第13話:敗北の味は、ソーダ水の味がした
九条麗香に敗北したあの日から、みゆきは学校に来なかった。
正確には、夏休み明けの数日、彼女は「体調不良」という理由で自室に引きこもっていた。
俺は、彼女の家の前で立ち尽くしていた。
手には、コンビニで買った青いソーダ水のボトル。
「……何やってんだろ、俺」
彼女のプライドを考えれば、今はそっとしておくのが正解なのかもしれない。
だが、あのコートで見た、今にも消えてしまいそうな彼女の瞳が、どうしても脳裏から離れなかった。
「みゆき! いるんだろ、出てこい!」
俺は二階の窓に向かって叫んだ。
近所迷惑なんて二の次だ。彼女が一番嫌う「非効率な強硬手段」を選んだ。
窓が数センチだけ開いた。
「……帰りなさいよ。今の私は、あなたと勝負するデータすら持ち合わせていないわ」
カーテンの隙間から、掠れた声が聞こえる。
「勝負なんてしなくていい。……ほら、これ。お前の大好きなソーダ水だ。ぬるくなる前に受け取れ」
「……いらない。敗北の味を上書きできるような甘い飲み物なんて、今の私には不相応よ」
「いいから! お前の『敗北の味』がどんなもんか、俺も一緒に確かめてやるよ!」
しばらくの沈黙の後、カチリと鍵が開く音がした。
出てきたみゆきは、寝癖だらけの髪に、大きめのパーカーを羽織っただけの、およそ「女神」とは程遠い姿だった。
目の周りは少し腫れている。
「……不器用ね。そんな大声を出して。近所の静寂というロジックを破壊するつもり?」
「お前に言われたくないよ。……ほら」
俺たちは近くの公園のベンチに座った。
プシュッ、と炭酸が抜ける音が、静かな公園に響く。
みゆきはソーダ水を一口飲むと、眉間にシワを寄せた。
「……苦い。炭酸の刺激が、今の私の粘膜には強すぎるわ」
「それはお前が数日間、何も食べてないからだろ。……みゆき。九条に負けたのは、お前のロジックが間違ってたからじゃない。あいつが、それ以上に……変態的に凄かっただけだ」
「同じよ。結果が出せなければ、過程は無意味。私は……勝呂みゆきは、一番じゃないと、誰の目にも映らないのよ」
彼女の目から、一滴の涙がこぼれ、ソーダ水のボトルに落ちた。
「航太、あなただって……私が勝てない姿を見たら、失望するでしょう? 勝利という付加価値がない私に、何の魅力があるっていうの」
「バカか」
俺は彼女の頭を、今度は力強く叩いた。
「いてっ……! 暴力? 脳細胞という演算資源を物理的に破壊するつもり!?」
「失望なんてするかよ。俺がずっと見てきたのは、お前の『結果』じゃなくて、そのボロボロのノートだ」
俺は彼女の隣で、空を見上げた。
「お前が勝とうが負けようが、俺はお前の『練習台』だ。……お前が勝つまで、何百回でも、何千回でも付き合ってやる。それが俺のロジックだ」
みゆきは呆然と俺を見つめた。
それから、もう一度ソーダ水を飲んだ。
「……少しだけ、甘くなったわ。糖分の浸透圧が、私の細胞に届き始めたのかしら」
彼女は袖でゴシゴシと涙を拭くと、いつものように不敵な笑みを……少しだけ、ぎこちなく浮かべた。
「航太。……今日のこの『屈辱的な休息』は、私の勝利のロードマップにおいて、重要なバックアップ期間として記録しておくわ。……次に九条と会う時は、このソーダ水の苦さを、彼女に味合わせてあげる」
「ああ、期待してるよ」
「……あと。今日のこの私の『醜態』。一文字でも漏らしたら、末代まで私の勝負のターゲットにするから。……わかったわね?」
「はいはい。……ほら、もう一本飲むか?」
「……一本で十分よ。私の容量は、もうあなたで満杯だわ」
ボソッと呟いた彼女の声は、炭酸のはじける音にかき消された。
敗北の味は、まだ少しだけ苦い。
けれど、夕暮れの公園で二人で飲むソーダ水は、明日を戦うための新しいエネルギーに変わっていく。
勝負はまだ、始まったばかりだ。
【今回の勝敗:航太の精神的勝利、みゆきのOS再起動完了】
どん底から這い上がったみゆき。物語の後半戦(第2クール)に向けて、二人の絆がより強固に。
次は、第14話「勝利を忘れた新学期、航太の不器用な反撃」
学校生活に戻り、みゆきが少しずつ「勝ち方」を変えようとする。




