帝銀事件
この事件は「戦争の思わぬ傷跡」を執筆する際に参考にした事件です。未解決事件特有の闇をお楽しみください。
時は1948年。太平洋戦争から3年が経過し、日本はGHQに統治されていた。
1月26日。東京の帝国銀行椎名町支店。木造平屋の小さな建物だった。閉店直後の午後3時過ぎ、身なりの良い紳士がこの銀行を訪問した。支店長は体調不良により不在だったため、代理の吉田が対応した。
紳士の見た目は45歳程度で坊主頭、柔和かつ知的な雰囲気で、赤いゴム靴を履き、黒いコートを着ていた。一見医師のようにも見えたが、それにしては手が武骨すぎる。吉田には「東京都衛生課並厚生省厚生部医員 医学博士」と書かれた名刺を渡した。たしかに男の白い腕章には赤く東京都章が描かれ、その下には「防疫消毒班」とあった。名刺には名前もあったはずなのだが、吉田は事件の後、事情聴取の際にはそれを覚えていなかった。
男はとても丁寧な口調で、このような事を話した。
「近所の相田さんのお宅で集団赤痢が発生しました。しかも、1人は感染が疑われる時期にこの銀行に来ていたそうです。なのでGHQのホーネット中尉率いる防疫隊がもうすぐここに来ます。私は消毒前に予防薬を飲んでいただくためにやってきました。」
赤痢は胃腸系の伝染病である。このころはGHQも防疫に力を入れていたし、上下水道の整備もまだまだ不充分で、人々は伝染病をとても恐れていた。その場にいた店員の妻子も予防薬を飲むよう指示された。
16人が、男をとり囲んで薬の飲み方を聞く。
「GHQが作った強い薬なので、歯に付いてはいけません。私が飲んで見せますから、同じように飲んでください。薬は2種類あります。最初の薬を飲んで1分後にもう1つの薬を飲んでください。」
男の鞄から液体が入った瓶が取り出され、男がスポイトで人数分に分けた。入れ物には銀行の湯のみが使われた。瓶の中は上層が澄み、下層は白濁していて、かすかにガソリンのような匂いがした。
男は下唇と歯の間に舌を挟み、慎重に薬を飲んだ。銀行員とその家族も、同じようにした。その薬はたしかにとても刺激が強く、ウイスキーを飲んだように胸やのどが苦しくなった。それに耐え、1分後に2つ目の薬も飲んだ。しかし苦しみはおさまらず、銀行員の1人がうがいをして良いか男に尋ねた。男は笑みを浮かべてうなづいた。
全員が争うように洗面所へ向かった。それでも苦しみは酷くなるばかりだった。立つことさえままならなくなり、床に倒れこんだ。男は全員が倒れた後もしばらくその場にいたが、30分後にはどこにもいなくなっていた。
午後4時ごろ、女性銀行員の村田がなんとか外に出て助けを求めた。道路には、女学生2人と老婆が1人いた。村田が3人に異常を知らせ、女学生の1人が派出所に向かった。
すぐに派出所の巡査が銀行に到着した。あちこちに人が倒れ、数人は嘔吐と痙攣を繰り返し、ほとんどは身動き一つしていなかった。
巡査が本署に連絡し、まだ生きていた5人が救急車に乗せられた。病院で1人が死亡し、犠牲者は12人となった。
この事件はたちまち日本中に知れ渡った。
警察の調べで、机の上にあった現金16万円と安田銀行の小切手約2万円が盗まれていたことがわかった。現在の価値では数百万円相当になる。だが、机の近くにあった44万円と金庫の35万円は無事だった。金庫の鍵は、事件前に銀行員が開けたままだったにも関わらず。
強盗目的の犯行だとしたら、銀行の金庫を確認しないはずがないし、16万円を盗む際に44万円も目に入っただろうに、手をつけなかったのは不自然だ。冷静に16人を毒殺しようとしたこの男がうっかりしていたとも思えない。物色する時間はたっぷり30分あったし、見つかりにくい場所にあった訳でもない。
男が冷静に犯行を行った証拠がある。吉田に渡した名刺が無くなっていた。状況からして、男が持ち去ったのだろう。16人がのたうち回っている中で身元が判明する証拠は回収している。これを冷静と言わずに何と言うだろう。
男は普通の一般人ではなさそうだということがわかった。GHQの防疫関係者には、たしかにホーネットという人物がいた。銀行の近くには相田家が存在し、赤痢ではなかったがチフスの疑いで家族が入院、GHQの防疫官が出向く騒ぎになっている。捜査が進むと、男が毒物に関する知識を持っていることも判明した。東京大学と慶應義塾大学で行われた遺体解剖で、犠牲者の胃から容易に入手できない青酸化合物が検出された。
1つ目の薬が青酸化合物で、2つ目の薬は水だった。青酸化合物は、恐らく青酸カリか青酸ナトリウムだろうと思われた。
男は2つ目の薬は飲んでいなかったが、青酸化合物の1つ目の薬を飲んでいた。しかし男に異常は見られなかった。この謎について様々な説が出た。
飲んだと見せかけて実は飲んでいなかったのではないか? 16人が取り囲んでいた中でそれは無理だろう。
どこかで中和剤を混ぜたのではないか? 青酸化合物の中和剤は発見されていないし、配合を間違えればすぐに死んでしまう。
では瓶の中で有毒な層と無毒な層に分離していたのではないか? たしかに油を混ぜていれば分離させることができる。瓶の中は2層になっていたし、ガソリンの匂いがしていた。また、3年前まであった日本軍では青酸化合物を保存する際に空気との反応を防ぐため、油を入れる方法が一般的だった。男は毒物に相当詳しいことが再確認された。
事件後、なんと男は盗んだ小切手を換金していた。どうやら小切手の扱いには慣れていなかったらしく、小切手の裏に書かなければならない住所が書かれていなかった。窓口で指摘され、「板橋三の三六六一」と書いたが、実在する住所ではなかった。
警察の捜査で、以前にこれと類似した事案が2つも発生していたことがわかった。
1つ目は1947年10月14日午後3時。閉店直後の安田銀行荏原支店に柔和かつ知的な雰囲気の男が現れた。支店長に「厚生技官医学博士 松井蔚 厚生省予防局」の名刺を渡してこう言った。
「近隣の家で集団赤痢が発生し、その内の一人がこの銀行に来ていたことが判明しました。なのでGHQのパーカー中尉率いる防疫隊が来ます。私は消毒前の予防薬を飲んでいただくためにやってきました。」
パーカー中尉も、GHQの防疫関係者に実在する人物だった。
支店長は部下に集団赤痢の事実を確認させるために交番へ向かわせた。しばらくして、部下が警官を連れて戻ってきた。警官によるとGHQの防疫隊がいる様子はないし、赤痢の話も聞いていないとのことだった。本署で確認するため、警官は銀行を出た。
警官が去った後に男が鞄から瓶を取り出し、銀行員たちに説明を始めた。
「1つ目の薬を飲んで1分後に2つ目の薬を…。」
男の言葉通りに薬を飲んだ21人の銀行員たちだったが、特に異常は発生しなかった。
少し時間がたって、男が言った。
「本隊の到着が遅い。様子を見てくる。」
そして出ていったきり、帰ってこなかった。
2つ目は1948年1月19日。帝国銀行での事件が発生する一週間前のことだった。やはり閉店直後の三菱銀行中井支店に、柔和かつ知的な雰囲気の男が現れた。支店長に「厚生省技官 医学博士 山口二郎 兼東京都防疫課」の名刺を渡して言った。
「近隣の寮で集団赤痢が発生、その中の大谷さんという人がこの銀行に…。」
「ちょっと待ってください。大谷さんという人が本当に来たか調べます。」
支店長が記録を確認すると、たしかに大谷という人物は来店していたが、男の言った寮とは関係がなかった。
支店長は大谷名義の小為替を男に見せた。
「この人の間違いではありませんか?」
「そうかもしれません。念のためこれは消毒しておきます。」
そう言って男が瓶の中の液体を少しかけ、そのまま立ち去った。
これらの事案は、当時は事件と認識されなかったので報道されていない。服装と雰囲気も似ているため、模倣犯の可能性は無い。警察は同一人物の犯行として捜査を続けた。
1つ目の事案は本番に向けた予行練習のようにも見える。2つ目は、計画を実行しようとして失敗に終わっているようだ。
犯人像がとてもアンバランスなものになった。帝国銀行では極めて冷酷に16人を毒殺しようとしていたが、これが素人による犯行とは考えにくい。しかし、小切手を換金しに来た際には平気で筆跡を残している。警察の手配が早ければ換金に訪れた銀行で捕まっていただろう。薬の飲ませ方も非常に稚拙だ。
その上、実際に16人全員から身体の自由を奪っていたにも関わらず机の上に置かれていた現金を少ししか盗まなかった。明らかに強盗目的ではない。ではなぜ男は毒を飲ませたのだろうか。相田家で伝染病が発生した事実とGHQの防疫関係者の名を知っていた男は。時は1948年。太平洋戦争から3年。インターネットなどもちろん無かった時代。
一部の法医学者は言った。
「1つ目の薬と2つ目の薬を飲む間隔を1分としていることから、男は間違いなく効果が出る時間を知っていた。この数字は素人や、動物実験による知識しかない通常の医者が導き出せるものではない。実際に人間を毒殺した経験がある者。それも一人や二人ではない。詳細な統計をとれるほどの毒殺をした経験者の仕業だ。」
それほどの大量虐殺を犯した人間がいたら、大ニュースになっているはず。まさか捕まっていないなんてことはないだろう。あなたはそう思ったかもしれない。
もう一度思い出してほしい。時は1948年。太平洋戦争から三年…。
ともかく、警察はここで捜査班を二つに分けた。毒物に詳しい人物を徹底的に洗う「主流班」と、名刺を調査する「名刺班」だ。帝国銀行以外の二つの事案で使用された名刺は残っていた。山口二郎は架空だったが、松井蔚は実在することがわかった。
余談だが、名刺班には後に吉展ちゃん誘拐殺人事件を解決した平塚八兵衛がいた。
1963年3月31日に当時4歳の吉展ちゃんが行方不明になり、その2日後には犯人から身代金を要求する電話が入った。報道が過熱し過ぎないよう、日本で初めて報道協定が結ばれた。犯人の電話を公開してまで吉展ちゃんを捜索したが、1965年7月5日に東京都荒川区の寺で白骨化した吉展ちゃんが発見された。
その後、ある人物が容疑者に浮上するも、事件当日は福島県に帰省していたと主張され、そのアリバイを崩せなかった。しかし、平塚八兵衛が容疑者のアリバイを崩して容疑者を逮捕することができた。
話を元に戻す。松井蔚は仙台の医学博士で、名刺は彼のものだった。松井は旧陸軍防疫給水班所属で、生物兵器を研究していた731部隊とも繋がりがあった。ちなみに731部隊の正式名称は関東軍防疫給水部本部だ。毒薬にも詳しく、当初は犯人と疑われたが、アリバイと犯人ではない状況証拠が多数あった。
松井は過去に部下だった誰かが名刺を悪用した可能性があると警察に話している。名刺班が、松井の名刺を受け取った人物を洗い直し始めた。
松井が作成した名刺は100枚で、手元に残っていたのは8枚。松井が名刺を渡した場所、時刻、相手を全て記録していたため、捜査は大いに進展した。渡した名刺92枚中、回収できたのは62枚。事件と無関係に紛失したと見られるのが22枚だった。行方不明の名刺は8枚。
8枚の名刺を捜索すると、ついに一人の容疑者が浮上した。
平沢貞通。56歳の一流画家だった。1947年に青函連絡船で松井と偶然出会い、その場で名刺を交換した。だが、警察が捜査した際には松井の名刺を持っていなかった。電車で財布ごと盗まれたのだと言う。
帝国銀行の事件で生き残った4人に平沢の顔写真を見せると、意見は「似ている」「似ていない」と2つに割れた。しかしその後、平沢が過去に銀行で4件の詐欺事件を起こしていたことがわかり、小切手の筆跡と彼の筆跡も「似ているようだ」という鑑定結果が出た。
本人は否定し続けたが、帝国銀行で発生した大量毒殺事件の犯人として平沢貞通は逮捕された。事件から7ヶ月後の8月21日だった。
事件の前後、平沢の銀行口座に謎の8万円が振り込まれていた。平沢はこの8万円について何も話さなかった。
平沢のアリバイだが、事件当日の午後2時に丸の内で娘の夫と会い、そこで30分ほど話して家に帰ったと供述している。午後2時30分まで丸の内にいて、午後3時に帝国銀行椎名町支店まで行くのは厳しいが、不可能ではない。
平沢が帰宅した後、そこで娘の友人であるGHQのエリー軍曹と会ったと言う。丸の内の件で出た娘は次女だが、今回の娘は三女だ。エリー軍曹から証言があれば、平沢が犯人ではないというアリバイが成立する。しかしエリー軍曹はいきなり本国に呼び戻され証言は得られなかった。まるで彼が証言台に立つのを誰かが嫌がったかのように。
平塚八兵衛による取り調べのさなか、平沢は自供した。警察は帝国銀行での大量毒殺事件を解決する大金星をあげたということで、盛大な打ち上げが行われた。出席者の中にはGHQの高官までいた。
ただ、これでみなさんは納得できただろうか。ただの画家である平沢が毒物を入手した経路は? 毒物に関する知識を得た方法は? 相田家での伝染病発生の事実とGHQの防疫関係者の名をどうやって知ったのだろうか? おまけに物証は無いと言っていいほど少ない。現場からは平沢の指紋なんて1つも検出されていない。
平沢の容疑を裏付けるのは自白のみ。名刺以外は銀行詐欺も8万円も事件とは直接関係ないものばかり。財布の盗難届けも確かに出されていた。
筆跡鑑定の結果も「似ているようだ」とは聞いて呆れる。鑑定者によっては「別人だ」と断定した者もいたくらいだ。
2つの事案も含めた目撃者の意見もやはり「似ている」「似ていない」と二つに割れた。少なくとも平沢が犯人だと断言した者はいなかった。
初公判で、平沢は容疑を否認した。
「あの自白は、精神的拷問の結果引き出されたものである。」
この発言が真実だとすれば、事件はまだ解決していないことになる。
その後、具体的に何だったのか不明だった、毒殺に使用された青酸化合物に極めて類似するものが発見された。それはアセトンシアンヒドリン。戦時中に陸軍第九技術研究所で開発された化学兵器だ。胃などの酸性下では安定しているが、水を飲むなどしてアルカリ性下になるとアセトンと青酸に分解される。そして強い毒性を発揮し、対象を殺害する。軍属の研究者たちは、これを青酸ニトリールと呼んでいた。もし男が出した1つ目の薬がアセトンシアンヒドリンで、2つ目の薬が水だったとしたら、まさに予想される結果が重なる。水を飲むとやがて青酸に分解し、強い毒性が放たれ…。ああ、阿鼻叫喚、死屍累々。
もし使用されたのが青酸カリだとすれば、16人全員が薬を飲んだとは考えられない。青酸カリには即効性があり、誰かが苦しみ出せば他の人々は不審に思う。誰かが飲み干すまで様子を見る人もいると予想できたはずだ。青酸ニトリールは遅効性で、胃の状態が変わるまで有毒化しない。ただし、これは陸軍第九技術研究所や731部隊といった軍属の研究者以外は非常に入手しにくい薬品だった。平沢どころか、医学博士の松井蔚でも入手できないはずだ。
また、取り調べも拷問に近い過酷なものだった。それ以上に、平沢はコルサコフ症候群にかかっていた。事件の約20年前に狂犬病の予防接種を受けた際に発症してしまったようだ。
コルサコフ症候群は精神疾患のひとつで、主な症例に虚言癖、記憶障害、判断力低下などがある。自らの記憶の穴を埋めるように、自分への損得も関係なく嘘を繰り返してしまう。その嘘も、相手が喜びそうな話や自慢話を好んで話す傾向がある。平沢の自供もコルサコフ症候群によるものではないかという疑いが出てきた。過去の銀行詐欺も、すぐに発覚する計画性のない犯罪だった。12人を冷酷に殺害して証拠の名刺を持ち去った男とはイメージが異なる。
状況証拠のひとつだった謎の8万円。平沢は何も話さなかったが、客に描いた春画の料金だった可能性が出てきた。一流の画家が女性の裸体を描いていたとは知られたくなかっただろう。絵を買った客に対する信用問題に発展するかもしれない。
そのため、平沢は犯人ではないのではないか、という見方が世論でも高まっていった。ところが1950年、東京地方裁判所で死刑判決が言い渡された。平沢は控訴したが退けられ、1955年には最高裁判所で死刑判決が確定した。それでも平沢は冤罪だと訴え、再審請求を繰り返した。
平沢が宮城刑務所に移送された1962年には「平沢貞通氏を救う会」が発足した。作家や政治家、法曹関係者が名を連ねており、事件当時は捜査2課の主任だった人物も参加していた。
1967年。捜査に関わった甲斐警部の私的捜査記録が存在することがわかった。この私的捜査記録は後に「甲斐メモ」と呼ばれることになる。
甲斐メモによると、警察は当初、旧日本軍関係者を疑って捜査していたようだ。ところがGHQからストップがかかり、捜査を進められなくなってしまった。平沢が浮上したのはその後だ。
ここまでのストーリーを見返してみると、至る所にGHQが関係している。犯人の男は「GHQから派遣された」と発言し、GHQの人物の名を知っていた。相田家に伝染病が発生したことも、GHQなら把握している。
甲斐メモには、主流班の動きが記録されていた。主流班は毒物に詳しい者を捜査したが、旧日本軍関係者の中に犯人がいる可能性が高いと見ていた。男が犯行に使用したスポイトは正確にはピペットと言い、旧日本軍の研究所で使用されていたタイプと同じだった。そのため旧日本軍の関連部署が徹底的に洗われた。その過程で、かつて陸軍第九技術研究所に所属していたある人物が証言した。
「青酸カリで帝国銀行のような殺し方はできない。遅効性の青酸ニトリールという薬品がある。それから、人体実験で捕虜に薬を飲ませるときには、まず自分が飲んだふりをして安心させるという方法があった。」
他の旧日本軍関係者も「薬は青酸ニトリールだったに違いない」と口々に話した。旧731部隊長は、自分の部下に犯人がいる気がするとも証言した。警察に旧731部隊員のリストを提供したほどだ。
そのリストの中から、確実に犯人ではない者を除外していった。最後まで残ったのは諏訪中佐。外見はスマートで知的、紳士的な雰囲気を持っていた。しかし中佐は友人や知人との交流が全く無く、行方が分からなかった。
そのため警察が諏訪中佐をとことん捜査したが、事件の翌年に病死していたことがわかった。この方面の捜査は完全に行き詰まってしまった。
ところで、事件を捜査していたのは警察だけではなかった。各新聞社もそれぞれの情報網で調査を進めていた。
ある日、読売新聞の大木次長が警視庁に呼び出された。警視庁の一室には捜査本部長とGHQの軍人が待っていた。
「石井部隊は、対ソ連戦に備えて温存中である。これを暴かれては米軍は非常に困る。調査から手を引いてくれ。」
石井部隊。あの731部隊の別名だ。初代部隊長の苗字から取られた。「対ソ連戦に備えて温存中」というのは意味不明だ。
同じ読売新聞の社会部記者にも捜査本部長から電話があった
「今、君がやろうとしている事件から手を引いてくれないか。権威筋からの命令でね。」
この時代、警察以上の権威を持っていたのはあの組織だけだろう。この事件に異様に関係する、連合国最高司令官総司令部…。
なぜ彼らから新聞社に圧力があったのだろうか。
実は731部隊はアメリカに過去の実験データを供出していた。その引き換えに戦争責任を逃れていたのだ。731部隊が捜査されれば、アメリカにも疑惑の目が向けられる可能性がある。なのでアメリカとしては731部隊の存在は何としても隠蔽したかったのだろう。当時は極東軍事裁判の最中だった。エリー軍曹が帰国させられたのも、このあたりと関係があったのかも知れない。
GHQの圧力によって、主流班の捜査は行き詰まった。それとほぼ同時期に、名刺班が平沢貞通を逮捕している。主流班のメンバーはただの画家である平沢が犯人だとは思っていなかった。しかし銀行詐欺を犯した事実が発覚すると、主流班も平沢犯人説に傾いた。
旧日本軍関係者犯人説はGHQの圧力によりストップ。平沢が犯人である可能性しか残されていなかった。
平沢は自白するまで抗議の自殺未遂を3回もしている。厳しい取り調べのあまり、平沢はどんどん疲労していった。
自白調書の中には、平沢本人のものではないと考えられるサインもあった。
不明だったはずの青酸化合物はいつの間にか、青酸カリと断定されていた。即効性のある青酸カリで今回のような犯行は不可能なはずだが、検察は青酸カリが古くなっていたため遅効性になったと説明している。犯行に旧日本軍のモデルと同じピペットが使用されていた事実は消され、書類の上ではただのスポイトと表記されていた。
このように強引に罪を着せられ、平沢は死刑を言い渡されたが、いつになっても執行されなかった。世論で平沢冤罪説が高まり、歴代の法務大臣が死刑承諾書へのサインを躊躇していたのだ。死刑は執行されなかったが、平沢の17回に及ぶ再審請求は却下され続けた。
死刑判決が出て32年。1987年5月10日。平沢は最期まで身の潔白を叫び続け、八王子医療刑務所で肺炎により死亡した。95歳だった。
当時、読売新聞の捜査はGHQによって阻まれたと説明したが、むしろ警察がGHQに圧力をかけるよう依頼したという話もある。甲斐メモには、読売新聞が重要参考人周囲をうろついて捜査の邪魔になっていたと取れる部分がある。
また、主流班が捜査した諏訪中佐について、2人の人物を混同していた可能性が指摘されている。諏訪中佐は、主流班が旧日本軍関係者に犯人がいると決めつけたために生まれた虚像だった。
結局、あの男が何者だったのか、現在に至るまで結論は出ていない。毒物に詳しく、GHQの防疫関係者の名前に詳しく、かつ旧日本軍の人体実験データにも詳しい男。731部隊に関係していたのか、GHQに所属する軍人か、それとも…?
そして、その男がなぜ戦後3年も経って、このような凶行に及んだのか。強盗か、実験か。あるいは、他の意図があったのかもしれない。犯人も動機も、今となっては闇の中。
2013年に東京高等裁判所が全ての法手続きを終了させた。平沢の養子が亡くなったためだ。平沢の死後も養子を支援者が再審請求を続けた。
以上が、1948年に帝国銀行椎名町支店で発生した大量毒殺事件の全てである。男が誰だったのか、何故このような事件を起こしたのか、どうやって殺害したのか…。関係者がこの世を去った今だから言えるが、この事件は私にとって非常にミステリアス、かつ魅力的に見える。あなたも、今は何とも言えない雰囲気なのではないだろうか。また、平沢に対する同情や、平沢を追い込んだ警察への怒りを感じているかも知れない。しかし、警察も逆らうことのできない大きな力に押された結果の行動だった可能性もある。2018年の1月26日には、この事件から70年が経過する。彼らは何を考え、どう動いたのだろうか。
この世には、未解決のまま時が経った事件が山ほどある。
最後に、事件の真相が暴かれる日の近さと事件の再発がないことを祈って。




