第1話 お腹が弱い女子高生と、棗生姜茶
ああ……、まただ。
体の最奥が冷えてゆく感覚。内からせりあがるようにゾクゾクとした寒気が襲う。お腹の中でギュルギュルと音が鳴って、急激な痛みが追ってくる。
今の試験時間は私の得意科目だ。最後まで解いて、少しでも多く得点を取りたい。その思いと反比例するように、鈍い痛みが下腹部を震わせ、問題を進めるたびに痛みが強くなってゆく。
模試会場の静寂の中、私は浅く呼吸をしながら少しずつ問題を解いていった。首筋に冷や汗がにじむ。本当は今すぐにでもトイレに行きたい。
隣の席の受験生がシャーペンを走らせる音がやけに大きく聞こえる。
3か月後に控えた大学入試に向けた、大事な模試だ。なんとか全部解き終わるまで耐えたい。離席したら再入室が認められるか、監督官は説明していたっけ。わからない。痛みが段々強くなって集中力が切れてくる。
私はしばしの格闘の末――、震える手で監督官に向かって挙手をした。
◇◇◇
今日も散々だった。
結局、腹痛に耐えられず途中離席せざるを得なかった。再入室が認められたからよかったけれど、結局時間が足りず、終盤の問題を解くことができなかった。
次の科目では、またお腹が痛くなったらどうしよう、何度も離席したら不正を疑われるのではないか、と気が気ではなかった。自己採点はまだ行っていないが、前回よりもひどい結果になることだろう。
思えば、私――伊藤 雛子は昔からプレッシャーに弱かった。
普段は問題ないのに、移動中の車内や大事な発表会の最中など、離れてはいけないタイミングでしょっちゅうお腹を下してしまう。
トイレに行きたいと告げる勇気が出ず、冷や汗を垂らしながら地獄のような時間を過ごすこともしばしばだ。
ダメだと思う気持ちが強いほど、身体の調子がおかしくなる。事前にお手洗いに行くようにしても効果はなかったので、胃腸というより精神的な問題なのだろうか。今では、イベントごとがあるときには毎回怯えながら過ごしている。
仕事終わりの母に相談すると、「考えすぎてプレッシャーになってるから、なるべく気にしないように」という言葉と市販の整腸剤をくれた。母は優しいが、仕事が忙しいらしくいつも疲れている。整腸剤の効果は感じられていないが、母にはそのことを言い出せてはいない。
模試会場からの帰り道である今だって、5分後にくるバスに乗らないと夜からの塾の講義に間に合わないのに、またぞわりとお腹が痛くなってきた。
バス亭に向かう道中、「今お腹が痛くなったら嫌だな」という気持ちがあったけど、無意識に出てきた言葉だ。気にしないようになんてできなかった。
何とか塾に着くまで耐えられないか我慢してみたが、バスに乗り続けるのは難しそうだった。仕方なくバス停を離れ、急いで近くのお手洗いを探す。
(どうして模試会場から塾まではバス移動なの!電車なら駅にトイレがあったのに)
模試会場の立地にすら恨み節を言いたくなってしまう。普段はあまり来ない場所だから、入れそうな場所を探すのにも焦ってしまい、無意識に足の動きが速まる。
公共施設や大きいスーパーなどがないか見回してみたけど、少なくともそういったものは無さそうだ。
どうしよう、模試会場まで戻ったほうがよいだろうか。考えを巡らせながら早足でキョロキョロ見回す。
ふと目が留まる。オフィスビルが並ぶ路地を一本入ったところに、ひっそりと佇む建物が見えた。不思議に思って近づいてみると、どうやらカフェのようだ。
(薬膳カフェ「巡り茶寮」?こんなところにお店が……)
木製の扉は年月を重ねたように艶やかで、植えられた草木の緑が風に揺れている。
小さめの窓からは暖かなオレンジの光がこぼれており、控えめな佇まいなのに、不思議と足を止めたくなるような雰囲気をまとっていた。
(中はよく見えないけど、広いからお手洗いは借りることができそう。バス停も近いし、ここで温かいものを飲んで、そのあと急いで塾に向かおう)
腹痛中は体が芯から冷えてくる。体調が落ち着いたら身体を少しでも温めたい。
初めての店に少し緊張しながらも、木のぬくもりを感じられるドアを押した。
店内に足を踏み入れた瞬間、ほのかな柑橘の香りにふわりと抱きしめられる。
「いらっしゃいませ!お一人様ですか?」
「は、はい」
「お席をご案内しますね。こちらへどうぞ」
木の梁から吊るされたランプは柔らかな光を落とし、テーブルの表面にはあたたかな影が揺れていた。カップを置く小さな音や、かすかに流れる弦楽のBGMが耳を撫で、外のざわめきとは別世界のように静かだ。
鈴が鳴るような明るく弾んだ声で、栗色の髪色の女性店員が丁寧に接客してくれる。にこやかで、いかにも優しそうな女性だ。一つに束ねられた栗色の髪はゆるくウェーブがかけられていて、それが彼女の柔らかい雰囲気を一層引き立てている。高校生の雛子よりはいくらか年上だろうが、小動物のような親しみのあるかわいらしさがあった。
奥にあるキッチンにはテキパキ動く黒髪の女性の姿がちらりと見えた。
案内された席の近くにお手洗いの案内があったのを見つけ、思わずほっと息をつく。
すると、安心で気が緩んだのか、お腹がギュルギュルと音を立ててぞわりとする感覚が加速する。
まずい。いますぐに行きたい。
「ご注文がお決まりになりましたら、お…」
「あの…!なにか温かい飲み物を1つ、お願いします!」
「えっ、はい!かしこまりました」
メニューを開く余裕も無く女性店員へ突き返す。一瞬触れたあたたかな手から熱が移る。注文を伝え終わるや否や、店内のトイレに急ぐ。歩く余裕すらなく、駆け足だ。
「花凜ちゃん、どうかした?」
「あ、凪さん。いまのお客さんの注文なんですが…」
花凜と呼ばれた彼女は、雛子の手が当たった部分に触れながら、キッチンにいる店長の元へと急いだ。
◇◇◇
(はぁ……、どうして私はこんなにダメなんだろう)
冷や汗を垂らしながらトイレに駆け込み、なんとか危機は越えた。
まだ本調子ではないので安心はできないが、トイレがある環境にいられるのはありがたい。経験上、これからさらに悪化はしない気がする。…たぶん。
落ち着いて思い返すと、先ほどの店員さんには失礼なことをしてしまった。言葉は遮るし、メニューすら開かないで一方的に言ってしまったし。
洗面台の横にあるドライフラワーを眺めてため息をつく。ふわふわしたススキと小花が私のほうへ頭をもたげている。
こんな素敵なお店で、なんで私はこんな気持ちにならなきゃいけないんだろう。申し訳なさ、恥ずかしさと情けなさがごちゃごちゃ混ざって気が滅入る。
きれいな洗面台で念入りに手を洗い、そろそろと席へ戻る。
お手洗いを長く占領してしまっただろうかと焦ったが、自分のほかに客の姿は無かった。雛子はひっそり息をつく。
「お待たせいたしました」
席についてまもなく、先ほどの花凜と呼ばれていた栗色の髪の女性店員が飲み物を運んできてくれた。
お手洗いから戻った姿を見てから飲み物を用意してくれたのだろう、見上げた先のティーポットからは白い湯気が立っている。
入店早々トイレに駆け込む迷惑な客だと思っただろうか。つくづく申し訳ない気持ちになる。
「あっ、あの、店員さん。先ほどはごめんなさい」
「なんでしょう?」
きょとんとまん丸になったこげ茶色の瞳は、本当に話の見当がついていなさそうに見える。
「あの、さっき、説明の途中で止めちゃって。メニューもろくに見なかったし、すぐにお手洗いをお借りしちゃったし……」
「ああ、気にしないでください。腹痛でしょうか、少しは落ち着きましたか?」
「はい…ありがとうございます……」
「少し前まではあんなに暑かったのに、最近急に肌寒くなりましたもんねー」
花凜は何でもないことのようににこりと微笑む。太陽のような笑顔をする人だ。彼女のおかげで気持ちが和むのを感じる。
目の前に置かれた大ぶりの透明なティーポットには、大きなレーズンのような実と何か細かく刻まれたものが入っている。紅茶かと思ったけれど違うようだ。
カップに注がれた液体はきれいな琥珀色で、スパイスのようなさわやかな香りが湯気とともにふわりと体を包む。
隣にはポットとカップと同じ誂えの小瓶も置かれ、中の黄金が宝石のようにきらきら輝いている。セットの美しいガラス食器は見ただけで心が躍りそうだ。
なお、比べるまでもなく、普段雛子が飲むティーバッグのお茶よりずいぶんと上等そうである。
「温かいものをということでしたので、こちら、棗と生姜のハーブティーをご用意させていただきました。少しだけ辛味がありますので、お好みではちみつを加えてくださいね」
「棗?」
「はい、中国が原産の果物です。昔から漢方の生薬や薬膳料理などで幅広く活用されていて、胃腸の調子を整えたり、ストレス軽減の効能があるんです。冷えているようでしたので、身体をあたためる生姜を少し加えさせていただきました!」
「あ…、ありがとうございます」
雛子にとってありがたい効能ばかりだ。花凛の観察眼に驚くとともに、気を遣わせてしまった気恥ずかしさがある。これを飲み終えたら塾へ急ごう。
ティーポットに入っている大きな実が棗という果物らしい。お茶の水分で膨らんでいるが元は乾物なのだろう、皮にシワが寄っている。よく見ると、他にも小さく切られた棗と薄切りの生姜などが沈んでいた。両手でカップを包み込むと、温かさが掌からじんわりと伝わり、冷えて強ばっていた指先がほどけていく。
生姜はあまり得意ではないけれど、まずはそのまま飲んでみよう。
そっと口をつけると、香ばしさとほんのりした甘みのあとに、生姜のぴりりとした辛味。飲みやすい温度のはずなのに、それ以上の熱を保って体へ行き渡る。
そのあたたかさを飲みこむと、棗とものと思われる、独特な風味と甘みが体を通り抜けていく。
「……あったかい」
思わず小さくこぼれた声は、自分でも驚くほどゆるんでいた。
胃の奥から末端まで広がっていくような温かさに、張りつめていた胸元の力が抜けていく。
今日ずっと我慢していたモヤモヤが、思わず目尻から零れ出ていきそうになった。
(なんだろう、ただのお茶なのに)
雛子はカップを見つめながら、胸の奥がじんわり熱くなるのを感じた。
生姜の辛みと棗の甘さが溶け合い、雛子自身を優しく受け止めてくれているようだった。
ストレス軽減にも効くと言っていたけど、たしかにこれは効きそうだ。このカフェの居心地のよい雰囲気とあたたかい接客も確実にその効果を増幅している。
「薬膳って、すごいんだな……私の悩みも解決してくれたらいいのに」
「よろしければ、薬膳についてご説明しましょうか」
「わっ」
いつの間にか黒髪の店員がすぐ傍に立っていた。先ほどキッチンいるところを見かけた、凪と呼ばれていた仕事のできそうな女性だ。少し吊り目がちな瞳は、静かに雛子を見つめている。絹のように艶やかな黒髪はアップスタイルできっちりまとめられ、露わになったシャープな輪郭が彼女の知的な魅力をいっそう引き立てている。
かわいらしい花凜とは対照的に、凪は無表情でやや近寄りがたく、クールな雰囲気の美人だ。
彼女は雛子を待つかのように無言で立っている。慌てて口を開いた。
「いや、えっと。私、緊張でお腹が痛くなりがちなので、薬膳で治せるのかなって」
「薬膳は医療ではありません」
「あ、そうなんですね」
「ただ、薬膳は医食同源…食物のもつ力で病気の予防や健康促進を目指しています。陰陽や五行、気血水などの理念を踏まえ、お客さまのお悩みに合わせた食材を使うことで、身体の働きを助けます」
「なるほど?」
「中医学的にはお客様の状態は脾胃の虚弱、寒邪、肝気の不調があるとされます。それを補う食材、たとえば鶏肉や山芋、みかんの皮などで体を温め虚弱を補い、気を巡らせるメニューを組み立てます。先ほどの棗生姜茶もそうですね」
人形のような表情のまま、淡々と説明が続く。意外と饒舌。
インヨウもゴギョウもキケツスイも初めて聞く言葉だ。頭に疑問符が浮かんでしまう。
雛子の様子を察したのだろう、凪は話すペースを緩めていく。
「病気を治すとは言えませんが、心身の調子を整えて病気になる前の段階、未病を治すという考えです。」
「心身の調子を整えて、治す…」
「また、身体の臓器には特定の感情と結びついていると考えられています。消化器である脾胃は“思い悩む”と弱る。心当たりはありませんか」
どきりとした。まさに四六時中思い悩んでいる。昔から色々と気にしがちな性格ではある上、特に最近は受験勉強のプレッシャーもあり、たしかにお腹が痛くなる頻度が高くなっている気もする。
切れ長の瞳が雛子の鞄に向く。使い古した付箋だらけの参考書がちらりと覗いていた。
終始落ち着いた色を宿していた瞳が、ふっと和らぎ、その奥で輝きを増した。それにつられるように、口角がほんのわずかに持ち上がり、凪は初めて人間らしい表情を見せた。雛子は思わず見とれる。
「これはお節介でしょうが…、お客様はとても真面目なご様子。今は少し力を抜いて自分自身を大切にしてあげてはいかがでしょうか」
「でも、薬…整腸剤は飲んでいますし」
「市販の整腸剤は様々な薬があり、どの薬が合うか個人差があります。消化器内科を受診して、まずはしっかり診てもらうといいと思います。実は病気が隠れていることもありますので」
「でも、受験勉強が」
「お客様、まずは“ご自愛”が大事ですよー」
いつの間にか花凜が水のポットを手に立っていた。
「ご自愛、ですか」
「お客様、自分の体調が悪かったときも私に謝ったり、気を遣ってましたよね?あんなんじゃ心配しすぎて疲れちゃいますよ。まずは自分の心身の健康が最優先です、図々しくならなきゃ!」
ごゆっくり。そう言って笑顔の花凜は凪とともにキッチンへ向かった。
ティーポットには二人分くらいの量がある。雛子はまだ温かいお茶を飲みながら、ひとり、考えを巡らせる。今は参考書を開く気分にはなれなかった。
今日は模試はひどい出来だったし、バスには乗り遅れて塾に間に合わないし、花凜さんと凪さんには迷惑をかけるし、私は大事なときに調子を崩しちゃうダメなやつだけど。
塾のテストで躓いて復習してた問題は今日の模試で解けたし、ちゃんと予定を変更して自分の体調を優先するという選択ができたし、今日帰ったらお母さんに病院に行きたいと話す決意ができたし、明日は勉強を頑張れそうな気がする。
少なくとも今だけは、自分を責めずに褒めてあげたい。
そう思えた瞬間、胸の奥に重く積もっていた雲が少し晴れた気がした。
雛子は残りのお茶を飲み干し、静かに息をつく。
琥珀色の温もりはまだ喉もとに残っていて、凍えていた心をやわらかく溶かしていく。
時計を見れば、塾にはとうに間に合わない時間だ。それでも――胸のざわめきは嘘みたいに静かだった。
「ごちそうさまでした」
こぼれた声は、雨上がりの空のように澄んでいた。
「お気に召していただけてよかったです」
花凜が笑う。あのにこやかな笑顔に、雛子の心がほぐされる。
お会計を済ませると、思ったよりもリーズナブルで驚いた。
厨房から凪がちらりと顔を出す。
「ご来店ありがとうございました」
淡々とした口調ながら、どこか雛子を気にかけている響きがあった。
「……また来てもいいですか?」
勇気を出して尋ねると、花凜はぱっと顔を輝かせ、凪は目元を緩ませた。
「もちろんです!」
「いつでも、来店をお待ちしております」
その言葉が胸に温かく残った。
店を出ると、夜風はまだ冷たかったが、雛子の足取りは驚くくらい軽かった。