4-04『異世界転移』
過去編です。
――ふと気づいたとき、一ノ瀬明日多は見知らぬ森の中にいた。
「え……は?」
なんの前触れもなかった。
ただその瞬間、明日多はどこかもわからない森の中に立つ自分を認識しただけ。
パニックにはならなかった。何ひとつ状況が理解できず、驚くことすらできなかったから。
ただ、何かがおかしい。何か異常な事態に陥っている。
その認識だけが、どこかにあった。
ここはどこなのだろう。
背の高い木々と、深々とした葉だけが視界の全てだ。どちらも向いても緑に覆われ、場所も方角もまったくわからない。
天さえ隠すほどの緑の向こうに、空が少しだけ覗けていた。森の中は薄暗いが、どうやらまだ太陽は空にある時間らしい。
次に明日多は、自分の状況を確認した。
縛られているとか、あるいはどこかを怪我しているというようなことはない。至っていつも通り。私服を着ているし、靴も履いている。ズボンのポケットには財布と携帯も入っていた。
携帯電話を取り出して開く。時刻は午後三時過ぎを示していた。
ただし圏外だ。親や知人に連絡して、助けを呼ぶことはできそうにない。どうやら、だいぶ深い森の中にいるようだ。
状況を自覚するに当たって、徐々に焦りが出始める。
まず頭をよぎったのは誘拐の二字だ。が、それにしては状況がおかしい。監禁どころか監視すらされている気配がないし、そもそも誘拐犯の姿がない。次に、もしかして親に棄てられたのではないかという嫌な想像も浮かんだが、やはり考えづらいだろう。そこまで冷え切った関係ではないと思うし、そもそも自分は立っていたのだ。意識を失って寝かされていたわけではない。
それが最も不可解だった。この場所に至るまでの記憶が、完全に断絶している。
最後の記憶は、本屋に行こうと家を出たときのもの。服や持ち物もそのときといっしょだ。
その日は日曜で、だから中学校も休み。明日多は集めている漫画シリーズの新刊が出ていたことを思い出して、徒歩で近所の書店を目指していた――はずだ。
家を出たときの記憶はある。だが、それからの記憶がどうも曖昧だ。
夢遊病なんて、患ってはいないはずなのに。
「……どう、したらいいんだろう、これ……?」
疑問が口から漏れてしまう。答える声などあるはずもなかった。
テレビの番組か何かで、迷ったときはなるべくその場を動かないほうがいい、なんて話を聞いたことがある。だが、それはあくまで救助のアテがある場合の話だ。
このまま立ち尽くしていても、助けが来るとは思えない。
遭難という単語が、否応にも心で暴れ出す。
結局、明日多は動くことに決めた。まっすぐ歩いてさえいれば、どの方向だろうと最終的には森の終わりに着くはずだ。
あるいはどこかで携帯が通じるかもしれない。いずれにせよ自宅の近所に、そうそう遭難するような森があるわけもない。
見れば右手側に、土が見えているところがあった。
それは明日多から見て垂直に、左右に延びる獣道だった。あるいはそれを辿っていけば、森の終わりに着くかもしれない。
明日多は獣道を踏み締め、直感で左側に歩き出した。
特に理由はない。選択は偶然だった。
けれど、あるいはこの時点で、明日多は気づいていたのかもしれない。
逆の方向から流れてくる濃密な魔力の気配に。
あるいは、その選択こそが《運命》だというかのように。
見落としていたのは、獣が歩くから獣道なのだ、ということだけだった。
そもそも山道に関する知識などない明日多に、冷静な判断を下せというほうが無理だろう。
いや、あるいは、そんな知識があったところで役立つかどうか。
ここはもう、明日多の知っている世界ではないのだから。状況的にも、異常でない部分を探すほうが難しかった。心が折れないだけ、褒められてもいいくらいのものだ。
けれど世界は、そんな事情を斟酌しない。
現実は常に平等で、だからこそ力のない者に対し容赦をしない。
歩き始めて、五分も経っていなかっただろう。
――突然、怪物が現れた。
獣道の奥のほうに、見たこともないような化物が立っていた。
「な――!?」
思わず声をあげかけて、その寸前でなんとか堪えた。
見つかれば確実に殺されると、本能で悟っていたのかもしれない。
初め明日多は、その巨躯を熊と見間違った。
もちろん野生の熊は充分に脅威だ。見つかれば命の危険だってあるだろう。
だが――違う。
目の前の《アレ》は、そういう次元の存在じゃない。
怪物だ。理解のできない死の概念。アレは、ただ人を殺すためだけに存在している。
明日多はそう直感した。そして事実、その直感は正しかった。
それが、生まれて初めて見る魔物の姿だった。
真っ黒なカラダ。四足の生えたソレは後ろの二本で立ち、前の二本を何やら蠢かしている。
こちらに背を向けており、だからソレが何をしているかはわからなかった。
――知ってはならない。その答えを見ては壊れてしまうから――。
そう、本能が拒絶していたのかもしれない。
いずれにせよ、明日多にできることは気づかれないうちに逃げることだけだ。高さにして優に三メートルはあろうかという巨体。彼我の距離はおよそ十メートルほど。
だが、奴が鈍いなどと楽観視することはできない。野生の獣は、人間なんぞより速度もスタミナも余程あるだろう。奴がただの獣だなんて納得もできないが、気づかれないに越したことはない。
ゆっくりと、音を立てないよう後ろに下がった。
視線は片時も怪物から離さない。
離せないのだ。離した瞬間に殺される、という脅迫的な思考を止められない。
呼吸が荒くなっていた。背中からはどっと汗が流れている。
それでもなんとか距離を空けようと、少しずつ少しずつ後ろ向きで歩く。
怪物は何に夢中なのか、その口許で手を動かし、こちらへは意識を向けていない。びちゃり、とか。ぐちゃり、とか。ときおり聞こえる不快な音からは、意識を逸らして歩いていた。
――なんの音か、なんて、考えたくも、ない――。
ぱきり、と。そのとき、まったく別の音が鼓膜を揺さぶった。
やけに大きく響く音だった。
それが自分の足下から鳴ったのだと気づき、明日多は咄嗟に視線を落とした。
そして青褪める。
小枝を踏みつけてしまったのだ。それが乾いた音を立てた。
咄嗟に顔を跳ね上げる。あれだけ目を離すまいとしていたのに、気づけば視線を外していた。
真っ赤な眼窩と視線が合った。
血で塗ったくったみたいな、気持ちの悪い赤一色の双眸。それが真っ黒な、影が立体化したみたいな全身の中でひときわ目立っている。
同時に口も赤い。
いや、違う。口は単なる穴だ。赤い色など持ってはいない。ただ赤色の何かに塗らされて、結果的に赤く見えるだけだ。
刳り貫かれたみたいな大きな口から、赤い雫がぽたぽたと滴っている。
どさり、という音がした。
また何かの音だ。今度は怪物のいるほうから聞こえた。
そのときにはもう、なんの音なのか理解していた。脳が拒絶しているだけで、本当は初めからわかっていた。
怪物の腕から、人間の首が落ちたのだ。
引き千切られた生首が。明日多の目の前で、不快な水音を立てて崩れた。
おそらく若い女なのだろう。だが原形は留めていなかった。顔の左半分が抉り取られていて、残る半分の顔に、赤い涙を流す瞳があった。
そいつとも、目が合った。
「あ、――あああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
だから叫んだ。恐怖とか、恐慌とか、そういった負の感情が全身を支配する。
何も考えられなかった。ただこの場にいては死んでしまうから、死ぬなんて嫌だったから、がむしゃらに逃げ出しただけだった。
向かう先も何も頭にない。ただ嫌だった。全てが嫌だ。
嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。
死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死にたくない嫌だ助けて死ぬ。
理不尽に涙が出た。恐怖に雄叫びを上げてしまった。身体は震えが支配している。
足が縺れ、躓き、転びそうになった。
それでもなんとか堪えて、ただひたすらに前へと逃げる。
どこか遠くに。
こんなバケモノがいないところに――、
「――っ、か、は――――」
瞬間、肺の中の空気が搾り取られた感覚がした。
明日多はもんどりうって、前方へと弾き飛ばされる。地面を転がり、小枝や小石が肌を痛め、そうして最後には頭から大木に激突した。
そのまま止まる。右手を地につき、なんとか上体だけは起こすが、動き出せる気がしない。
「あ、ぐ……」
痛い。痛みが。強烈な痛みが後頭部で暴れている。その場所を押さえようと片手を伸ばすと、今度は肩に激痛が走った。「ぎ――、がっ」左腕が上がらない。そして痛みで理解する。
あの怪物に、左肩の辺りを後ろから思い切り打たれたのだ。バランスを崩していたから、あるいは肩で済んだのかもしれない。でなければ本当に、頭を殴られていただろう。
頭をぶつけた大木に、明日多はそのまま背を預けた。
視線の先には、今も怪物がいる。ひといきに殺せばいいものを、なぜかゆっくり顔を振りながら、少しずつこちらに近づいている。余裕のつもり、なのだろうか。
「――――…………」
死ぬのだろうか。そう思った。
いつの間にか恐怖はどこかに消えている。あるいは、頭を打った衝撃で、思考が馬鹿になってしまったのかもしれない。
どうでもいい。
ただ、死ぬのだけは嫌だった。
頭がすっと冷えていく感覚を、そのとき明日多は覚えていた。なぜなのかはわからないが、役に立つならそれでいい。
死を前にして、どこか一段引いたところから物事を考えるようになったのだろうか。かもしれない。違うかもしれない。
感情が衝撃でぶっ壊れたみたいだった。それもそれでいいと思える。
自分の状況を確認する。
左腕は死んだ。丸太みたいな怪物の腕で、肩を殴られたせいだ。動かそうとすると激痛が走るし、そうでなくても痛んでいる。
大木に打ちつけた後頭部からも血が流れていた。無事に動く右手で確認すると、指先がべったり赤で染まった。その程度で済んでいればいいが、頭の怪我はわからない。少しでも早く、医者にかかる必要があるだろう。
そのためには、ここから逃げ出さなくてはならない。
――そのためには、あのバケモノをどうにかしなければならない。
「…………」
明日多は、脇にあった小石を手に取った。右手についた血が石に移って、なんだか奇妙な記号みたいになる。
武器になりそうなものは、この小石くらいのものだった。
それでいい。死んで堪るか。路傍の石でも、尖った先端を目に突き刺せば、あるいは逃げる算段をつけられるかもしれない。
そう決意して石を握り込んだ、その瞬間。
小石が、なぜか光を発し始めた。
驚き、明日多は息を呑む。
白い光に包まれた石。どこか神秘的だが、しかし何が起きたのかまるでわからない。
明日多は思わず目を細めた。
強い光だ。怪物が立つ場所まで届くほどの光量に目が眩む――、
「……?」
そこで、明日多は違和感に気がついた。
こちらへ近づいてくる怪物が、光を気にする様子がなかったのだ。
……どういうことなのか。
そういえば、先程から奴はしきりに首を動かしている。その事実が明日多を疑問させる。
いったい何をしているのだろう。まるで何かを探しているかのように。明日多を見失ってしまったかのように。
赤く落ち窪んだ眼窩が、左右に揺れていた。
――もしかして。
奴は、目が見えないのではないだろうか――。
「…………、……」
ある種の賭けではあった。だが、試してみる価値はあるだろう。
明日多は、握り込んだ小石を別の方向に放り投げた。途中で木の幹にぶつかり、跳ね返り、音を立てて地面に落下する。
怪物が、跳ねるように音の方向を見た。
――当たり……!
思わず明日多はほくそ笑む。
やはり、あの怪物は目が見えていない。周囲を音で認識している。
それがわかれば、あるいはやりようがあるだろう。
別の方向で音を立てて、自分は音を立てないように移動すれば、あるいは逃げ切るコトだって不可能では――と。
思考は、その辺りまでが限界だった。
「…………あ、れ……?」
バランスを崩し、身体が勝手に地面へと倒れ込む。
視界がぼやけていた。ダメージは、明日多が考えているよりずっと大きかったのだ。もはや上体を支える力さえ残っていなかった。
当然、倒れ込めば音が立ってしまう。
怪物は弾かれたようにこちらを振り向いた。気づかれてしまったようだった。
――死ぬのだろうか。
もう、どうしようもないのだろうか。
身体が動かない。泣き喚くことさえできないほどに。
いっそ全て諦めて泣くことができれば、明日多は楽だっただろう。平和な国で、争いなどなく暮らしてきた一ノ瀬明日多が、ここまでできたこと自体が賞賛に値する。
それでも、死ぬときは死ぬというだけで。
瞼が徐々に閉じていく。その向こうで微かにだけ、近づいてくる怪物の姿が見えた。
そして。
そのさらに向こう側に立つ、ひとりの男の姿も。
「――状況判断はなかなか悪くなかったが、ほかは何もかも駄目だな。だいたい魔力を流れ出すままにしてりゃ、気づかれるに決まってるだろう、間抜け」
罵倒の言葉。それが自分に向けられているのだと、明日多はなぜか気づいていた。
言葉の意味はわからない。一瞬、褒められたのかと思ったが、どうもそうではないようだ。そもそもそんな場合じゃない。
当然、怪物は矛先を変えて、その男へと襲いかかるだろう。
だが男は、それをまったく気にした様子がない。ゆっくりとこちらに歩きながら、
「――ちょっと止まってろ」
指を、一度だけ軽く鳴らした。
「…………!」目を見開く。
男に突撃せんと迫っていた怪物の巨躯が、その瞬間、完全に静止したのだ。
完成さえ無視して。怪物だけが物理法則から切り離され、凍りついてしまったかのように。
まるで――時間ごと止められたかのように。
「で、大丈夫か。っつーかお前、いったい……? ああ? なんだその格好?」
怪物を一切無視して、男は表情に疑問を浮かべている。
見下すような視線が明日多にぶつかったが、そんなことを意識している余裕はない。
ただ、なぜか心を奪われていた。
ひと目で理解したからだ。その男が、この程度の怪物とは比較にもならないほどの圧倒的強者であるという事実を。
自分が、この男に助けられたのだということを。
だが、同時にもう限界だった。安堵が身体から力を奪っていく。
助かったことを理解して、無茶の反動を受けたのだ。
もはや目を開けていることさえできず、明日多はそのまま抵抗さえできずに意識を手放した。
最後に耳に届いた言葉は、
「あ? おい待て、寝るな! ああくっそ、なんでこう面倒な運命ばかり……!」
――それが、魔法使いとの出会いだった。




