サマー・タイム・ゴースト
日曜日の昼下がり――
異常気象の影響で、連日最高気温更新中のこの夏。クーラーも扇風機もない、木造築45年のボロアパートの一室は灼熱天国だった。
暑過ぎの部屋で目をつぶるとチカチカと星が見え、息を吸えばもれなく俺の汗臭さが口いっぱいに広がり、隠し味として部屋のカビ臭が遅れて登場する。これぞまさにヘブン。
いっそ三途の川で水浴びした方がマシだな、なんて朦朧としていると、カエルを踏みつけた時に出るような音の呼び鈴が鳴った。
「……出るのだりーな。無視、無視」
するとカエルの音は輪唱の如く鳴り、加えて「ドンドン」と激しく玄関を叩く音も加わる。
(近所迷惑だろーがよ!)
しかたなく、温存しておいた力を出して玄関へ近寄り、ドアを開けた。
「ファーストキス、お届けにまいりましたぁ、なぁんちゃって、えへ」
目の前には、艶やかな黒髪に、セーラー服の姿の美少女が笑顔で立っていた。
掃き溜めに鶴、ボロアパートに向日葵。その眩さに目がくらむ。
そうか、これはアレだ。熱中症。マボロシを見ているんだ。
目の前の美少女はむさ苦しい男の配達員で「ピザのお届けに参りましたぁ」と言ってるに違いない。
「すいません、うちはピザ頼んでないです。他の部屋だと思います」
だるそうに頭を下げてドアを閉めようとすると、美少女はその隙間に体を挟み
「ピザ屋じゃないから! 正義とキスする為に私はわざわざこの世界に来たんだよ!」
と言って、顔を正面にくっつけてきた。
大きな黒い瞳はキラキラと輝き、ぷっくりとした唇は瑞々しいさくらんぼのように赤い。
そこら辺の自称アイドルよりかわいい顔をしている。
そんな美少女がこの汗カオスのアパートの玄関で、顔も身長も秀でる所もなく、20年間「純潔」を保っているこの俺とキスをする為に来た、と言ってる。
なるほど、ようやくわかった。俺ではなく、この美少女が熱中症なんだな。
道を歩いていて暑さにやられてしまったに違いない。
「すぐに病院に行け。いいか、この道をまっすぐに歩いてだな、大きい通りに出て左に……」
「あー、もうっ! 時間がないから」
美少女は叫ぶと同時に俺の首に両腕を回し、迷うことなく俺の唇にそのさくらんぼな唇を勢いよくぶつけてた。
「いってぇぇ!」
「あちゃ、口切れちゃったね。えへへ。でも正義のファーストキス頂きるんっ」
「ふざけんなよお前! 変態か!? 美人局か!? もしかして写真とって俺を脅迫する気じゃ……」
「ブッブー、不正解」
「クイズじゃねぇしっ!」
「まあまあ。正解はね……私は正義の彼女!」
「それこそ不正解だ! 俺は生まれてこのかた20年、彼女がいねぇっ」
「そりゃそうよ。だって私は10年先、つまり未来から来た正義の彼女だもん」
「10年先?……未来から来た?」
「そう。わが『 時高一族 』の奥義、『 時渡しの術 』を使って20歳の正義に会いに来たんだよ。この術は生涯でたった一度しか使えない貴重なものなんだ」
頬を赤くした美少女は、嬉しそうに一気に話しをした。
その瞳は嘘をついているように見えない。
と、いうことは……
(おいおいおい。マジ、やべぇぞ)
内容はいよいよもって危険レベルで、胡散臭い事この上ない。
今時、小学生だってタイムマシンなんかないことぐらい知っている。
わが一族なんて言ってる所を見ると、カルト宗教に感化されているのか。
つまり、この美少女はもったいないことに狂っている――
「俺はタイムトラベルとか超能力とか信じてないし、宗教もお断りだ。見ての通り寄付する金なんか一銭もない。そしてお前は早く病院へ行け」
「まったくロマンも感動もないんだからぁ。今は信じられなくてもいいよ。どうあがいても10年後、私が17歳で正義が30歳の時に二人は出会い、恋に落ちるんだから。お楽しみにぃ」
うへへ、と意味深に笑い、美少女は回した腕をはずして一歩さがると手を振った。
見るとその手は白く、緑色の玄関が透けて見えている。
す け て る。
「ぎゃーっっ! おばけーっっ!」
「おばけじゃないしっっ。そだ。言い忘れてたけど、浮気は絶対ダメだからね! つーか私に出会うまで彼女作ったらダメなんだからね! 約束だ……」
ちょっと怒ったような表情をしながら、ただ口がパクパク動いていた。もう声は聞こえていない。
そして、みるみる内に彼女の色は薄くなり、やがて見えないはずの緑色の玄関ドアが姿を現し――完全に消えた。
(おばけだろ)
あのクソ大家め、どうりで家賃が安いわけだ。
クーラー替わりにおばけで涼めって言うのかよ。
イライラしながら唇に違和感を感じ舌で舐めると、鉄の味がする。
確かめるように指でなぞると、血がついていた。
「痛い……」
唇に残る柔らで温かい感触。首すじには後ろに回された細い腕の感触。
美少女は確かに「ここ」にいたのだ。
――名前もわからない俺の彼女とやら。本当に未来から来たのかの答えは10年後らしい。
月日は流れ10年後、俺と彼女は同じ高校の教師と生徒として再会した。
いや、彼女からすれば初対面となるのだが。
出会ってすぐに恋に落ちた……なんてことはなくて、まったく何の接点もなく、それどころか、彼女と恋人になることはありえない現実がそこにはあった。
彼女の圧倒的な存在感と強烈な個性、背後にある謎の巨大組織。
片やしがない数学教師の俺となんて、どう考えても釣り合わない。
全ては夢だったのか?
だが数か月後、人類滅亡という安っぽい映画のタイトルの様な事態に陥り、俺は巨大組織と共に滅亡を阻止する羽目に。
さらに成り行き上、彼女とキスすることになってしまった。
それは、それは極甘のキス。
このキスのおかげで地球は救われ、人類は生き延び、彼女は俺の虜になった。
恋人になり、今は少々後悔している。
彼女が背負う「物」の重さが問題なのでない。
問題なのは……彼女がとんでもない焼きもちやきだということだ。
その焼きもちの激しさは、恐ろしくて身動きがとれず、健気で愛しさを倍増させる。
「正義の馬鹿。一体どこの女にファーストキスをくれてやったのよ。私の初めては正義のものなのにぃ。
あああっ! 奪った女が憎たらしいっっ」
「過去にまで焼きもちをやくなよ。過ぎたことは変えられないさ」
「過去は……変えられるヨ」
うへへと笑う彼女を見て、次にとる行動の予測がついた。
彼女はきっと過去へ、あのカオスと化した部屋へ飛ぶのだろう。
だから教えてやらない。
とっくの昔にお前に奪われてるよ、なんて絶対に教えてやらない。
これは秘密のお話。
― 完 ―