていうかまずい。このままでは。
熱っぽい、うっとりとした表情のフェオ。
素直に可愛いと思う。もうこれでいいのではないかと、そう思えてきてしまう。
だが違う。それは、俺が彼女に操られているせいだ――吸血種が持つ魅了の特性が、俺の意志を縛り上げているせいだ。と思うけどどうだろう。いや待て。落ち着け。
わかっている。頭ではそれが理解できている。
だが今の俺の抵抗力では、たとえ理解できていても逆らえない。気分がいい。このまま身を委ねてしまいたい。その欲求に逆らえない。
「アス、タ……アスタぁ……っ」
「な、何……?」
熱っぽい声音のフェオに、なんとか返事を絞り出す。
状況は、もはや俺ひとりの力ではどうにもできないところまで至っている。
「止まっ、ちゃっ……た」
フェオが呟く。何がだろう、と見てみれば。
「――……」
傷口が、いつの間にかなくなっている。わずかに痕は残っているが、この分ならすぐ消えるだろう。
吸血鬼の唾液が、傷に作用して治癒したからだ。
……これは。
「足り、ないよ……」
「フェオ?」
「もっと、もっと……欲しい、の」
これはまずい。さっきから『まずい』しか言っていないが、さっきまでとは別の意味でまずい。
フェオが、その口を大きく開く。
――もっと血を寄越せ。
そういう意志だ。このままでは噛まれる、というか、果たしてそれだけで済むのだろうか。これ、下手したらこのまま……首、噛み切られないか?
「……落ち着け、フェオ……」
「いいよね……?」
「うん。いや、よくない」
「いくよ……?」
「来ないで?」
「うん。いくね……」
「聞けよ……」
頭がぼうっとしているせいで、対応がきちんとできていない。
このままでは大変なことになるとわかっているのに、身体が言うことを聞いてくれない。
――ああ。
俺は覚悟をした。もう、このまま、フェオに身を委ねてしまってもいいんじゃないか――。
「…………何を、して、いらっしゃるのですか……?」
跳ね起きた。
その瞬間、あれだけ力強かったはずのフェオの手が、あっさりと解けていくのがわかる。
そして、俺は言った。
「いやー危なかった!」
部屋の入り口にたっている、満面の笑みのエウララリアに向けて。
俺は、ひきつった笑顔でそう言った。
「助かったよ、ありがとう。このままじゃ大変なことになるところだったよ、いや僥倖僥倖」
「…………」
「いや本当にね。まさかフェオが血に酔っちゃうなんてね。おっと、大丈夫かい、フェオ? 意識ははっきりしたかな?」
フェオは毛布に顔を埋めて固まっていた。この分ではしばらく使い物になるまい。
俺はエウララリアに向き直り、片手を挙げて告げる。
「ありがとう!」
彼女は答えた。
「何がですか?」
「……、」
「何がですか?」
「……申し訳ありませんでした」
「ナニガデスカ?」
あかん。エウララリアさんが壊れたラジオになっとる。
震え上がる俺。彼女の城で、こう、事故にしろこういう感じになってしまうと、さすがに返す言葉がない。
やがて、エウララリアは「はあ」と嘆息をついて表情の気を抜く。
「まあ別に構いませんけれど。事情は大方わかりますし」
「わかってたんかい……」
「私は側室でも構いませんし」
「わかってないね」
「冗談です。アスタ様はからかうと面白いです」
微笑み、エウララリアはふたつある寝台のうち、俺が座っているのとは別のほうに腰かけた。その後ろにはアイリスの姿。
どうやら、彼女が連れてきたらしい。
フェオは正気に戻ったのだろう。「……死にたいぃ……」という声が小さく、ほんのわずかに鼓膜を揺らした。
気がしたのだが、気のせいだということにしておいた。
「――さて。では、お話の続きをお聞きしましょうか」
エウララリアが言う。やはり弁解が必要かと震え上がる俺に、「そうではなくて」と彼女は苦笑。
「昔のお話。まだ途中でしょう?」
「あ……ああ、そっちか」
「ええ」王女は軽く小首を傾げる。「もちろん今ここで何をしていたか、お話になりたいのであれば聞きますけれど」
「勘弁してください」
俺にはもう、従う以外の道なんて残されてはいなかった。




