冬の残り香
・・・あ、雪か。
もう正月も差し迫ってきた、師走。禿たちがはしゃぐ声に思わず顔を上げる。
鈍色の空から降る雪が、赤い吉原の通りに彩りを添える。
その幻想的な光景に誰も彼もが手を止め、見入る。ひと時の静寂に身を投じたくなる。
雪がもたらすひと時の静寂に、玉菊はひっそりと目を開いた。
艶やかな黒髪を結い上げ、うっすらと紅をさした目は澄んだ京紫。白粉などいらないのではと思うほどの白い肌。それらを彩る深い紫色の着物。憂えるように窓から外を眺める姿は、まるで錦絵から飛び出たと錯覚させるほど美しい。
「玉菊姐さま、雪が降りましたよ」
「あぁ、見ているよ。綺麗なもんだ」
禿の声に穏やかに答え、玉菊は微笑んだ。つい化粧の手を止めてしまった。
もうそろそろ夜見世の刻だ。早く支度をしなければ、また楼主にお小言頂くことになる。
此処は、吉原遊郭。
偽りを売る、女の地獄。
「玉菊、今日も抱かれなかったんだってねぇ」
「ふん、あんな汚らしい御代官になんざ抱かれてたまるか」
「相変わらずじゃないか。でも、程々におしよ。折檻されても知らないからね」
同じ年の紅葉と談笑しながら煙管を吸う。夜見世の一大行事である花魁道中を控えた玉菊は先程の美しさにさらに磨きがかかっていた。
紅色の打掛、髪を飾るは豪奢な簪。周囲の遊女ですら息を呑んだ。
「玉菊花魁、おねげぇしやす」
若衆の呼ぶ声に応じ、ゆっくりと踏み出す。暖簾をくぐると沿道からおおっと声が上がる。
若衆の肩に手を乗せ、外八文字を描く。
ゆっくり、ゆっくりと・・・花魁道中。
沿道の男からの視線など、玉菊は見向きもしない。
だが一つ、彼女を貫く鋭い視線。
それだけを彼女は感じ取っていた。
あぁ・・・また来てくださった。
そっと片手で胸元を撫で下ろす。気取られぬようにしながら、小さく吐く息は何とも弱々しい。
会いたい・・・。お声を聞きたい。
チラリと沿道に目を向けると、視線の主はもう既にいない。
「おい、花魁が俺のことを見ているぜ!」
「馬鹿いえ!俺の方に決まってらぁ!」
男たちの声を背に、花魁道中は進んだ。
「玉菊よ、今宵も・・・か?」
ぐいと酒をあおった男に酌をしながら、薄く笑んで首を振る。浅黒く太った男は、少し眉をひそめるもその笑みに気を良くした。この笑みこそが玉菊の武器であった。これで幾度となく男の手から逃れてきたのだ。そして花魁の地位まで上り詰めることもできたのだ。
「しかしお主は不思議な遊女よのぅ。よもや他所の男に抱かれているのではあるまいな?」
「主様、そのようなこと致しんせん。わっちには主様しか居りんせん。それとも・・・」
わっちを疑うのか、と言いたげな京紫の瞳に、男は慌てる。
「そ、そのようなことはない!断じてな!」
思わず声を荒げる男を、玉菊は心の中で笑った。これほどの脅しで慌てるなど可笑しくてたまらなかったのだ。
男が帰ると、玉菊は煙管盆を引き寄せた。深く吸い、細く紫煙を吐く。ゆらりゆらりと天井に昇る煙を、ぼんやりと眺める。広いとは言えない部屋は行灯の灯りを受けて朱に染まっていた。
この体で食べて何年経っただろうか。理不尽に耐え、媚び、飼われてきた。
笑顔を仮面のように貼り付け、触手を伸ばすように男たちの相手をする日々。どれだけ、惨めで卑しいと自分を罵ったか、最早覚えていない。
絶望し、嘆き、己を殺した。生きていくためにはそうするしかなかった。
幼い自分を売り飛ばした親の顔も、もう覚えていない。憎しみを抱くこともない。
自分にとって、この吉原の中だけが世界だ。
「何ともちっぽけな世界じゃないか」
小さく笑う彼女の頬には、いつしか涙が伝っていた。
玉菊はいつもそうだった。客が帰った後の部屋で一人泣くことが、彼女の習慣のようなものだった。
声を漏らすこともなく、静かに涙を流し続ける。悲しいのではない。虚しいのではない。ただ涙が伝うだけなのだ。まるで穢れを祓うように。ただ、それだけなのだ。
「・・・覗き見なんて、無粋な真似はおよしなんし」
遠くの客たちの声も途絶える頃、玉菊は静かな声で呟いた。衣擦れの音をさせながら体を部屋の隅に向ける。行灯に作り出された仄かな闇が小さく揺らいだかと思うと、そこには一人の若い男が立っていた。静かな来訪者の姿に玉菊は驚くことなく笑んだ。
その男は珍妙な出で立ちだった。白い狩衣を身にまとい、顔には黒い般若の面をつけている。髪は色が抜け落ちたかのような白で、行灯の灯りに合わせて仄かに色づいていた。
華奢な体躯ではあるが、狩衣から覗く腕は鍛えられた男のそれだった。
「今宵はお早いお着きでありんしたなぁ。わっちの戯言も全てお聞きで?」
馴染み客に話すような口調で声をかけると、男は小さく頷いて肯定した。そして自らの面の口を指差し首を傾げた。
「あぁ、そうだったね。忘れていたよ」
意を察した玉菊はすぐに郭言葉をやめた。
玉菊と男が初めて会ったのは、花魁道中の最中だった。
沿道からの視線の中に、明らかにいつもと違う視線を玉菊は敏感に感じ取った。
己の心の臓を射抜くような鋭い視線に、思わず歩みを止めて振り向いたのだ。
その先に微かに見えたのが、白い狩衣と般若の面だった。後ろ髪を引かれる思いで揚屋に向かう玉菊を、視線は追いかけた。そして客が帰った後、男は部屋に現れたのだ。僅かな音も立てずに。
男の雰囲気に玉菊は呑まれた。このような男に会ったのは初めてだったのだ。
それから二人の逢瀬は続いた。いつしか玉菊は男のことを鬼火と呼ぶようになった。その間、男は一言も話さなかった。黙って訪れては、様々なものを置いていった。金平糖や京菓子、桜や紫陽花の花。貝や珊瑚の日もあった。それらは玉菊の宝になった。
男は郭言葉を嫌った。玉菊が郭言葉で話すと嗜めるように口を指すのだ。それが何故なのか、玉菊は知らない。
「もうそろそろ年の瀬だ。吉原も、その外も、賑わうんだろうね」
男は頷く。
「今日は雪が降ったじゃないか。もうそこまで冷え込んでいるんだね」
男は頷く。
「鬼火、傍にきておくれな」
一瞬、迷ったような気配を漂わせてから、男は首を振った。
玉菊は悲しげに目を伏せてから、また微笑んだ。
いつもこの繰り返しだった。一定の距離を保ったまま紡がれる逢瀬。まるで静寂を楽しむように、それでいて、か細い糸が切れぬように玉菊は言葉を紡いだ。たとえ答えが返ってくることがなくとも。
ただ、男の射抜くような視線が、自分に向けられていることだけ。それだけが、玉菊にとっての喜びだった。
だが、玉菊は知っていた。この男が自分に抱いている感情は、愛しい者へのそれではないことを。
どんなに慕おうと、彼女が男の愛を掴むことはできぬことを。
遊女としての経験と、花魁としての矜持がその事実を突きつけているのだった。
知っていながら・・・錯覚してしまうのだ。偽りの想いを語り、偽りの愛と情を売る身でありながら、玉菊は錯覚してしまうのだ。もしかしたら・・・もしかしたら・・・と。
それは、この男が背負う闇が、己の背負う闇に似ていると感じたから。同じ闇を過去を抱えているように感じたから。故に、求めずには居られないのだ。
遠くで拍子木の打つ音を聞きながら、玉菊は煙管の灰を盆に捨てた。カンと乾いた音が部屋にこだまする。
「貴女に触れることは、できない」
染み入るような低い囁き。盆から漂う煙のように、ふと消えてしまいそうな声だった。
それは、玉菊が初めて聞いた男の声であった。
「貴女と初めて視線を交えたとき、闇の中に咲く花を見つけたような心地だった・・・。凛とした内に儚さを孕んだ姿に、どうしても目が離せなかった・・・」
面の奥から響く声は低く、静かに空気を揺さぶった。この世の音全てが吸収されたようだった。
「何度、貴女に触れたいと願ったことか・・・。だが、私にそれは許されぬこと。一言でも声を交えれば己を抑えきれぬと、声を封じた」
「何故、私に触れられないんだい」
「私の両の手は数多の命を葬った手。このような穢れた手で触れれば、花は枯れてしまう。それはあまりにも哀しすぎるから・・・」
「・・・・・」
二人の別れる未来を物語るように、雪が降り始めた。それはまるで散り行く桜の花弁のようだった。
窓の外の雪を眺めてから、男は静かに立ち上がった。
「もう貴女に会うことはない。これが・・・最期だ」
いつものように土産を置く素振りを見せる。刹那、玉菊は彼に縋り付いていた。
「行かないで・・・」
それまで強気だった玉菊の口調が、弱々しく震えた。白い狩衣が皺になることも厭わず握り締め、縋り付く。もう、片時も離れたくなかった。この想いを、錯覚を、抑えることなど到底できぬことだったのだ。
「っ・・・」
「離れたくない・・・貴方に、触れて欲しい・・・鬼火」
男の息遣いが間近に感ぜられた。脈打つ心の臓がすぐ傍にある。男の体温を、玉菊は肌に刻み込んだ。
「玉菊っ・・・・」
男の腕が背にまわる。そして細い玉菊が折れてしまうのではと思うほどきつく抱きしめた。
耳元で囁かれた己の源氏名に玉菊は首を振った。
「八千代・・・玉菊ではなく、八千代、と呼んで・・・・」
「・・・・呼ぼう。・・・次が、赦されるならば・・・・・」
行灯の灯が揺れる。
手の中にあった温もりは、跡形もなく消えていた。
だが、男の置いていった冬の香は先程の逢瀬を、確かにあったと物語っていた。
玉菊はその香を慈しむように、己の肩を抱くのだった。