2.私たちの始まり
いやいや、待って待って。そんなわけない。
アクセスが、こんなところにいるわけ――。
「「…………」」
「……それでは、国王陛下より祝辞を賜ります。皆さまご起立ください」
突然視界が人の影で遮られて、私は慌てて立ち上がり、礼をする。
壇上からも少し遅れて椅子の動く音がした。
アクセスだろうか。
彼も、頭がいっぱいになって、周りを見るのが遅れたのだろうか……?
ということは、本当に、あの人は、本当に……アクセス……?
「面をあげよ」
陛下の一言で、顔を上げる。
何を考えていても、視線は真っすぐに壇上のその人の方へ向いてしまう。
すると同じように私を見つめる、ドラゴンに似た瞳。
二つの視線がぶつかって、火花が飛ぶかと思った。
あまりにも熱くて。
「っ……」
最初にそらしたのは私だった。
冷淡でいたい訳でも、狂いそうなほど恋しくなった訳でもなく、ただ、逃げてしまいたくて。
式の間中、私は壇上から目を背け、終わるとすぐに人ごみに紛れて大講堂を出た。
にこやかに談笑している夫人達の後ろを通り、許されるギリギリの早足で門へと向かう。
(逃げちゃった……)
心臓がドキドキしていた。
(目も……そらしちゃった……)
アクセスはどう思ったのだろう。
確かめたい気持ちと、もう確かめる方法もないもどかしさに、ただ手のひらに爪を立てる。
いつのまにか、地面はまばらな石畳に変わっていた。
コツコツと、早足で歩く音が学園をぐるりと囲む石壁に反響する。
コツコツ……コッ、コッ
コツコツ……コッ、コッ
学園の不思議の一つ、"ついてくる足音"だ。
不思議と、私の目に涙が迫り上がってくる。
懐かしさと、たぶんこれは、ほんの少しの後悔。
こんな怪談がなければ、きっと、私とアクセスは――知り合うこともなかったのに。
□□□
十四年前。
その日は月の明るい夜だった。
二年生になってはじめての委員会の帰り。
委員会が終わった流れで、私は今日はじめて話した男の子と、何となく一緒に寮に帰っていた。
名前はアクセス・フォン・ギルフリート。
しがない貧乏子爵家の私でも知っている、宝冠の五家の一つ、ギルフリート家の人。
しかも彼は炎の精霊の愛し子らしい。
顔立ちもどことなく華があって、性格も分け隔てない。
この学年なら一番の優良物件だと、前に同じクラスの女の子達がはしゃいでいた。
私は、話したことはない。
それでも、夜の校舎は何だか妙な迫力があって、私はただ気を紛らわせたくて口を開いた。
「ギルフリートくんって、寮なんだね」
「あー、そうだよ。俺ん家、南の国境の離島だから。……ブラットさんも、寮なんだ」
「うん。私の家、ハルマニア山脈の狭間だから」
「へぇー」
「…………」
会話が……続かない。
何一つ共通点がないから、仕方ないといえば仕方ないんだけど……。
私はきょろきょろと辺りを見回した。
すると一陣の風が木の葉をゆらして、私は肩をすくめる。
「……寒い?」
「えっ?あ、ううん。そんなことないよ」
「でもさ、なんか……顔色……」
その金色の瞳は、月明かりの下でもよく見えるのだろうか。
ばれちゃったか。と、私は苦笑いをして頬をかいた。
「あー……。あのね?笑ってくれていいんだけど、私、最近……エコリスに憑かれてる気がしてて……」
そう言うと、彼は意外だとでも言うように、目を瞬かせた。
「エコリスって、あの……学園の噂の?」
「うん……」
「……へ、へぇ……」
その、「どうフォローしようか」みたいな顔をやめてほしい。
学園の噂の一つ、ついてくる足音。
その正体は不慮の事故で死んだエコリスという少女の霊で、エコリスに追いつかれたら最後、足首から上を奪われて今度は自分がエコリスになってしまう――という"学園の噂"。
もちろん、子どもだましの怪談だ。
(やっぱり話すべきじゃなかった)
私は眉を下げて、できるだけ明るく笑った。
「あははは、へ、変なこと言ってごめんね。エコリスなんて変だよね。私も、こんなの気のせいって、分かってるんだけど」
「気のせいじゃないな」
急に、ぽつりとギルフリートくんが呟く。
私はうまく聞き取れなくて、首を傾げた。
「え?」
「つけられてる」
「っ!」
心臓が口から飛び出るかと思った。
思わず振り返ろうとした私の背中に、紳士的に手が添えられる。
「歩いて」
「振り向かずに」
「っ……」
ドクン、ドクンと心臓がうるさい。
私は胸の前で手をきつく握りしめる。
「ほ、っほんとに……?」
「うん。でも大丈夫。幽霊じゃないよ。人間だ」
それは果たして本当に大丈夫なのだろうか。
人間なら人間で恐ろしい。
私は震えながら、ちらりと横を見上げた。
「っ……は、はしる?」
「ううん。まだ。あそこの角を曲がったら、走ろう」
「わ、分かった」
技術棟の校舎の角。
月明かりに照らされたそこを曲がって……それで?
どっちへ走ればいいんだろう。
戸惑う私の手を、ギルフリートくんの手が握る。
「ついて来て」
「っ……」
手を引かれ走り出す瞬間、後ろから地面を蹴る足音が聞こえた。
(追ってこようとしてるんだ……!)
ぞわりと鳥肌が立って、悪寒が体中を駆けめぐる。
「はっ……っ……!」
恐くて、恐くて、呼吸もうまくできなくて。
ようやく校舎と校舎の間の狭いスペースに隠れたら、そこに座り込んでしまった。
ここは狭くて、安心する。
もうここから出たくない。
「ここにいて」
けれどそんな事を言われて、とっさに私はギルフリートくんのローブを掴んだ。
「えっ?ぎ、っ、ギルフリートくんは?」
「話を聞いてくるよ」
「そっ……だっ、だめだよ、危ないよっ、もし変な人だったら……!」
ここはやり過ごして先生に言おう。
そう説得する私の肩をギルフリートくんが押し留める。
外よりも暗い影の中で、その目が獲物を見つけたドラゴンのように輝いていた。
「大丈夫。こういうのは、たぶん俺のほうが上だ」
「ギルっ……!」
止める暇はなかった。
思ったよりも近くで、誰かの足音が聞こえたのだ。
ギルフリートくんは飛び出して行ってしまい、私は壁際で体を小さくする。
「っ…………」
心臓が今にも破裂しそうだった。
短い呼吸を繰り返しながら手で口を覆うと、男の人の声でぼそぼそと何か話しているのが聞こえてきた。
恐る恐る、ポケットから杖を取り出す。
(いざとなったら加勢しなきゃ……!)
でも、魔法で人に攻撃したことなんて、ない。
「…………」
まんじりともしない時間。
一秒、一秒が、とても長く感じた。
杖を握る手のひらに汗がにじむ。
すると、「ブラットさん?」と明るい声がした。
「大丈夫。もう行ったよ」
(ほ……本当に?)
そろそろと校舎の間から顔を出すと、ギルフリートくんが壊れた噴水の前に一人で立っていた。
長い影が地面に伸びているたけで、他に動くものはない。
私はギルフリートくんに駆け寄った。
「ギルフリートくん!だ、大丈夫?怪我とか、してない?」
「全然。穏便にすんだよ」
確かに、その声も、髪の毛も何ひとつ乱れていない。
私はホッと胸をなでおろした。
「よかった……」
「後をつけてたのは学園の生徒だったよ。どうやら君に好意があって、話しかける機会をねらってただけらしいんだけど……怖がらせてる事と、もう近づかないでほしい事を伝えたら、もうしないってさ」
「っ!」
しかもまさか、相手と話までつけてくれるなんて。
ありがたすぎて涙が出そうだ。
私は深々と頭を下げた。
「っ……はぁー。ぁ、ありがとう……ギルフリートくん……」
「これくらい何でもないよ。さ、行こうか。女子寮まで送るよ」
ここからだと、女子寮は男子寮の奥にある。
ギルフリートくんには無駄足になるのに……なんて親切な人なんだろう。
さっきの今で流石に一人になりたくなかった私は、その親切に甘えることにした。
「……ありがとう……」
「全然。……こういうの、よくあるの?」
ギルフリートくんと並んで歩く。
その距離はさっきより少しだけ近い。
吸い込んだ空気にほんの少し、苦い煙草の匂いが混じっていた気がした。
「ううん、はじめて……」
「そっか」
「……だから、誰に相談すればいいのかも分からなくて……。ほんとに、ありがとう」
今日何度目か分からない"ありがとう"を言うと、ギルフリートくんは苦笑した。
「全然いいよ。大したことしてないし。……でも、三年の監督生には話しておいてもいいかもね」
「三年……?」
首をかしげて、ハッとする。
(あ。追いかけてきた人、もしかして三年生なのかな……)
他の学年なんて、ますます誰か分からない。
私はどこか後味の悪さを感じながら頷いた。
「……うん。考えとく。」
「…………」
すると何か言いたげな視線が私に向けられる。
ギルフリートくんは、正直な人だ。
きっと、なんではっきり言わないんだと思っているんだろう。
私は思わず苦笑いを浮かべる。
「ごめんね。私も、なぁなぁにしたい訳じゃないんだけど……。でも、つけられてるかもって最初に思ったのは、三ヶ月前なの……。それが、今日ギルフリートくんが話をつけてくれた人なのか、それとも別の人なのか、そもそも私の勘違いだったのか、全然分からなくて。いつどこでなんてメモしてもないし……ギルフリートくんが話してくれたから、もういいかなって」
監督生に話すということは、正式な処罰を求めるということだ。
そのためには、誰に、いつ、どこで、何をされたのか、明らかにする必要がある。
けれど、そんな事は私にも分からないし、今日初めて後をつけたんだなんて言われたら、きっと処罰されることはないだろう。
口頭注意が関の山だ。
それが分かったのだろう、ギルフリートくんはそっと視線をそらした。
「そっか。じゃあ、仕方ないな」
「うん……。ありがとう」
不思議な人だと思った。
正義感と素直さの割合が絶妙で、なんだかとても居心地が良い。
不思議だった。
今日初めて話した男の子なのに。
「あのね、」
「ん?」
だから、気がつけば聞いていた。
「追いかけてきた人って……どんな人だった?」
別に、それを聞いて、どうしようというのでもない。
ただ、今、頭の中にある真黒な不審者が追いかけてくる絵が、そこらへんの生徒に変わったら、少しはこの恐怖もマシになるかなと思っただけで。
「え、どんな……?」
案の定、ギルフリートくんは少し戸惑ったように目を見開いた。
それからゆっくりと頭をひねる。
「うーん……クリームシチューを、人間にしたみたいな……?」
「…………」
えっ。
クリームシチュー?
頭の中の恐ろしい不審者が、ニンジンとジャガイモが入ったクリームシチューの鍋に変わる。
その瞬間、思わず吹き出していた。
「……ぷっ、なにそれっ……っ、ふっ、あははっ、クリームシチューって……!」
ギルフリートくんが静かに息を呑む。
私はお腹を折って笑い続けた。
「はは、っあははっ、クリーム……シチュー、っ、あはははっ」
「……今の、そんなに面白かった?」
「ひいっ、もう、しゃべらないでっ!お、おなか、いたいっ……!」
膝をぷるぷるさせながら笑う私を、ギルフリートくんは目を点にして見ていたけど、やがて私につられるように笑いはじめた。
何がおかしいのか、寮につく頃にはもう訳も分からなくなって。
「また明日」
「うん、またね」
そう笑い合った夜が、私達の始まりだった。