S-05『天災少女と幽霊屋敷(後)』
女性の霊が抜けていった壁に、シャルがそっと手を触れる。
仄暗い迷宮。そんな中でも、あの幽霊はまるで自らが淡く光を発しているかのように、ぼんやりとその存在を主張していた。
まるで、こちらへ向けて呼びかけているかのように。
そこに悪意や敵意は感じなかった。ただ純粋に、ふたりをこの場所へ誘っているかのような気配さえシャルは感じる。
「……ここ、何かあるね」
呟いたのはメロだった。それにはシャルも同意する。
しばし考えてから、シャルはゆっくりと、自身の魔力をそこに流し込む。なんの変哲もない、見た目にはごく普通の迷宮の石壁。
そこに、まるでシャルの魔力と呼応したかのように、ぼんやりと輝く文様が浮かび上がる。
魔術陣だ。図形そのものが術式としての意味を持つ高等魔術。現代ではほぼ扱える魔術師はいないとさえ言われる、迷宮だけに遺された、現代では失われた技術のひとつ。直線と曲線、そして何かさえわからない文字が複雑に組み合わされて成立する術式。
それに導かれるように、そのとき、石壁がぐにゃりと歪んだ。
その奥に現れたのは――通路だ。
行き止まりかと思えた通路の先には、しかし奥へ続く道が隠されていた。狭い通路の壁、その天井には淡く輝く一列の光球。それが照明代わりとなって、ふたりを先へと誘っている。
「……人工的だね」メロが言った。「まあ迷宮ってのはだいたい、大本を辿れば人工物だって説が濃厚らしいけど……これはそういうレベルじゃない」
「迷宮ができた、そのあとに手が加わってる……?」
「そう考えるのが妥当だろうね」
シャルの呟きに、メロが小さく肯定を返した。
本来、それは驚くべき事実だろう。だが意外なことに、シャルが覚えた感情は驚愕よりもむしろ納得が大きかった。
どこかで、そうではないのかという思いがあった。
駄目だとわかっていた試験の結果が、想像通りに戻ってきたような、そんな気分。
通路の先を見れば、およそ二十歩ほど先に木製の扉がある。どこか手作りじみていて、なんだか石造りの迷宮とはずいぶんとミスマッチだった。
あの長い白髪の女性は、この場所へ呼び出しているのだろうか。
確認するためには、前に進むほかない。
「……行こうか、メロ」
「うん。行ってみよう、シャル」
頷き合って、ふたりは奥へと歩みを進めた。
※
木製の扉の先には、かなり狭苦しい小部屋があった。
広さにして、シャルの足で縦横五歩程度。木製の研究卓が置かれていて、それが部屋の面積のほとんどを占めている。
その前には椅子。奥側の壁に備えられた机とは反対に、なぜかこちら側を向いている。
そして――その椅子の上に。
白骨化した人間の骸が、静かに腰を下ろしていた。
黒い、魔術師然とした外套を着込んだ骨。これで武装していれば、迷宮に現れる骸骨兵の一種だと言われても信じられただろう。どこも欠損していない。
白く綺麗な、けれど古びたしゃれこうべ。
そのあぎとがかくりと口を開き、静かに言葉を発し始める――。
「――よく来てくれた。礼を言うよ、若い冒険者たち」
男の声だった。ということはすなわち、その遺体は男性のものだということか。
答えを返したのはメロだ。幽霊は怖れる彼女だが、どうやら骸骨を怖がりはしないらしい。
「お礼なんて要らない。その代わり、どうして私たちをここへ呼んだのか、教えてもらってもいいかな?」
「もちろん。話を聞いてもらいたいからこそ、僕は君たちを呼び寄せたのだからね」
どことなく教師か、あるいは研究者のような風情のある口調の男。
彼が喋るたび、小さく骸骨の口が動く。だがシャルは、それを気味悪くは思えなかった。
目の前の骸骨は瘴気で完全に汚染されている。気配としては完全に魔物のそれだ。今にも襲いかかってきておかしくないし、むしろこうして言葉を交わしていることが異常だ。
にもかかわらず、どうしてか脅威を感じることがない。
それが目の前の骸骨から感じる理性のせいなのか、あるいはほかの理由があるのか。
シャルには判断がつけられない。
「――見たところ若い。もしかすると、君たちはオーステリア学院の学生なのだろうか」
骸骨の言葉に、頷きを返してシャルは答える。
「そうです」
「なるほど……懐かしいね。これも《運命》ということなのか――いや、それはいい。そう、実は僕も、かつては学院にいた。出身ではないけれどね。教師として勤めていたんだ」
「かつて、は……?」
その言葉に戸惑いを覚える。だが同時に、どこかで察しはついていた。
つまり、目の前の古い骸骨は――。
「元は、人間だったということですか……!」
骸骨は、苦笑で答える。
「今でも人間のつもりだよ。多少、魔には堕してしまったけれどね」
「でも……そんな。それがどうして……」
「迷宮に囚われてしまったからさ」
骸骨は淡々と言った。
そこに感情の色は見られない。隠している風でさえなかった。
ただ彼にとって、全ては過去のことなのだろう。
終わりが、今も続いているだけで。始まりは彼方へと消えてしまった。
「元々は冒険者をやっていてね。いろいろな迷宮を巡っては、日銭を稼いで暮らしていた。そうしているうちに、やがて有名になってしまってね。――ガードナーから誘いを受けたのは、その頃だった」
聞き覚えのある名前。それはレヴィの、学院長の姓だ。
「元より僕は戦うことよりも、迷宮そのものに興味があったから冒険者を志したのさ。各地の迷宮を転々として、その秘密を解き明かすことに躍起になった。だからその誘いは、渡りに船だったよ」
「それで、教師になったんですか」
「ああ。まあ教師としては二流もいいところだったけれどね。どちらかというと、自分の研究に明け暮れるほうが性に合っていた。七大の迷宮を初めとした各地の遺跡が、どのように成立したのか……まあ、そんなようなことさ」
彼の言う《七大の迷宮》がなんなのか、シャルにはわからない。
五大迷宮ならば、かつて七星旅団がその一角を踏破した迷宮として有名なのだが。それとは違うものなのだろうか。
首を傾げている間にも話は続く。
「そんなときだった。この場所に、瘴気の噴出孔があることに気づいたのは」
「あの廃屋のことだね」
骸骨の言葉にメロが続く。骸骨は頷き、
「そうだね。今はもう廃屋になっているだろうけれど、あの場所はもともと私の研究室だった。正確に言えば、その場所が瘴気の噴出孔になっていると気づいたからこそ、わざわざあの場所に研究室を作ったのだが」
「……この場所は、貴方が作ったんじゃないの?」
「違う。というより、そんなことはできない。僕にできたのはせいぜい、噴出孔に結界を作り時間稼ぎをするくらいのことだった。それも結局、結界を維持するためには、自分自身が同時に内側にいるしかなかったのだけれどね」
それだけでも充分、賞賛に値する実力だろう。少なくともシャルには不可能な域だ。
生前、この骸骨はかなり優れた魔術師だったらしい。
そしてそんな男が、自らの半生全てを犠牲にして、この街を瘴気の流出から守ったのだ。
だが、それは対症療法に過ぎなかった。
「僕にできたのは時間稼ぎが精いっぱいだ。あるいはほかにも強力な魔術師の協力があれば別だが、あの頃まだこの国には、強い魔術師がほとんどいなかった」
そこまで言ったとき、唐突に、骸骨の右腕が外れた。
音を立てて床に落ちると、そのまま粉々に砕け散ったのだ。
「……済まない。久々に喋ったからね、どうも力を使い過ぎたみたいだ。これ以上はもう、持ちそうにない」
「大丈夫なわけ?」
「気にしないでくれ。それより、頼みたいことがある」
砕け散った骨が魔力に還る。元よりこの骸骨が、こうして瘴気に侵されてなお元の人格を保持していること自体が奇跡だった。
だが彼に残されていた余力も、こうしてふたりと話している時間で急速に減少した。そもそも力を失ったからこそ、こうして外部にこの結界の存在が漏れたのだ。メロもシャルも、結果的に間に合ったに過ぎない。
「運がよかった。まさしく《運命》だ。こうして、僕の求めていたふたりが現れてくれたのだからね」
彼が呟くと同時、その背後に先ほどの幽霊が現れた。
まるで、彼に寄り添うかのように。
今度、メロは怖れをなすようなことがない。ただ小さく、男に訊ねる。
「……その人は?」
「僕の教え子さ。馬鹿な子だよ……こんなところにまで付き合って」
その呟きじみた言葉に秘められた感情を、メロもシャルも追及しようとは思わない。
骸骨の肩に、静かに手を置く女と。そしてその手に、残された手を軽く重ね合わせる男を見れば、答えなどわかりきっていたからだ。
「ふたりでこの場所を守ってきたんだね」
「そうだよ」骸骨は自嘲気味に言う。「結局のところ、僕は街を守りたかったわけじゃない。単に彼女を守りたかっただけなんだ――にもかかわらず、このザマさ。結局は巻き込んでしまった」
「彼女の意識は、もうこの世にはないんだ。ただ最後の僕の言いつけだけを、彼女は愚直に守っているのさ。――この結界に来る、全ての人間を追い払えと」
「だから、ああやって脅しに来たわけなんだ」
「それだけじゃない。君たちは、彼女に対して強い恐怖を感じていただろう。彼女を見た者は全て、その意志に関わらず彼女に怯えてしまう。それが限界まで達した瞬間に、全てを忘れ去ってあの結界から逃げ出してしまう。そういう《呪い》が、彼女にはかけられている」
言われてシャルは、メロの怯えようを思い出す。そして同時に、この以来は必ず《ふたり揃って》請けるように言われたということも。
考えてみれば、メロの怖がり方は明らかに異様だった。多少怯える程度ならまだしも、頭を抱えて動くことさえままならなくなるほどの恐怖を、よりにもよってあの《天災》が感じるだろうか。
答えは絶対に否だ。思えばメロの様子が明確に変わったのは、この幽霊屋敷に――言い換えれば結界に足を踏み入れた瞬間からだった。長い年月を経て、迷宮そのものに取り込まれてしまったこの結界は、いわば迷宮そのもの。
つまり、目の前のふたりの領域なのだから。
その点から言えば、二人一組で、という依頼の前提には意味がなかったことになる。何人で連れ立って来ようとも、幽霊の彼女が全て追い返してしまうのだから。
しかし、ではなぜシャルにはその強制的な《恐怖の喚起》が通用しなかったのか。
その疑問は、けれど骸骨の男にもわからないらしい。
「しいて言うなら、やっぱり運命だったんだろうね。この子の呪いが通じない魔術師と、この結界を破壊できるほどの実力を持った魔術師がこの場所に訪れるなんて――こんな僥倖、信じられない」
「……結界を破壊する、っていうのは?」
「言葉通りだ。この結界はもはや持たない。だが君なら――あれだけの魔術を使える君ならば、この結界を噴出孔ごと攻撃できるだろう。完全に破壊できなくてもいい。ただ、迷宮の魔力が修復に使われている隙さえあれば――僕らが遺した術式が、この結界を完全に封印する」
「それをやったら、あたしたち出られなくなるんだけど」
「心配しなくていい」骸骨は笑う。「あれは単なる幻覚だよ。何百年も待ち焦がれた相手だというのに、怪我をさせるわけないだろう」
「……すごいことを、あっさり言うんだね」
メロは、本当に驚いたという風に言う。事実、彼女ほどの魔術師さえ騙し切る幻覚魔術など、いったい何人が使えるだろう。
「生きているうちに会ってみたかったよ」
「言っても詮のないことさ。僕が生きていた時代から、時間が流れすぎている」
「それだけの間、この結界を破壊できる魔術師を待ってたの……?」
呟くシャル。いったいそれは、どれほどの恐怖なのだろう。
たったひとりだけで。誰の助けも求められない、閉じられた迷宮の奥深くで。
訪れるかもわからない誰かを、死してなお待ち続けていた。
だが、男の声に悲壮な様子はない。
むしろ救われたというように。彼は笑みさえ交えながら語る。
「ひとりだったわけじゃない。彼女が、たとえ生前の人格は失ってしまったのだとしても――いつだっていっしょにいてくれたのだから。それだけで、意味はあったんだ」
教師としては二流だと、彼は先ほどそう言っていた。
けれど、シャルはそう思わない。
ふたりの間に何があったのか。もちろんシャルが知る由もない。
けれど――たとえ幽霊になってさえ、いっしょにいたいと思わせるだけの間柄だったというのなら。
「教え子の前で、仮にも先生が無様は見せられないだろう」
彼はきっと、素晴らしい教師であったのだろう。
彼女にとっては、少なくとも。
「どうだろう。頼めるかな? 迷宮を揺るがすほどの火力が期待できれば、その隙に、僕たちがこの結界を完全に封印できる」
「……わかった。それくらいでいいならやるよ、あたしが」
「ありがとう」
「別に」
メロは首を振る。同情のつもりはなかった。
「さあ、時間がない。上までは送ろう。悪いが僕はほとんど動けないのでね。案内していってくれ」
男が幽霊の女に向けて言う。
幽霊は小さく頷くと、その顔をふたりのほうに向ける。
――よくよく見てみれば、ずいぶんと若く、そして可愛らしい顔立ちの少女だ。歳の頃は、それこそシャルたちと同じ学生くらい。
「……ねえ。最後に、ふたりの名前を聞かせてよ」
ふと、メロがそんなことを言う。シャルは少しだけ意外に思った。
そんなことは考えもしなかったからだ。
だってシャルには、ふたりのことが理解できない。全てを、それこそ自分の人生さえ擲って、迷宮を封印しようとした男も。それに付き合った女のことも。
シャルにはまるでわからない。
――その気持ちが、わからない。
男のほうも、やはりその問いが意外だったのだろう、しばし声を失っていた。
けれどしばらくしてから、小さな声で、けれど確かに笑い出す。表情なんてわからない骸骨の頭が、どうしてだろう。シャルには笑っているように見えた。
「人間扱いをされたのは、ずいぶんと久し振りのことだ」
「そもそも、ヒトと会うのが久し振りじゃないの?」
「いや。これまでだって、何人か近くまで来た魔術師はいたさ。まあみんな彼女が追い返してしまったけれどね」
「そ。――それで?」
メロは軽く言う。この少女がいなければ、きっと、もっと早く誰かが結界を破壊していたのかもしれない。
だが逆に、彼女がいなければ、彼はきっと今日まで意識を保ち続けることはできなかった。
「――僕の名前はリオン。リオン=ペインフォート。そして彼女は――」
少女が、小さく口を動かした。やはり言葉としては聞こえないそれは、きっと魔術の詠唱だったのだろう。
それが終わるか終わらないかという頃、彼の言葉が耳に届く――。
「――オリエ=ガードナーだ」
※
気づけば、ふたりは幽霊屋敷の外にいた。
――擬似的な空間転移。
あのリオンという男だけではない。オリエという名の少女もまた、類い稀な実力を持った魔術師であったらしい。さすがはガードナーの姓を持つだけはある、といったところか。
ここに迷い込んだ冒険者たちが、気づけば外に出ていた――という話があった。あれは、彼女がその手で行っていたことなのだろう。
意識を。自分という概念そのものさえ失ってなお、ひとりの男との約束を愚直に守り続けた少女――数百年も昔のガードナー。
その名前の通り、彼女はずっと、彼を守っていたのだろう。
「――ほんじゃ。言われた通り、この屋敷をぶっ壊そうか」
メロが言う。その言葉にはっとして、慌ててシャルは頷いた。
「あ、うん。でもそれで、本当に噴出孔を壊せるの……?」
「当たり前だよ。あたしを誰だと思ってんのさ? ――《天災》だよ?」
メロは笑う。何を馬鹿なことを訊いているのかと。
「何より、あのふたりがいるんだ。これくらいのこと、できないわけがないよ」
「…………」
「シャルは補助よろしく。派手に行くからね、周りに被害がいかないようにしないと」
「……わかった」
頷き、シャルは魔術を起動する。メロの攻撃を一点に集めるための、補助術式だ。
同時にメロがその掌に魔力を集め始める。
「弔い代わりになるんだから。せめて最後は――綺麗なほうがいい」
さすがに天災。七星旅団の一員だ。その魔術規模は、はっきり言ってシャルの想像を遥か超えている。
これほど馬鹿げた力押しならば、迷宮のそれにさえ通用するだろう。
そして、この一撃で迷宮が緩んだ瞬間に、ふたりが残した最期の術式が起動する。
噴出孔を消去する術式が。
天災の本気。一切の加減がない全力の魔術行使。
固有術式。
全天二十一式――第弐番術式。青の魔術。
「――竜星艦隊」
メロが、その片手を突き上げた瞬間。
オーステリアの街の中に、美しい青の柱が突き立った。
まるで、天への架け橋であるかのように。
※
後日。シャルは学院の蔵書を総浚いして古い文献を漁っていた。
そして見つけた一冊の書物。レヴィに頼み込み、禁書庫にまで入り込んで手に入れたのは、オーステリア学院がまだ創設された当初の記録だった。
リオン=ペインフォート。
当時、魔術師としては最高位階である《魔導師》にまで上り詰めた稀代の鋭才。迷宮の歴史を研究し、多くの迷宮が人工物であることを突き止めた偉大な研究者。
一度それを見つけてしまえば、彼に関する記述を探すのは容易かった。
迷宮に関する書物で、彼の名前が出てこないものを見つけるほうが難しいというくらいに。
一方、オリエ=ガードナーに関する書籍は、一切見つけることができなかった。
だがその点に関しては、学院長が話をしてくれた。レヴィが学院長に取り合って、シャルに禁書庫の閲覧許可を貰ってくれたこと自体、オリエの名前を出したからでもある。
華々しい功績を遺したにもかかわらず、晩年の記録はほとんど残っていないリオン。彼は突如として失踪し、おそらくはどこかの迷宮で命を喪ったのだとされている。
「――ですが学院には、こんな記録も残されています」
ガードナー学院長は言った。
曰く、その当時、教師として赴任してきたリオンと最も交流が深かったのが、ほかでもないオリエ当人であったという。
「世間的にはともかく、ガードナーの中では悪い意味で有名になってしまったのが彼女です。家系の使命を果たさずして、学院さえ卒業せず出奔した恩知らず――それが現在でのオリエの評価です。一説には、当時の教師と駆け落ちしていなくなったとも。いずれにせよ、いい噂はひとつも聞きませんね」
「そんな……っ!」
シャルは叫びたい気分だった。だって、そんなことは許せない。
今だって、シャルにはオリエの気持ちがわからない。ほかの全てを優先し、命まで賭して街を――そしてひとりの男との約束を守る気持ちが、シャルにはどうしても理解できないのだ。
それでも許せなかった。
彼女は、本当は街を守ったのに。ガードナーの使命に殉じ、オーステリアを、リオンを守ったというのに。
顔を歪めるシャルに、学院長は微笑んでこう言った。
「貴女がどこでその名を知ったのか、あえて訊ねることはしません。ですが私からは、この日記を渡しておきましょう」
手渡されたのは、古ぼけた一冊の日記帳だ。その裏表紙に記載されているのは、オリエという名前だけ。
数百年も過去の日記が、なぜ今もなお残されているのか。その理由はわからなかった。
けれど――それでもここには残っているのだ。
オリエの意志が。彼女が考えて、シャルが求めていたことの答えが。
――リオン様が学院に来てくれることになった! 嬉しい。私は全ての魔術師の中で、リオン様をいちばん尊敬している。
――彼の研究はどれも興味深いものばかりだった。このオーステリアの迷宮にも、もしかすると隠された秘密があるのかもしれない。そう思うととてもワクワクする。
――今日も先生が学院に来ない! いっつも研究ばっかりで、ちょっとだけ寂しい。本当は先生、学院になんて来たくなかったのかな……。
――あたしはすごいことに気づいてしまった。来ないなら、こちらから押しかけてしまえばいいんだ! 突然に押しかけたあたしにも、先生はすごく優しかった。
――リオンといるとどきどきする。どうしてだろう。学院で魔術を勉強するより、リオンといるほうがずっと楽しい。
――秘密を知ってしまった。リオンが見つけた、見つけてはいけなかった秘密を……。どうしてこの街にガードナーが住んでいるのかということを。
――リオンを助けたい。でもあたしはガードナーだ。勝手は許されない。どうすればいいのかわからない……。
――構わない。それでもあたしは決めたんだ。ここに彼を呼んだのはあたしだ。何より、このオーステリアを守護するのはガードナーの役目なんだ。だから助ける。もう迷わない。
――あたしがリオンを、守るんだ。
日記は、そこで終わっていた。そもそもところどころが破けたりかすれたりしていて、まともに読めたものではない。
思わずシャルは、学院長に向けてこう訊ねていた。
「……学院長は、この日記を読んだことがないんですか……?」
これを見て、それでも彼女を悪く言うのだろうか。
問いに、学院長は薄く微笑んで答える。
「ご先祖様の日記を、そう簡単に開けるものではありませんからね。それでも、誰かに読まれるべきなのだとしたら、きっと貴女だと思っただけです」
「……でも!」
「それに、私は信じていますからね」
学院長は微笑む。
その悪戯っぽい笑みは、どこかレヴィにも似ている気がして。
「――ガードナーの女はみんな、何かを守らずにはいられないということを」
※
そして、今回のオチ。
屋敷から戻ったメロは、久々にアスタのいる部屋へ戻ることにした。
すでに時間は遅い。アスタはもう寝ているだろう。
そのほうが、好都合ではあるのだが。
こっそりと部屋に押し入った。アスタは当然、寝台で寝息を立てている。
その隣には、アイリスの姿もあった。
感覚が鋭いのだろう、アスタですら気づかないメロの侵入を、アイリスはあっさりと察知して顔を上げる。
「……メロ?」
「そだよ。ごめんね起こして」
「ううん……おやすみ」
メロの顔を確認するが早いか、アイリスは再び一瞬で眠りにつく。
まあ、おねむの時間ということなのだろう。
そのほうがいい。
メロはそのまま忍び足で、二人が眠る寝台に近づいた。
そして、その中へと侵入する。
さすがに狭い。アスタを中心として、三人が寝台に乗っているのだが、そもそも複数人で使うことの想定されたものではないのだから。
ただ、その狭さでさえ、今のメロには都合のいいものだった。
「……これはそう、なんとなく、そういう気分だったからってだけだからね……」
呟くメロ。誰も聞いてなどいないのに、誰かに対して言い訳する。
「別に、本当に怖かったからとかじゃないから……。そう、お金がないってだけだから……」
こちらに背を向けて、アイリスを守るように向かい合って眠るアスタ。
その背に、自分の背中をくっつけて、メロは毛布に潜り込む。
「……起きるまでの、間だけだから……」
天災少女の長い一日は、ようやく終わりを迎えたのだった――。




