4-08『逃走/闘争』
蒼白な表情で、けれど悲鳴さえ上げられずに落ちていくシャルを、ピトスは見送る以外になかった。
いや、止めようとはしたのだ。だがその動きは成果を結ぶ前に、固められて意味を失った。
反射的に動きかけた身体を、「待て」というフィリーのひと言が縫い止めたのだ。
それは魔術じゃない。ただ言葉を口にしただけの行為。
けれど、そんな当たり前の行為でさえ、魔法使いが行えば意味が変わる。まるで金縛りにでも遭ったかのように、ピトスは身じろぎひとつすることができない。
「安心していい、中で馬鹿弟子が待っている。奴なら上手くやるだろう」
信頼、とは違う。ただ事実を述べているだけとでも言うかのような声音。
それが魔法使いであるならば、確かにピトスでは抗うこともできないだろう。
――魔法使い。
魔術によって神の技法の一端を再現するという超越存在。
いくら魔術を極めても、人間である限り魔法使いに至ることはないと言われている。技量や強さの問題ではない。魔法使いは初めから魔法使いであり、たとえ魔術が一切使えずとも魔法使いと呼ばれるのだから。
普通の魔術師がいくら研鑽したところで、至る位階は《魔導師》が限界だ。
もちろん、その位階に到達した魔術師は世に十人しか存在しないのだから、充分すぎる偉業だと言える。ある魔術を極め、それを他者に伝えることができるから魔導師と呼ばれるのだ。単純な戦闘能力ならば、魔導士の中には魔法使いを上回る者さえ存在するという。
強い弱いの話ではない。
扱う技術が神の領域に達しているからこそ、その秘蹟をほかの誰も再現できないからこそ――魔法使いは魔法使いと呼ばれる。
第二魔法使い、フィリー=パラヴァンハイム。
呼んで曰く《空間》の魔法使い。結界から転移に至るまで、およそ空間に関係することで彼女にできないことはない。
「――何を呆けている。次はお前だぞ」
慄然とするピトスに向けて、フィリーの視線が向けられる。
「ひゃっ、ひゃいっ!?」
露骨に動揺した返答のピトスに、フィリーは口角を歪めて笑う。
「なんだその間の抜けた声は。そういう反応は求めていない」
「え、あ……すみません」
「まったく、君も君で重症だな。シャルロットもそうだが、いったん身に染みた逃げ癖はなかなか拭えない。そのままじゃ負け犬まっしぐらだ」
ふん、とフィリーは鼻を鳴らす。
よくわからないが、自分の態度がなんらかの不快感を与えてしまったのだろうか。
ピトスは眉根を寄せたが、フィリーはさして不快そうな態度ではない。どちらかと言えばまだ愉快のほうに針は振れているだろう。
「さて、お節介の時間だ。お前も矯正してやろう」
「…………」
頼んだ覚えはない。喉まで出かかった言葉を、ピトスは寸前で飲み込む。
なぜ目をつけられたのかはわからない。そもそもどうして、フィリー=パラヴァンハイムが自分のことを知っているのか。
先程の会話から察するに、シャルはあのアーサー=クリスファウストの娘なのかもしれない。確証はないが、ともすればその辺りが、アスタとシャルの間にある確執という可能性はあった。
ならば、シャルが呼び出される理由もまた、それに関係しているのだろう。
けれど一方、ピトスは紛れもなく一般人だ――たとえその半生が、とても一般的だとは言えないものだったとしても――少なくとも魔法使いのような超越者と関わったことなんてない。
――いや。それともあるのだろうか。
もしかして、と思えるだけの要素なら、確かに記憶の底にある――。
「それだ」
ふと、フィリーが言う。思索の海からピトスを引きずり上げるかのように。
まるで、心を読んでいるかのように。
「ピトスもシャルロットも、そろそろ逃げるのをやめるべきだ。それでは誰も浮かばれない。ただ記憶の底に沈むだけだぞ」
「……わたしが、逃げている、ですか……?」
言っていることの意味はわからない。だが少なくとも褒めているわけではないだろう。いくら相手が魔法使いでも、さすがに言われっ放しでは腹も立つ。知った風な口を利かれる謂れなどないはずだ。
だが、この超越者を前にしては、ピトスの意地など砂上の楼閣だ。
「逃げているだろう」
フィリーは断言する。わかりきっている過去を、ただ口にするだけといった風に。
「お前のそれは結局、他者を頼ろうとする甘えの発露だ。少なくとも、アスタ=プレイアスのそれとは違う」
「……わたしの話なら、アスタくんは関係ないんじゃないですか」
「関係しようとしたのはお前だろう」
ピトスの言葉には、すでに隠そうとさえしていない棘があった。
だが、やはりフィリーは意に介さない。その程度では、魔法使いに通用しない。
――とはいえ。
「その程度の想いしか持たないというのなら、悪いことは言わん。復讐なぞ今すぐ諦めろ」
触れられたくない傷を抉られて、それでも黙っていることはできなかった。
その刹那、ピトスはフィリーに攻撃しようとする自分を、鋼の意志で抑え込んだ。
耐えろ。耐えることなら得意なはずだ。そう自らに言い聞かせる。
その自覚がなければ、力の差などまるで慮外視して、ピトスはフィリーに攻撃を行っていただろう。たとえ間違いなく、返り討ちに遭うとわかっていても。
「いい顔ができるじゃないか」
ふと、フィリーがどこか力を抜いた笑みを見せる。
それでわかった。要するに、わざと煽られていたらしいと。
どうやら担がれたらしい。腹立たしいことに変わりはないけれど、それでも怒気を抑え、ピトスは問いを口にする。
「……貴女は、何を知ってるんですか……」
顔はわずかに下を向き、目元を前髪が隠していた。けれど、その視線はまっすぐにフィリーを見据えている。
――ああ、やはり、自制なんてまるでできていない。
そう思ったし、そして、それでいいと思った。
「何をと言われてもな。少なくとも、お前よりは多くのことを知っているだろうが」
「……」
「そしてお前も今よりは、多くのことを知るべきだ。いや、思い出すべきと言ったほうがいいかもしれないな」
「思い出す……」
「あるいは自覚する、だよ。若き魔術師」
外見的には年下にも見える魔法使いが、けれど逆立ちしても及ばないほどの老熟した雰囲気を纏う矛盾。
それは威圧感に似ていた。けれどピトスは、その程度で折れることを自らに許していない。
だから、せめて気持ちだけは負けないようにと。
ピトスは意を固めて、魔法使いを睨み返す――睨み返そうとした。
その視線の先に、けれどフィリーは存在しない。
「――さあ、まずは戻りなさい」
背後から声が聞こえた。気づけば肩に、誰かの手が乗っている。
年月を感じさせるしわくちゃの手。それがフィリー=パラヴァンハイムのものであることは、直感的に理解した。
本当に。なんの前触れもなく、魔法使いは移動する。
本来のピトスなら、それでも気づいた瞬間には警戒し、防御か回避か、でなければ反撃に移っただろう。身体に染みついた戦闘技能は、本能は、抑えようと思って抑えられるものではない。
にもかかわらず。
このとき、ピトスは動けなかった。
一切の反応ができなかった。
「蓋をした過去に、再び会いに行きなさい」
意識が――精神が。
徐々に、ピトス=ウォーターハウスの肉体から離れていく。
「――自分の名前を、思い出しなさい」
そして、その言葉を最後にして。
ピトスの視界は、深い暗闇に包まれていった――。
※
二日目の旅程も順調だった。
王女と、そして俺たちを乗せた馬車は、軽快に街道を走破していく。
このまま行けば、明日には王都に辿り着けるだろう。
もちろん、それは《何事もなければ》という前提での話だ。だが俺は、自らの人生において、物事が何事もなく進んだ経験などほとんどない。
たいていの場合において、求めてもいない厄介事が、アスタ=プレイアスの行く先には立ち塞がる。
今回においても、それは例外なく起きた。
前触れもなく馬車が止まる。
いや、前兆ならあった。いくら魔力を体外に出せなくなったとはいえ、感知能力まで失ったわけじゃない。俺はすぐに気がついたし、俺が気づいた以上、俺以上に感知に長けたグラムさんやアイリス、エウララリアが気づかないはずもなかった。
フェオでさえ、馬車が止まった直後に気づいた。
ただ気がついたからと言って、その事実をすぐに認められるかは別の問題だ。
「……魔物ですね。それも数が多い」
グラムさんが小さく呟く。単に魔力の感知性能で言えば、俺のほうが遙かに上だ。七星旅団においてさえ、単純な感知能力で言えば俺が最も秀でていたのだ。術式を用いない限りにおいて、俺より敏感な人間などそうはいない。
その、そうはいないはずの例外が、この場所に集まっていたというだけで。
グラムさんに理屈はない。俺の感覚などあっさりと追い越して、本能で脅威を悟るからだ。加えてアイリスは鼻が利くし、エウララリアは眼がいい。フェオだって、血の気配には敏感だ。
その気配には、遥か離れた場所から気がついた。
「どうして街道に魔物が……」
エウララリアは、呻くようにそう零した。
魔物は、数少ない例外を除いて迷宮以外には存在しない。まして魔力の濃い霊地ならばともかく、ヒトの多く通る道に魔物が現れるなんて、本来ならばあり得ないことだ。
最近はもう、あり得ないことがありすぎて、驚くことも難しくなってきていたが。
「とりあえず理由は措こう。どう対処する?」
迂回して逃げるか、突き進んで戦うか。対応はこのどちらかだろう。
エウララリアはしばし逡巡したあと、グラムさんに向かってこう告げた。
「このまま、まっすぐ進んでください」
「……よろしいのですか?」
「ええ。この道で魔物の異常発生など、捨て置けることではありません」
「逃げても構わないのですよ。貴方は王女です、魔物の掃討なら、その役割を負う人間がほかにいる。貴方に課せられた役割は別のものだ」
「こんなときまで説教ですか、グラム」
むくれてみせるエウララリア。けれど、その表情はどこか柔らかさを帯びている。
「ここで逃げるようでは、王女なんて名乗れたものではありません。違いますか、グラム」
「では」
「――殲滅です」王女は笑った。「というか、たまには私だって暴れたいんですからね? いいじゃないですか、今日くらい」
おどけるような言葉だが、エウララリアが言うと冗談に聞こえない。
その事実が面白くて、俺は知らず笑っていた。見咎めたエウララリアが「ど、どうして笑うんですか!」と頬を膨らませるが、そんな様子さえ愛らしいと思う。
身分の違う俺たちが、それでも友人でいられるのは、きっと彼女がエウララリアだからだ。
グラムさんもそれは同じだろう。含むような笑みで彼は言う。
「仰せのままに。ほかの皆様もよろしいですか?」
問いに、フェオとアイリスは俺を見た。
判断を投げられたらしい。そんな責任を負わされても困るのだが、まあいい。
「……確か、迷宮が近かったな」
「何か関係がありますか?」
「その可能性はあるでしょう」
まあ、単にわからないというだけだ。可能性を論じれば、ないとは言い切れなかっただけ。
それでも、俺が言うことならばと、彼らは信頼して判断を任せてくれる。それだけの信用を、今の俺でも持っているということだ。
ならば、魔術が使えなかろうと、少しくらいは役に立とう。
「放置する気はないんだろ?」
「ええ。申しわけありませんが、ご助力願えればと」
「いいよ。これも契約のうちだし、魔物退治は冒険者の仕事だ」
正直、フェオはともかく、エウララリアとアイリスには下がっていてもらいたいのだが。
そうも言ってられないだろう。というか今の俺よりも、ふたりのほうがよほど戦力になる。俺ができるのは、足手纏いくらいのものだった。
「何、ご心配召されるな」
グラムさんが笑う。心強い、心強すぎるほどの獰猛な笑みで。
「魔物の百や二百程度、私ひとりでも充分です」
「……でしょうね」
「では――殲滅と参りましょうか」
馬車は一路、魔物の気配夥しい方向へと軌道を変えた。
さて。果たして俺が、どのくらい役に立つものか。




