4-06『出会いの会話』
「ふうん……アスタ、って名前なんだあ……へえー」
道端で出会った少女に導かれ、明日多は町を目指していた。
もっとも、迷う余地もない一本道である。林道の中を、あえて外れて歩こうとでもしない限りは、前に進むだけで着くだろう。
「それでアスタは、なんでこの町に?」
少女は無邪気に訊ねてくる。人懐っこい笑みを浮かべた、なんだか仔猫のような子だ。質素ながら可愛らしい服に身を包んでいて、その手には編み込まれた籠を提げている。
「言っちゃーなんだけど、特に何もないよここ? 旅の冒険者なんかは多いけどさー、見るところなんて、湖くらいのものだしね」
違和感は未だつきまとっている。知りもしない言語が、その意味だけ脳に届くような。
痛みとは違う、じくじくと濁った違和感が額で暴れていた。あの魔法使いが、きっと何かをしたのだろう。
「何かのお仕事って感じじゃないけどさー。ねえねえ、何しに来たのー? 冒険者じゃないよねえ?」
「ああ……えっと」
冒険者、なんて単語があっさりと出てくることに眩暈を感じつつも、明日多は考え込む。
――果たしてどう答えるべきか。
正直に言う、という考えはすでにない。あの魔法使いの反応から察するに、魔術なんてものが普通に存在するこの世界においてさえ、異世界人などという存在は常識の範疇外らしい。
その割にあの魔法使いが、あっさりと明日多が異世界人であることを見抜いていた辺りが今さらになって気になるが、とりあえずは措くしかない。
結局、当たり障りがないだろう嘘を、返すほかなかった。
「観光に来たんだよ」
「……かんこー?」
きょとん、と首を傾げた少女に、慌てて言葉を重ねる。
「いや、ほら綺麗な湖があるって聞いてさ、どんなものか気になったんだ!」
実のところ、明日多の嘘は言い訳として下の下である。なぜならこの世界に、観光などという概念は基本的にないに等しいからだ。
旅をする人間は多い。行商人に限らず、拠点を持たない多くの冒険者たちは町から町へ、根なし草の生活を送っている。だがそれは、彼らにとってそれが生きるすべであるというだけで、決して観光を主目的にしているわけではない。
商売という確固たる目的や、あるいは冒険者のようにある程度の強さなくして、ヒトは住んでいる場所から外に出ない。この世界の平民は基本、自らが生まれた土地で一生を過ごすのが普通だった。
だから、続いて飛び出た少女の言葉も、この世界では普通の問いだ。
「アスタは、もしかして魔術師?」
魔術は常識の外側、幻想の領域にある概念だ。才能が左右するその世界において、外見と実力は必ずしも一致しない。年端もいかない子どもが、屈強な冒険者を指すら動かすことなく倒すようなことが、普通にあり得てしまうのだから。
よって、見るからに軽装で、しかも変な――地球人ならぬ少女から見ればだが――服装に身を包み、あまつさえロクに荷物さえ持っていないぶっちゃけ怪しい少年でも、魔術師だというのなら納得できるわけだ。
「う、えっ、とぉ……」
明日多は狼狽を顔に出していた。自分の言い訳が駄目駄目だったことには、遅れながらも気がついたのだが、この場合はもうどうするべきなのか。判断がつかない。
どうするどうするどうする。
別に、誤魔化す方法ならいくらでもあった。なんなら本当のことを言ったって、それはそれで構わなかったはずなのだ。
だがこのときの明日多に、正直に言うという選択肢はない。魔法使いに禁じられたことに、逆らおうとは微塵も考えなかったのだ。
結局、明後日の方向に転回した明日多の思考は、こんな返答を導き出すのだった。
「じ――実はそうなのさ!」
言っちゃった、と思った。なのさってなんだ。
しかし言ってしまった以上は誤魔化しを重ねるほかにない。
だって、使ってみせてとか言われたら終わりだから。
「といっても修行中の身でね、まだロクに魔法なんて使えないんだけどさ! そう、あれだ、俺の師匠がさ、この町で修行してこい的なアレな感じでさ!」
めちゃくちゃである。こんな言い訳が、通用するはずもないと思った。
果たして、少女は明日多をまっすぐに見つめて答える。
「そうなんだ!」
――あ、信じちゃったよ。
都合はよかったが、なんだかなあ、と明日多は思う。
少女は嬉しそうな笑みを見せて、
「それじゃあ、わたしと一緒だね!」
「え?」
「わたしも魔術の修行中なんだー。へへ、これでも町でいちばん才能があるって言われてるんだよ!」
「あ、あー……そうなんだ」
「ねえねえ、アスタはどれくらい修行してるの? わたしはねー、まだ三年くらいかなー」
「えーっと……」
「うん?」
「……今日が弟子入り初日かな?」
「初日なんだっ!?」
大仰に両手を挙げる少女。なんだかリアクションが大袈裟な子だった。
「それで、誰に弟子入りしたの? 有名な人」
「……なんだっけな。アーサー……えー……アーサー、なんとか」
「師匠の名前を覚えてないのっ!?」
だって外国っぽい名前は覚えにくいから。
などと言えるわけもなく。明日多は露骨に話題を逸らした。
ちょうど、訊きたいこともあったから。
ただ、これは逆に運がよかったと言えるだろう。アーサーという名前自体は、この国で決して珍しいものではない。少女は明日多の言葉を冗談だと捉えたようだったし、問題はなかった。
これでもし、明日多が正確に魔法使いの名を覚えていた場合は、逆にまずい展開になったことだろう。
「――それでさ」
明日多は横目に少女を見て言う。
それにしても、かなり可愛らしい女の子だった。思春期真っ盛りの明日多としては、こんなに可愛い子と楽しく話せているというだけで、相応の収穫と言っていい。
だから、
「君、名前はなんていうの?」
それを訊ねることに不思議はないだろう。
一方的に名を訊かれ、そのまま一方的に引きずられてきたようなものなのだ。
明日多はまだ、少女の名前さえ知らない。
もちろん、そこには打算があった。可愛い女の子とお近づきになりたい、なんてことだけ考えていられれば、むしろ幸せだっただろう。そこまで馬鹿にはなれなかったが。
明日多には地盤がない。
身寄りも、知識も、後ろ盾も。この世界で明日多は何ひとつ持ってはいないのだ。
歴史の知識など中学生の明日多が深く持っているはずもないが、イメージ的には中世西洋を思わせる世界だ。いくら無知でも、その世界でいきなり生き延びることが難しいという察しはついた。
この人の好さそうな少女を味方につけたいと、考えなかったと言えば嘘になる。
「――パンだよ」
少しの間があってから、少女は静かにそう答えた。
「パン。本当は違うんだけど、でも、みんなからはそう呼ばれてる」
「……パン、か」
覚えやすい名前だ、と。その程度しか考えなかった。
「そ。だからアスタも、わたしのことはパンって呼んでねっ」
「わかった。しばらくよろしく、パン」
小さく微笑んで、明日多は片手を差し伸べた。握手を求めたのだ。
名前を交換できたことが、嬉しかったのかもしれない。心細さがなくなるような、何かに縋れたような、そんな錯覚だったのかもわからない。
けれど明日多は知らずとも、名に重きを置くのは魔術師の最も根源的な才能のひとつだ。
その意味では、やはり運命だった、と表現するべきなのだろう。
差し伸べられた掌に、パンは一瞬きょとんと目を見開いた。
――もしかして、この世界には握手の文化がなかったのかもしれない。
そう危惧した明日多だったが、さいわい、パンはすぐに相好を綻ばせて明日多の手を取った。
「うん。よろしくね、アスタっ!」
「――ああ」
それが少女との出会いであり、異世界で初めてできた友人との記憶。
わずかひと月ののちに訪れる別れなど、想像さえしていなかったときの物語だ。
※
――まどろみから目覚めに移行する。
少し硬くなった関節の凝りをほぐしながら、俺は馬車から外に出る。
割と広めだとはいえ、さすがに寝るには狭い馬車。とはいえ、天幕は女子陣が占拠している。いくらなんでも、王女と同衾はさすがにない。というか普通に嫌だった。
結局、ふたつも寝床を作るのは面倒だ、という合意から俺は馬車の中で、グラムさんは荷台でそれぞれ夜を明かした。
外に出ると、すでに目覚めていたグラムさんが、軽く身体を動かしているところに遭遇する。
向こうもこちらに気づいて挨拶をしてくれようとしたが、邪魔をするのも悪い。手振りで大丈夫だと伝えて、頭を下げてその場を辞した。
旅支度はほぼグラムさん任せだ。というわけで基本的にやることもない。
手持ち無沙汰に辺りをうろついていたところで、こちらもすでに起きていたらしい、エウララリアと遭遇した。
「――むぅ」
会うなり頬を膨らませるエウララリア。いったいなんだというのだろう。
訊ねたところで、どうせロクな答えは返ってこない。
それがわかりきっているのに、それでも訊ねる自分の優しさが、いや、やけに朝靄に沁みる。
「おはよう。で、どうした?」
「おはようございます。……本当、早すぎます」
「……はあ?」
「いえ。今から水浴びに行こうかと思っていたのですが。もう少し遅く起きてくだされば、裸のわたしとドッキリバッタリ! ……だったかもしれなかったのに」
「ははは。お前は本当に頭が馬鹿だな」
棒読みで言ってやった。きゃー不敬ですー、と嬉しそうに身をくねらせるのは常のことなのでスルーだ。
あざとさを履き違えているというか、まあ残念な王女である。どうせ計算で言っているのだから気にしないが。それに、不敬な態度を取られると嬉しい、というのはどうも本当らしい。わからなくもない、とは思えた。
いずれにせよ、メロやマイアに比べれば、まだまだ可愛らしいの範疇だ。
昨夜は、割と早い段階で話を打ち切って解散した。
だからだろうか。朝に弱いはずの俺だが、こうもすっきりと目を覚ましたのは。
同じことを考えていたのかもしれない。水浴びに行く、と言っていたエウララリアは、前言を普通に翻してこちらに寄ってくる。
というか着替えも持っていないし、普通に冗談だったようだ。
「――アスタ様は」
俺の名を言い、それからわずかに躊躇うような様子を見せるエウララリア。
彼女にしては珍しい態度だ。本人の性格か、あるいは王族という肩書きによるものかは微妙なところだが、エウララリアは全ての発言を計算の上で口にしている、と俺は思う。
だから言うと決めたことは言うし、逆に言わないことは初めから口にしない。
その彼女が言い淀むというのは、だから珍しいことなのだ。
俺は無言で、彼女の言葉の続きを待った。構わないと促していることは、それだけで彼女に伝わったのだろう。それが嬉しかったのか、彼女は薄く微笑んで、わずかにだけ頭を下げる。こういう素の自分を見せているときのほうが、エウララリアはずっと可愛らしい。
「アスタ様は、故郷に帰りたいと思ったことはないのですか?」
しばらくして、エウララリアがそう訊ねてきた。
昨夜の話の中でも、俺が異世界出身だということはぼかして話した。だから状況はわかりにくかったと思うのだが、それでも伝わることはあったらしい。
少なくとも、俺がもう帰れない場所から来たことくらいは、察しているようだった。
「ない、とは言わないけどな……なんでかね。それどころじゃなかったのか」
「…………」
今度はエウララリアが黙って先を促す。あるいは言葉がなかったのか。
「自分が生きるので必死だったし。運はよかったのか、いろんな人に助けてもらったからね。そうしているうちに、今じゃこの国が故郷みたいに感じてる」
「……興味深いです」
それだけを返された。彼女なりに選び抜いた返答だと思った。
「まあ、続きはまた夜にな。今日は長い距離を進むことになるから、疲れるかもしれないが」
「楽しみにしていますね」
「さてな」
昨夜、俺がした話はバッドエンドだ。ただただ救いもなく終わる苦い記憶。
あるいは忘れていることも多いという気がする。わざわざエウララリアたちに語って聞かせようと思ったのは、それが理由だったのかもしれない。
結局のところ、俺は自分のことさえわかっていないということだろう。
確かなことはそれだけで、まったく我ながら情けない。
――二日目の空は、泣きたくなるほどの快晴だった。




