第2話 マリッジブルーと、小豆南瓜粥
『ごめん、急な呼び出しがあって結婚式の打ち合わせには行けない。全部、佳織の好きなように決めてもらって大丈夫だから』
返信をせず画面を閉じると、私はスマートフォンをぎゅっと握りしめた。
『全部、好きなように』――優しさのようでいて、どこか突き放されているように響く。
陽介の打ち合わせのドタキャンは2回目だ。仕事終わり、待ち合わせ時間が近づいても連絡がない時点で、嫌な予感はしていた。
ムービーを作るかどうか、司会者は誰に頼むのか、会場のコンセプト、飾り付け……。金額も大きく、比較検討にも時間がかかる。ひとりで決めるには荷が重い。結局、ほとんど持ち帰って検討することとなった。
(今夜、陽介へ説明しなきゃ…。本当は資格の勉強しておきたかったけど…)
白石 佳織、29歳。
地域ではそこそこ名の通っている中小企業に勤務しており、去年の異動で現在は経理部署で働いている。几帳面で完璧主義のきらいのある自分には、経理の仕事はとても合っていたらしい。
婚約者である陽介とは同棲中で、入籍は来月、結婚式は半年後に控えており、結婚式の打ち合わせを先日から始めたところだ。
一見すれば、恵まれた人生を歩んでいるように見えるだろう。
けれど実際は、結婚式の準備が進むほど、心は少しずつささくれ立っていった。
陽介は中学校教師として働いている。明るく朗らかで、佳織にはない柔軟性がある。こんな先生に教わっていたら、自分はもっと融通の利く人間になっていたかもしれないと思うほどだ。
教師が激務であることは知っていた。クラス担任や授業準備、保護者への対応に加え、土日は部活の顧問と、プライベートの時間は非常に短い。さらに今年担任のクラスには問題児がいるらしく、その対応で急な呼び出しも多い。まさしく今日のように。
結婚式は、夫婦となるふたりで作るものだと思っている。
式については二人で話し合って決めたいのに、いつの間にか私は「一人で頑張る」側になっていて、正直負担だ。
(私だって、暇じゃないのにな…)
今は、仕事がとても楽しい。元々数学の勉強は好きなほうだったけど、経理は会社のすべてのお金をパズルのように組み立てるような緻密な面白さがある。特に、帳簿の数字がピタリと合ったときの達成感は、他では味わえないものだ。
今の部署に長くいられるよう上司に掛け合うために簿記の資格を早く取得したいが、式の準備が始まってからはことごとく勉強時間が削られてしまっており、計画通りに進められていない。
苛立ちをぶつけるように、思わずバッグの持ち手をぎゅっと掴む。
この苛立ちはどこから来るのだろう。陽介への不満?それとも、思い通りにこなせない自分への苛立ちだろうか。
もやもやした気持ちを抱えたまま重くなった足を動かしていると、ふと、路地裏に温かい光が漏れるカフェを見つけた。
店の軒先には「薬膳カフェ 巡り茶寮」と書かれた看板が立てかけられている。店名だろう。見た瞬間、忘れていた空腹を思い出した。
帰宅して陽介と顔を合わせる気分ではなかった。怒りをぶつけるくらいなら、少し距離を置いて頭を冷やしたい。
(薬膳のことはよく知らないけど、体によさそう。食べて、落ち着こう)
木製の扉を押して足を踏み入れると、瑞々しい果実のような香りがする。
木の梁から吊るされたランプは柔らかな光を落とし、テーブルの表面にはあたたかな影が揺れていた。外の喧騒とは別世界のように静かだ。
店内には、女性店員が二人。栗色の髪の人懐っこい笑顔の人と、黒髪の凛とした雰囲気の人。客は私ひとりのようだった。
「いらっしゃいませ。お一人様ですか?」
「はい」
「お好きな席へどうぞ」
栗色の髪の店員の声が、春の空気のように軽やかだ。
私は窓際の席に腰を下ろし、こわばっていた肩をぐるぐると回してからメニューを手に取った。
手描きのイラストとともに、効能の説明がずらりと並ぶ。薬膳スープやオーダーメイドの薬膳茶――迷ってしまうほど種類が多い。
(…今は、お腹を満たしたい)
目に留まった『イライラ・むくみ防止に!週替わり定食』の文字に迷いなく指を止めた。
「これをお願いします」
「週替わり定食ですね、承知しました!こちらは心を鎮めて水の巡りを整える効能でして、大事なデートや撮影を控えている方…例えば花嫁さんなんかに人気なんですよ」
「……花嫁」
思わず小さくつぶやいた。
「ええ。大事な日って、どうしても準備で体に負担がかかりますから。少しでも軽やかに迎えていただければ嬉しいです」
普段なら「そうなんですね」で終わる会話だ。
でも、彼女の声は不思議と心にすっと入り込んできて、胸にたまっていた言葉を引き出していった。
「……実は、私も結婚式を控えていて」
自分でも驚くほど素直な声だった。
「わぁ!それはおめでとうございます」
一気に花が咲くような笑顔に、思わずつられて頬が緩む。
「でも、正直、疲れてて。打ち合わせは私ばっかりで、仕事も資格の勉強もあって。彼は優しいんですけど、忙しくて、それに少しルーズで、ついイライラしちゃうんです」
口にした瞬間、胸の奥に張り付いていた重石が少し動いた気がした。
(なんでだろう……普段なら、こんな弱音、人には言えないのに)
けれど、ここでは自然と出てしまう。このあたたかな空間にいると、話してもいいんだと思えてしまう。
「って、すみません、こんな…見ず知らずの私に相談されても困りますよね。忘れてください」
「私、松島花凜といいます」
「え、白石佳織です」
お辞儀とともに投げられた急な名乗りに、思わずこちらもぺこりとお辞儀して応じてしまった。
「佳織さん、よろしくお願いします!ちなみにあっちにいる店長は凪さんです!」
花凛の声は店内によく通る。
厨房付近にいた黒髪の女性――凪とぱちりと目が合うと、互いに無言で会釈を交わす。
「これで、『見ず知らず』じゃないですよ?話したいこと、もやもやすること、どんどん話しちゃってください!」
「ふふ、花凛さんって、けっこう強引ですね」
「えへへ」
「でも、ありがとうございます」
花凛の得意気な表情に和む。自分は思った以上に切羽詰まっていたようだ。
「彼との結婚は嬉しくて、すぐにでもしたいんです。だけど、私も彼も今は忙しくて、式の準備が負担になってて。結婚式が楽しみに思えないんです。式って、こんな気持ちでするものだっけ?って思っちゃって。」
感情のままにぽつぽつと無防備な言葉たちが零れ落ちる。
花凜は「うん、うん」と穏やかにうなずいてくれた。
「ウェディングドレスも、着るのは楽しみだし美容にも前より気を遣ってるんですけど、ストレスのせいなのかむくみや肌荒れが出てきちゃったりして。私がうまく進められないこと、それがまたストレスになってるのかもとか」
「より良くしたくて頑張っちゃう気持ち、すごくよくわかります。大切な時期だからこそ、体も心も無理をしないでください。むくみも肌荒れも、頑張りすぎのサインかもしれません」
「ほんとに、そうですよね」
「彼氏さんとは相談はできてるんですか?」
「いいえ、まだ…」
弱音を零すたびに、胸の奥にへばりついた鉛が一つずつ消えていくようだった。
しばらく話しこんでいると、凪が料理を運んでくる。
「お待たせいたしました。ただいまの週替わり定食の、小豆南瓜粥、豆腐とトマトの卵炒めと、黒豆と蓮の実の甘煮です」
「わあ、美味しそう」
「食材や効能の説明文はメニューにありますが、何か気になることがありましたら遠慮なくお声がけください」
「つい話し込んじゃってすみません!温かいうちにごゆっくりどうぞ」
「ありがとうございます」
湯気がふわりと立ち上り、あたたかい香りが鼻をくすぐる。
私はレンゲをとり、さっそく小豆南瓜粥を掬った。
小豆の紅と南瓜の淡い橙が混じり合ったお粥の表面が、静かにゆらめいている。
素朴な見た目なのに、不思議と心を惹きつける色だった。
小豆と南瓜のやわらかい甘みと粥のまろやかな塩気が口の中で溶け合って、舌の上をやさしく撫でていく。素材のおいしさを感じる、どこか懐かしい味がする。
(こんなに、優しい味ってあるんだ……)
普段の外食よりもずっと塩分も糖分も控えめだ。
その滋味が、あたたかさが、疲れた胃を包みこむように静かに広がっていった。
豆腐とトマトの卵炒めは、あざやかな赤と黄色が見るからに食欲をそそる。
トマトの酸味が頭のもやを晴らし、卵のふんわりとした甘みが心をなだめてくれる。
最後に、黒豆とハスの実の甘煮をひと匙。
黒豆の深い香ばしさと、ハスの実のほのかな甘み。
じんわりと胸の奥まで温かさが広がった。心の奥までやわらかく満たされていき、食べるほどに、硬くなっていた心がほぐれていく。
何も飾らない、ただまっすぐに体を思う料理――このやさしさが身体の中を巡っていくようだ。
食事を終えてメニューの説明を熱心に読み込んでいると、凪が音もなく近寄ってきた。
近くで見ると、やはり息を飲むほど整った顔立ちをしている。
「お食事はいかがでしたか」
「とても美味しかったです。なんだか肩の力が抜けたみたい。身近な食事が薬になるなんて、薬膳って面白いですね」
正直に感想を伝える。硬かった肩の力が抜け、内側からじんわりと温かくなっているのがわかる。
凪のさざ波のない湖のように落ち着いたまなざしがほんの少しやわらいだ。
「召し上がっていただいた食事は利水解毒と言われるむくみ改善の作用のほか、養血安神という心身の疲労回復作用があります。例えば南瓜はあなたの脾、消化器を温め、活動に必要なエネルギーを補います。そして、小豆は水分代謝を整えるほかに心身の余分な熱を取り除いてくれます。蓮の実もそうですね」
「心身の熱ですか?」
「はい、イライラは気滞…、体の中に溜まった余分な熱です。その熱が溜まりすぎると、心や体の不調につながります」
落ち着きがあって淀みのない声が、まるで湖面に広がる波紋のように広がっていく。
凪と視線が交差する。彼女の濡羽色のまなざしに、思わず目が離せない。
「熱は、行動の原動力になる、自身を突き動かす源です。でも溜め込みすぎると、自分を焦がしてしまうんです」
「自分を、焦がす…」
「ええ。お客様もきっと、その熱で頑張り過ぎているのではないですか」
その言葉が、胸の奥にすっと染み込んでいった。
イライラは、心に溜まった熱。
すべてを完璧にこなしたいという私の思いが、いつしか自分を追い詰める熱になっていたのかもしれない。
私にとって、余分な熱は――。
「ごちそうさまでした。本当に、心が軽くなりました」
「お気に召していただけてよかったです。自分を追い詰めすぎないでくださいね。いつだって、自分の味方でいてあげてください」
花凜がにこやかに微笑む。
「ご来店ありがとうございました」
凪もまた、静かに頭を下げた。
店を出ると、夜の風が頬をなでた。温かな食事の余韻が身体の奥に残ったまま、あたたかな光を灯す店に背を向けて前へ進む。足取りは驚くほど軽い。
(…よし)
少し歩いたあと、スマートフォンを取り出して電話番号を押した。
「もしもし、白石です。先ほどの打ち合わせではありがとうございました。あの、相談がありまして――」
◇◇◇
帰宅後、先ほど電話で聞いた情報をリビングでまとめていると、玄関からドアが開く音が聞こえた。陽介が帰宅したらしい。
「おかえり。今日も遅かったね」
「ただいま。佳織もお疲れ様」
リビングに顔を出した陽介に声をかけると、気の抜けるような笑顔が向けられる。
その無邪気さにつられて自然と口角があがる。
「あと、今日も打ち合わせ行けなくて、本当にごめん!」
「いいよ。ただ、結婚式なんだけどさ。相談したいから後で少し話してもいい?」
「もちろん。じゃあさっさとシャワー浴びてきちゃうね」
浴室へ向かう陽介を見送ると、ふたたび視線をテーブルに戻す。
目の前には打ち合わせでもらった結婚式の資料と、先ほどの電話の内容をまとめているメモがある。
私がやりたいことは頭の中で明確になった。なのに、思考の片隅では臆病な声が囁いていて、胸の奥がきゅっと締めつけられる。
でも――、私は私の味方でいてあげなきゃ。
「ねえ、陽介。式のことなんだけど……、結婚式やめてフォトウェディングはどうかな」
風呂上りの陽介とソファでともに一休みしたあと、言葉を選ぶように口を開いた。
式の延期や中止をプランナーに電話で相談したところ、フォトウェディングについても選択肢の一つとして提案を受けたのだった。
「式の準備と仕事に追われて、なんだか私たちすれ違っていたよね。でも、本当に大事にしたいのは結婚式じゃなくて、私たちそのものだなって思って。
私、ちゃんとしなきゃって頑張りすぎてイライラしてた。でも、もうやめる。完璧じゃなくていいから、二人でどうしたいか決めたいの」
プランナーから聞いた情報をまとめたメモを見せながら訴える。
反対されるかもしれない。もう打ち合わせを始めているのに今さらと言われるかもしれない。
テーブルの下で握りしめた拳に、じんわりと汗が滲んでくる。
陽介は少しだけ目を見開いたあと、私の作ったメモを読み込み、思いのほかあっさり頷いた。
「いいと思う!フォトウェディングでも佳織のドレス姿は見れるもんね。準備の負担も減るし、賛成」
「え……本当に?」
思わず力が抜けた声が出る。
「うん。ていうか、思えば俺たち、結婚式をしたいかどうかは話し合ってなかったね。考えが抜けててごめん。あと、準備も任せきりにしてて本当ごめん…」
「いや、私も、最初から式はやるものと思い込んじゃってて…」
そう、私も陽介もきょうだいや友人がみんな結婚式を行っていたため、結婚式は当然するものと思っていたのだ。
「でも…、私や陽介の両親は反対しないかな」
「俺たちの気持ちが最優先とは言ってくれるとは思うよ。ただ、俺もそうだけど、佳織のドレス姿は近くで見たいんじゃないかな。写真を共有するだけでなく撮影中に見学できないか俺がプランナーさんに聞いてみるよ」
「ありがとう。あと、提案しておいてなんだけど、後で後悔しないかなって気持ちも実はまだ少しあって…キャンセル料も気になるし…」
今は結婚式はしなくていいと思っているが、周りの反応が気になるし、数年後に後悔しないかが少し心配な気持ちはある。
私の不安をよそに、陽介はあっさりと口に出す。
「結婚式は、やりたくなったらその時やればいいじゃん」
「え。結婚式って、入籍前後でやるものでしょ」
「そういう人たちが多いってだけじゃない?ウェディングドレスだって、一回しか着ちゃいけないなんて決まりないんだからさ。結婚式でもフォトウェディングでも、やりたくなったらやろうよ」
「じゃあ…例えば数年後になってはじめて式をやりたくなってもいいの?」
「俺たちがやりたいなら、そりゃあやっていいよ。10年後でも30年後でもさ」
その言葉は、あっけないほど軽やかで、でも不思議と頼もしかった。
何でもないことのように続けられた言葉に、胸の奥がじんわり温まるのを感じた。
(ああ、そうだった。私がこの人を好きになったのは、こういうところ――私が無意識に作ってしまった枠を、こんなにも優しく外してくれるところだった)
自分にはない柔軟さで、凝り固まった私をほぐしてくれる。
その笑顔を見ていると、「この人でよかった」と心から思えた。
「キャンセル料はまあしょうがない。悩ませちゃったし、俺が出すから佳織は心配しないで」
「…ありがとう、陽介」
思わず陽介の胸に顔を寄せると、温かい、大きな手が髪を撫でる。
「大丈夫!俺はいつだって佳織の味方だから」
「うん…、そうだった。陽介はずっと、味方でいてくれたね」
“いつだって、自分の味方でいてくださいね”
陽介の声が、花凛のそれと重なって聞こえた。声が少し震えたのは、気付かれていないと思いたい。
完璧ではないけれど、二人で決めた私たちのこれから。
胸の奥に、あの店のやわらかな光が、まだ残っているようだった。




