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S-06『はじめてのおしごと』

 ――アイリスが取られた。


 と言うといささか以上に大袈裟だが、気分的にはまさにそんな感じ。もちろん、そんなことは口が裂けても言葉にはできないし、というか誰が聞いても普通に引くだろう。それくらいの分別は持っているつもりだ。そもそも普通に恥ずかしい。

 ただまあ、やはりどことなく悲しい気分にさせられることは事実だった。我ながら、子離れできない駄目親のような感慨を、まさか自分が抱くことになろうとは考えていなかったのだが。

 俺は自覚している以上に、あの小さな少女のことを大事に思っているのだろう。


 いや。単にアイリスが、喫茶店オセルで働きたいと言い出しただけなのだが。


 断る理由はない。というか駄目とか言えるわけもない。

 もともとこの世界は、地球に比べて就業年齢がかなり低い。オーステリア自体は国内でも、あるいは世界でもかなり発展した都市であるが、平均的な文化水準は地球に比べて圧倒的に下なのだ。子どもを生む理由は、貴族ならば政治的な諸々であり、平民ならば労働力だ。

 田畑の世話や水汲みなんかは年齢がひと桁の子どもだって行うし、都市部だって家業の手伝いくらいは当たり前にするだろう。アイリスだって、今のうちから働き口を増やせるようにしておいたほうがいいに決まっている。

 そういった機会に恵まれなかった子どもの行く末なんて――それこそ冒険者くらいのものだ。


 魔競祭のとき、アイリスは基本的にオセルの手伝いをしていた。

 実際、俺なんぞより遥かに戦力になったというのは珈琲屋の談である。俺が論外だったことを差し引いても、彼女は喫茶店員に適性があったようだ。

 小柄ながらも機敏に動いて回り、激務に耐えるだけの体力もある。その外見の可愛らしさも、もうひとりの幼女店員(すごい響きだ)たるモカちゃんと人気を二分するほどだったとか。

 先ほども言った通り、この年齢から働き始めている人間は少なくない。それにしてもふたりは小さいほうだろうが、街の金持ちや冒険者たちは、おおむねふたりに好意的な気質の者が大勢を占めていた。

 普通に仕事をしてくれるのであれば、そりゃ可愛らしい外見のほうがウケはいいのだろう。その辺りは地球だろうと、異世界だろうと変わりない。

 そもそも店主の珈琲屋からして、無愛想な眼帯男なのだから。……ああいや、奴が無愛想なのは俺に対してくらいかもしれないけれど。


 ともあれ。そういった経緯から、魔競祭期間のみの臨時店員であったアイリスは、晴れてオセルの正店員へと昇格を果たした。

 まあ扶養者の俺が冒険者などという露骨に不安定な職に就いているため、アイリスも定期的に働けるとは限らないわけだが、その辺りは珈琲屋が割と融通を利かせてくれた。というか、実際のところ正式な店員は、あの魔競祭にも出場していたノキという少女だけで、モカちゃんなんかはあくまで《おてつだい》であるとのことだ。

 扱いとしては、アイリスもそちら側なのかもしれなかった。



     ※



「ん。じゃ、行ってくるね、アスタ」

「おう。行ってらっしゃい、アイリス」


 煙草屋の玄関を出て、とてとてと駆け出していくアイリスを、俺はひらひら手を振りながら見送った。

 まずは三日間。試用期間的な意味合いを込めて、オセルで働いてくるのだという。限定的だったで店での仕事と、実際のそれは別だということだろう。アイリスなら大丈夫だとは思うが。

 去っていく小柄な影を見送る俺は、なんとなく感慨深げな思いを得ていた。


 思えば、アイリスは以前と比べて遥かに、自分の考えを口に出してくれるようになっている。

 オセルで働きたい、という主張がいい例だろう。言われたことに、ただ頷くだけだった頃とは違う。それでも自己主張は少ないが、今や彼女ははっきりと自分の考えを口にできるようになっている。

 七曜教団の実験台だったという彼女。

 年齢に似合わぬ身体能力や、もはや暗殺術とも言うべき格闘能力。何より、他者の魔力を《略奪》する異能――齢十歳にも届くかという少女が持つにしては、どれも異常な能力ばかりだ。

 真っ当な生活をしていて身につくものではない。戦闘能力を身につけるということは、つまりそれが必要だったということなのだから。

 彼女のこれまでは、とてもではないが幸福だと呼べるものではなかっただろう。

 その過去はもう変えられない。魔術師でも時間には干渉できない。それこそあの三番目の魔法使い(イプシシマス)でもなければ。

 ならば――せめて彼女のこれからが、しあわせなものであればいいと願う。


「……さて」


 軽く呟き、俺は煙草屋の中へと戻る。

 親父さんはまだ寝ているだろう。多少の物音で目を覚ますほど、細い神経をしていない。

 それでも俺は気を使いつつ、けれど最速で自室まで戻った。衣類の収納棚を開き、普段は使わない類いのものを中から引っ張り出した。普段のそれよりずっと地味めの外套ローブだ。かつてどこぞの未踏迷宮から発掘した、認識阻害の魔術効果がかけられた逸品である。

 いちばん上にそれを羽織り、フードを目深に被ることでその効果は発動する。これを使えば、着ている人間が誰なのかを判別できなくなるのだ。まあフードを外されるなり、探査系の魔術を使われるなりすれば一発でバレるが、普通は知らない誰かにそんな失礼は行わない。

 つまり。

 これさえあれば、アイリスを追いかけても気づかれることはないということ。

 まあバレたところで何があるわけでもないのだが、せっかくなら俺が見ていないところでのアイリスを見てみたいと思うのだ。

 決して過保護とか、あるいはストーカーというわけではない。そんなことを考える奴のほうがどうかしている。

 あくまで純粋無垢な、そう、いわば父性からの行動というわけである。


 なんの問題もないだろう。



     ※



 というわけで、多少の時間を空けてからオセルに向かった。

 普通、目深にフードを被った人間がいれば逆に目立つと思うだろう。この外套は誰が着ているのかを認識させない効果はあっても、存在そのものを認識から除外したり、透明化したりという代物ではない。周囲からは、普通にローブを着込んだ誰かの姿が見えているわけである。

 とはいえ、ここは魔術師の街、オーステリア。

 冒険者や旅人が多いという関係上、身元不確かな外套の人間くらい割と多くいる。そして実際のところ、この街に入るにも身分の証明は一応、必要なわけである。来れば誰でも入れる、というほど緩い警備はしていない。さすがに。

 加えて言えば七曜教団の暗躍や、第三王女エウララリア来訪などの関係上、魔競祭で緩くなっていたオーステリアの警備は、今や完全な厳戒態勢の中にある。

 水星の変身魔術をもってしても、今のオーステリアに正面から忍び込むことは難しい。


 つまり逆を言えば、街の中にいるという時点で、ある程度の身分は保証されているようなものなわけで。

 俺が変装して歩いていても、不審に思われることはないということだ。

 完璧である。


 オセルの扉を潜った。ちりんちりん、と風鈴に少し似た鈴の細工が、店内に来客を告げる。

 最初に俺を出迎えたのは、店員であるノキであった。

 わずかに俺は緊張する。認識阻害は、あくまで中身を物理的に悟られないというだけで、話し方や喋った情報から推測することは普通にできるのだから。声や外見が意識に残らない、知り合いと結びつけられないという程度の効果しかない。

 簡単に言えば、喋りに特徴的な訛りがあるとか、本人しか知り得ない情報を漏らすなどすればバレてしまうということである。知り合いに対してしか意味のない魔具でありながら、知り合い相手ならば推測で正体を当てられかねない。要するに大して役に立たない。

 だから、ノキに気づかれる可能性がないわけじゃなかった。

 実際に話したのは、せいぜいが出店の打ち合わせと、あとは魔競祭予選前くらいとはいえ――知り合いの目の前に来ると緊張する。一度も使ったことがなかった(使えるようで、ぶっちゃけ使えない魔具だ)ため、実際に効果があるかどうかはわからないのである。

 魔力っぽいものは感じるが、さすがに迷宮産の魔具の術式までは読み取れない。そもそも今の俺に魔術は使えない。

 せめて試すくらいのことはすればよかった。


「――いらっしゃいませ。一名様ですね、お好きな席へどうぞ」


 さいわい、ノキが気づいた様子はなかった。いくらなんでも顔を見れば俺だとわかるはずなので、魔具は正常に機能しているらしい。

 ぶっきらぼうながらも丁寧な案内に導かれて、俺はカウンター席に腰を下ろす。白黒二色の制服はかなり似合っていて、ノキはかなり可愛らしい出で立ちだ。ほかの女性店員ふたりの年齢を考えれば、普通にいちばん人気なのは、実のところ彼女なのかもしれない。

 さて。カウンターに座るということは、すなわち珈琲屋の至近距離に座るということである。

 眼帯のないほうの瞳が一瞬、俺を鋭く見据えた――気がした。

 大丈夫。バレない。バレるわけがない。

 俺は自分に言い聞かせる。勘のいい珈琲屋のことだ、どんな些細な部分から正体に迫られるかわかったものではないが、さすがにひと言も話していないうちから気づかれて堪るか。


「いらっしゃいませ」


 果たして、珈琲屋が言った。俺は安堵に包まれる。

 もし気づかれていた場合、珈琲屋は俺に『いらっしゃいませ』などと丁寧なことを言わない。どころか嫌味のひとつでも落としてくるだろう。

 それがないということは、つまり気づかれていないということである。

 バレるはずがないとは思っていたけれど、正直かなり肝が冷えた。


「ご注文は?」

「あ。えっと――ブレンドひとつで」

「……畏まりました」


 一分の隙もない営業スマイルで、珈琲屋が注文を受け取る。

 無骨な眼帯にさえ慣れてしまえば、珈琲屋は、少なくとも外面上はかなり取っつきやすいほうだろう。それに騙されているからこそ、この店は女性が多いのかもしれない。客にも店員にも。

 ……なんか、いきなり腹立ってきたなあ……。

 ウェリウスもかなりアレな奴だし、考えてみると俺の周りにはロクな男がいない気がする。いちばんマシなのが親父さんという時点ですでに駄目だ。

「…………」それも違うか。

 どう考えても、女性陣のほうがぶっ飛んでいるだろう。絶対に口にはできないけれど。


 なんて、そんなことを思いながらも、俺はさりげなく店内へ視線を向ける。

 客層はまばらだった。時刻は、地球でいうところの午前十時辺りを少し回ったところ。この時間だと冒険者連中は訪れないだろう。酒場代わりに、商人や貴族が落ち着いた朝を楽しんでいる。

 ここまでコーヒーが、あるいは喫茶店という文化が普及しているのは、それこそオーステリアくらいのものだろう。というか、この街でさえ、オセルはまだ《知る人ぞ知る》という扱いだ。飲茶の文化でさえ、安い葉を除けば金持ちくらいにしか浸透していない。

 まあ、だからこそ珈琲屋はこの業種に目をつけたのかもしれないし、違うのかもしれない。

 特に知ろうとは思わなかった。


 それにしても、気になるのはアイリスの姿がないことだ。

 まさか迷ったということはないだろう。それなら珈琲屋やノキが、もう少し慌てていてもいいはずだ。

 ちなみにモカちゃんもいないが、まあモカちゃんはいるほうがレアケースだという話だ。どうも気が向いたときに、気が向いただけ手伝うというスタンスらしい。

 つーかあの子、絶対にいいとこのお嬢様だと踏んでいるのだがどうなのだろう。性格的にはそういう感じじゃないが、身なりは整っているし歳の割に頭もいい。つまり、ある程度の教育を受けている。

 まあ、この街に住んでいるのは冒険者と商人、学生を除けば、残るは金持ちだけだ。そのどれかと考えるなら、消去法でお身分お高めの子かな、と思った程度のものである。


 と、そんなときだった。

 奥のほう――二階建てのオセルの上側部分に続く廊下の扉が、わずかに音を立てて開いた。

 現れたのは、まずモカだ。制服は着用していないことを鑑みるに、おそらくはただ遊びに来ただけなのだろう。

 そして、その後ろからもうひとつの人影。思わず俺は目を奪われていた。


 そう。そこには天使がいた。

 正確には、そう錯覚するくらい可憐なアイリスがいた。


 白地の衣服に黒い前掛け。下は黒のスカートと、見た目にはシックな出で立ちだ。

 だが、それが褐色の肌を持つアイリスと異様に似合っている。本当の意味でモノクロの彼女だが、なぜだろう、後光が差しているのではないかと思わせるマジこれすっげえ超絶可憐天使。

 出店のときにも見たはずなのに。

 あれか。ここが喫茶店だという場所補正があるからか。

 もはや一枚の絵画とも言うべき秀麗さだ。ここは天上の世界なのかもしれない。


「着替え終わったよー、レン」

 奥から出てきたモカちゃんが、そう軽く珈琲屋に告げる。

 なるほど。どうやら制服を合わせていたようだ。モカちゃんはその補助だったのだろう。

 いい仕事をしている。ここに新しく、ひとつの宗教が完成した。

 全人類がアイリスを信仰するようになれば、世界はきっと平和になる。

 さっきから俺は何言ってんだろう。


 冗談はさておき、実際その制服はアイリスによく似合っていた。ご丁寧にも、喫茶《オセル》では店員によって制服の意匠デザインが全て違うという力の入れようだ。全体的には同じ落ち着いたデザインラインなのだが、ディティールがそれぞれ異なっている。というか、凝っているというか。

 別段、恥じらうといった様子もなく、アイリスは普通に制服を着こなしている。デザイン性と動きやすさの両面に気を払って作られたのだろう。ここまでの縫製技術となると、確実に魔術が使われている。

 金の使いどころを間違っている気がするが、まあ可愛いのだから問題ない。

 よくやった珈琲屋。俺は、初めてお前を尊敬している。


「じゃ、問題ないようなら入ってもらえる?」

「ん。わかった……はいる」


 アイリスはとてとてと小走りでカウンターの裏に向かい、まずは皿洗いから始めていた。



     ※



 それから俺は、アイリスの仕事振りを逐一観察し続けていた。

 といっても別に何か事件があったとか、問題が起こるようなことはなかった。彼女はそつなく仕事をこなし、俺は実に三回目のお代わりを胃に流し込んでいる。

 まあ、ぶっちゃけ言って暇だった。

 何があるわけでもない。何かあっても困るのだが、何もなくてもそれはそれで持て余す。

 そのうちに、だんだんと自分が何をやっているのかわからなくなってくる。さすがに冷静さを取り戻した脳が、いい加減そろそろ帰ろうかなあ、と至極真っ当な判断を下し始めていた。

 三回目のお代わりは、アイリスが配膳してくれたのだが。

 なんかもう、普通に「ありがとう」と言って済ましてしまった。マジで何してんだ俺。


 そうこうしているうちに、陽も沈み始めた。

 探索終わりの冒険者が、徐々に席を埋め始める。この店では、遅い時間には酒も出しているからだ。

 喧騒に溢れた交流の場としての酒場とは違い、静かに酒精を楽しむ場所としても、オセルは重宝されているわけだ。

 アイリスは大人気だった。

 店の雰囲気のお陰か、粗野粗暴に加えて粗忽と、あまりよろしくない三拍子の揃った冒険者ではあるが、この店を訪れる客層は比較的落ち着いた人々が中心だ。当たり前の話、別に冒険者全員が荒くれ者というわけじゃない。傾向は傾向であり、例外は前提だ。

 だから、というわけでもないのだが、幼い店員であるアイリスが夕刻、酒を入れる客の相手をしていても、そう問題はない。また問題があったところで、彼女の対応力ならば困らないのだ。


 そんなときだ。目の前でこんなことが起こった。

 冒険者らしい男女ふたり組の客が、互いにどこか険悪な色合いを醸し始めたのだ。まあ痴情の縺れというか、要は別れ話でもしているのだろう。

 次第に感情が昂ぶっていく。男のほうが声を荒げた瞬間に、酒の入った杯がテーブルから落下してしまったのだ。当然――そのまま落ちれば床が汚れる。金属製の杯が割れることはないだろうが、かといって迂闊には違いあるまい。

 その直前だった。

 近くにいたアイリスが、杯を片手で掴み取ったのだ。

 床に落ちる前に、中身を零すことなく。酷くあっさりと、とても簡単なことのように。

 さすがの身体能力というか、ぶっちゃけ客のふたりは目を真ん丸に見開いた。そこにアイリスがこう告げる。


「あぶない……です」


 こう言われて、逆上するほど酔ってはいなかったらしい。というより、むしろ冷や水をかけられたようにふたりは冷静になった。

 さすがにばつが悪いのだろう。黙り込むふたりに、アイリスは軽く小首を傾げて、

「どうか……しました、か?」

「……あ、いや」

「別に……」

 純粋なアイリスの問いに、ふたりは気まずげに顔を逸らす。

 その反応に、アイリスは彼女なりに何か読み取れるものがあったのだろう。

「けんか、しちゃ……だめ」

 ふたりを嗜めるかのように。

 そう、小さく呟いた。

「なかよく……しよ?」

 説得というには幼すぎる。忠告と呼べるほどの中身もない。

 ただその無垢さが、そうであるからこその正論が、響くこともきっとある。


 ふたりは、それから冷静に話し合うことができたようだった。


 静かな店内で目立っていたふたり。正直、周囲の客がいい視線を向けていたとは言えまい。

 それを丸く収めたのだ。もちろん運がよかっただけだとも言える。アイリスがどこまで考えて喋っていたのかなんてわからない。

 それでも意味はあったのだろう。

 俺は、どこかで安堵している自分を見つけた。一抹の寂しさを覚えながらも、確かに納得したことがあったのだ。


 ――きっと、この子は俺がいなくても大丈夫なのだと。


 それだけで充分すぎる収穫だ。俺がいなくなったって、アイリスは充分にやっていける。そのことを確信できたのだから。

 アイリスを助け出したマイアが、いったいどういうつもりだったのかはわからない。だがアイリスは何も、守られるだけの弱者ではないのだから。

 そんなこと――理解していたつもりなのに。

 それでもわかっていなかった。今になってようやく理解できた。

 俺は、店を後にしようと珈琲屋に声をかける。


「すみません。お会計いいですか?」

 珈琲屋は、なぜだかとても不快そうな顔で答えた。

「……もう用事は済んだのか」

「はい……?」

「朝からずっと居座りやがって。煙草屋、お前はっきり言って気持ち悪かったぞ」

「……な」絶句しかけて。「なんのことですか……?」

 どうにか誤魔化した。だが意味などなかったのだろう。

 珈琲屋はすでに確信しているようだった。

「やめろ。お前に敬語なんざ使われるとぞっとする」

「……なぜ気づいた」

「ひとりの店員をひたすら眺め続ける怪しい奴がいれば気づくわ。何時間いたと思ってる」

「…………」

「だいたい俺は常連なら基本的に顔を覚えてんだ。この世界で《ブレンドひとつ》なんて普通に注文できる奴は、まず間違いなく俺の店に来たことのある奴だけだからな。それで姿を隠してんなら、正体も自ずと限られてくるだろう。わからないわけあるか」

 返す言葉もない。というか見られてたんかい。

 それで声をかけてこない辺り、まったく珈琲屋もいい性格をしている。


「うるせえ! つけとけ! 帰る!」


 なんとかそれだけを叫んで、俺はオセルを立ち去った。

 もう、しばらくこの店には来られそうにない。



     ※



 自室に戻ってしばらくすると、アイリスも仕事を終えて帰ってきた。

 この世界に労働基準法的なものは(たぶん)ないが、元は地球人の珈琲屋が店主だけあって、その辺りは気を使ってくれているのだろう。

 店自体は、日付けを少し回るくらいまで開いていたはずだ。


「……アイリス。仕事は楽しかったか?」

「うん。たのしかった、よ?」

 こくり、と小さく頷く少女。俺は「ならよかった」と軽く笑い、彼女の頭に手を乗せた。

 その髪を軽く撫でてやる。気持ちよさそうに目を細めるアイリスの姿に、思わず笑みが零れてしまう。

「お湯を浴びてきな。用意はしてあるから」

 仕事の疲労を気遣って告げると、アイリスは軽く頷いた。

 だが、珍しく動き出そうとしない。疑問に思った俺が「どうした?」と訊ねると、


「アスタ……今日、なにしてたの?」

「え? 何、って……」

「ずっと、おみせ、いたよ?」

「…………なんでわかったのん?」

「においで、わかるよ?」

「……そっか」


 ならどうしようもない。まったく、なんて使えない魔具だろう。

 まあ、単に俺がわかりやすかっただけなのだろうが。


「ちょっとね。アイリスが働いてるところ、見ておきたいと思ったからさ」

「そう……なの?」

「ああ。アイリスは偉いな。ちゃんとお仕事できてた」

「……へへ」

 はにかむように少女は微笑む。花の咲いたような笑みだった。

 褒められることが、嬉しいのだと。そんなことさえ知らなかった頃とは、ずいぶん変わってきたようだ。

 俺はもう一度だけアイリスの髪を軽く撫でる。

 目を細める少女の頭の、柔らかな感触を確認してから、名残惜しくも手を離した。

 だが、アイリスは俺が手を離しても、透徹した瞳でこちらを見ている。普段ならすぐ湯浴みに行くだろうに、今日に限ってはなぜか動かなかった。

 どうしたのだろう。頭を捻る俺に、彼女はふと、こんな風な提案をした。


「ねえ……アスタ」

「ん、どした?」

「……おふろ。いっしょに、はいろ?」

「え、ああ……お風呂? お、え、風呂っ!? いっしょに!?」

「うん。はいろ?」


 きょとん、と小首を傾げるアイリス。その言葉に秘められたアレやコレやは、どうやら一切わかっていない。

 どうしたものかと考え込む。

 いや、別に問題ないのだろうとは思うけれど。義理とはいえ兄弟だし、可愛いとは思うけれどさすがにそういう方面で意識するような相手でもない。そんな年齢差じゃないし、そこまで性癖壊れてない。俺は大きいのが正義だと思っている。それはともかく。

 別に構わないとは思うのだ。アイリスが、本当にその行為の意味を理解して言っているのなら。

 ただ彼女の場合、多少親しい相手ならば全員に同じ提案をしかねない怖さがある気がする。

 まあ歳が歳――といってもアイリスの正確な年齢など知らないが――だし、それほど気にすることでもないとは思っていた。

 とはいえ、俺もいつまで彼女を見ていてやれるのかはわからない。


「……アイリス、それは――」

 だから、断ろうと思った。彼女の情緒は、育ってきたとはいえ未だ無垢すぎるほどに幼いのだから。

 先ほどの店での顛末のように、それがプラスに働くこともあるだろう。けれど当然、逆だってあり得るのだから。それを最後まで、俺が教えてやれるだなんて保証はない。

 けれどアイリスは折れなかった。

「だめ……?」

 俺が言い切るより先に、食い下がって見せたのだ。

 決して小さくない驚きがあった。

 なぜなら、アイリスは基本的に自分の願望を前に出さない。欲求を強く主張しないのだ。確かに最近は変化してきたのだが、それでも自分から《わがまま》を言うことなんてほとんどない。

 その彼女が今、望みを言葉に変えている。俺に向かって、きちんと意志を伝えている。

 その変化を――俺は。



     ※



 その後の顛末を、特に語ろうとは思わない。

 入浴し、いっしょに夕食を終えたあとで、すぐ床についてふたりで眠った。

 寝床の中で天井を見上げながら、俺は無言のまま思案する。


 ――俺はこれから、王都まで旅に出る予定だ。

 エウララリアとの利害の一致から、王都に用事ができたのだ。


 果たして――その旅に俺はアイリスを連れて行くべきなのだろうか。


 その答えを思案したまま、静かに俺は瞳を閉じた。

 答えなんて、初めからもう出ているのかもしれないけれど――。

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