4.十年に一度咲く花
誤字脱字報告、ありがとうございます。(見落とし申し訳ございません)
とても助かります!
翌日私は王都内の大きな植物園へ向かった。その植物園にはエーリクとの大切な思い出があった。
十年前、エーリクと婚約してすぐにこの植物園がオープンした。私たちは一緒に手を繋いでここを訪れた。王都を発つ前に思い出の場所に来るなんて私もたいがい感傷的だ。綺麗な花々を眺めながらゆっくりと歩みを進め一番奥の区画へ入る。大きな囲いの中心に一本の立派な茎がそびえ立つ。茎の先端に花は咲いていない。
この花は異国の珍しい花で十年に一度しか花を咲かせない。十年前に私はエーリクとこの花が大きな花弁を広げ甘い香りを放つところを見た。
まるで葉のような濃い緑色の大きな花弁すべてがのけ反るような姿は圧巻だった。一面に甘い香りが強く香り、どこからか入り込んだ黄色い蝶々が花の蜜を求め群がる。蝶々が合わさることで花がいっそう色鮮やかになり、この不思議な花が完成したように思えた。
私たちは口を開けポカーンと見惚れた。この花はたった一晩で枯れ次に見ることができるのは十年後だ。この日、まるで私たちの婚約を祝って花が咲いたような気がして二人ではしゃいだ。
次に見る時もエーリクが一緒だと思っていた。今背の高い茎の先端には少しだけ膨らんだ風船のような蕾がついている。植物園は先月から開花間近だと宣伝していたが、なかなか咲かないので見物客は私だけ。花にも機嫌があるのかもしれない。私は花を囲う柵の前に置かれたベンチに座りぼんやりと茎を見上げた。
『ブランカ。十年後、またこの花を一緒に見よう!』
『エーリク。約束ね! 花が咲くころには私たち結婚しているかしら?』
『きっとしてるよ! 十年後に見たらその次の十年後も来よう』
『楽しみね』
子供の頃の無邪気な約束。でももう果たされることのない約束。きっとエーリクは覚えていない。その鮮やかな記憶が私の胸を切なく締め付ける。瞳からはとめどなく涙が零れた。今だけ、泣くことを自分に許そう。そうしたらきっと気持ちに踏ん切りがつく。仕方がなかった、エーリクとは縁がなかったのだと思える……。
しばらくして遠くに聞こえる鳥のさえずりに意識を戻した。私はここで長い時間ぼうっとしていたようだ。人気が無く静かすぎて自分の世界に浸ってしまった。ハンカチを取り出し涙を拭うとふうと息を吐く。少しすっきりしたかもしれない。
ふいに声をかけられた。
「ブランカ嬢。こんにちは」
振り返れば長身の男性が私に柔らかく微笑んでいた。
「お久しぶりです。ユリウス様」
声をかけてきたのはブラウアー公爵子息ユリウス様。もしかしたら泣いていたのを見られてしまったかもしれない。でもユリウス様はそれには触れなかった。
彼とは一年前まで面識はなかった。エーリクとよそよそしくなった一年前に、ここで偶然会い話す機会があった。それ以降この花の前で何度か顔を合わせている。話をするようになってお互いに花に思い入れがあることを知った。
「まだ花は咲かないようだね。植物園の見立てではそろそろ咲きそうだと宣伝していたが、花は機嫌が悪くなったのかな?」
「ふふふ。そうかもしれませんね」
「隣に座っても?」
「どうぞ」
私は腰をずらし座れるように席を空けた。ユリウス様は座ると話すでもなく静かに花の蕾を見上げていた。
********
ユリウス様には男爵令嬢の婚約者がいた。二人のお母様が幼馴染で仲が良く、その関係で婚約を結んだそうだ。そうでなければ家格が釣り合わない、珍しい縁組だった。社交界では男爵令嬢をやっかむ人も多くいたが、彼女は体が弱くほとんど公の場所に出なかった。だから密かに後釜を狙う令嬢はいたように思う。
一年前、ここで偶然会ったユリウス様はまだ咲く予兆のない花の小さな蕾を見つめながら肩を震わせていた。見なかったことにするべきだと思ったが、ユリウス様の背中が切ないほど頼りなく見えて「大丈夫ですか?」と声をかけてしまった。そうしないとこの人が消えてしまいそうだった。
ユリウス様は儚く微笑むと「聞いてくれるか?」とぽつりぽつりとご自身のことを話してくださった。それは私に聞かせるというより自分自身の悔恨を確認するようだった。
ユリウス様の婚約者は一か月前に儚くなった。
男爵令嬢はフィーネ様という。ユリウス様はフィーネ様を女性と意識したことはない。幼馴染で妹のような存在で彼女自身にもそう伝えていた。それでもフィーネ様はユリウス様を慕い婚約を望んだ。男爵ご夫妻は産まれた時から体が弱く成人するまで生きられないと医者に宣告されたフィーネ様と、同情でもいいから婚約して欲しいとユリウス様に懇願された。未来のない娘に夢を見させて欲しいと。ブラウアー公爵様もユリウス様も憐れに思い頷いた。
ユリウス様にはフィーネ様に恋心はないが家族へ向けるような愛情はあったし力になってあげたいと思っていたそうだ。ユリウス様は結婚願望が薄く好意を持った女性もいなかったので結婚適齢期を過ぎてもフィーネ様を婚約者のままにしていた。そんなある日ユリウス様はフィーネ様が男爵と話をしているのを聞いてしまった。
「フィーネ。何としても生きてこのままブラウアー公爵家に嫁ぐのだ。そうすれば我が家は安泰だ。いいな」
「お父様…………」
フィーネ様の声は小さく男爵に何と返事をしたのかは聞き取れなかったが、ユリウス様は自分の親切心を利用されたように感じた。ユリウス様はそれがきっかけで足が遠のき見舞いに訪れる回数が減ってしまった。フィーネ様の妹には「もっと会いに来てください。お姉様はずっと待っているのになんて冷たい人なの!」となじられた。結局最後に会ったのは亡くなる一週間前だった。
その日のフィーネ様はドレス全体にフリルがたっぷりとついた派手なドレスを着ていた。濃い化粧に真っ赤な口紅で微笑むフィーネ様に、さすがに似合っていないとはいえず、でも嫌悪感が湧き早々に帰ることにした。
フィーネ様はユリウス様を引き留めなかった。フィーネ様は自分の死期を悟っていたかのように別れ際に「ユリウス様。私幸せでした。ありがとう」と言ったそうだ。ユリウス様はフィーネ様の具合がそこまで悪かったことを知らされていなかったので、その言葉を深く考えずにそのまま辞去してしまった。
「フィーネは私に心配かけないようにしていた。そして自分の我儘で無理矢理婚約させてしまったことを申し訳ないと言っていたそうだ。最後の別れのためにフィーネに会いに行った時、フィーネはフィーネらしい可愛くてシンプルなドレスを着ていた。だが……体は枯れ枝のように痩せて顔色は……っ……。私に会うときに着ていた派手なドレスは痩せてしまった体を誤魔化すため、濃い化粧は顔色を少しでも良く見せるためにしていた。真っ赤な口紅でないと隠せないほどひどい色だったらしい。私に心配をかけないようにしていた……私と会うことだけを楽しみに生きていたフィーネに、大人げなく辛く当たり悲しい思いをさせてしまったんだ……」
ユリウス様の目の縁に少しだけ涙が滲む。大人の男性が自分の心の内を吐露して苦しんでいる姿を初めて見た。フィーネ様に優しくできなかった自分を責め苦しんでいる。私は慰める言葉を見つけることができない。ただハンカチを差し出した。ユリウス様は受け取ってくれた。
「フィーネ様はお化粧やドレスアップするのが楽しかったと思います。それを見てくれる人がいるって大切なことです」
もし自分が病弱でベッドから出られないときに、自分に会いに来てくれる人がいて、その人のためにお洒落をする。それは女の子なら楽しいと思う。私はお母様が亡くなってからは新しいドレスを着ても誰も何も言ってくれなかった。エーリクでさえも……。
「私は誉めてやらなかった。それどころか似合わないと思っていた」
「お二人のことを知らない私が言うのはおこがましいですけれど、でもフィーネ様は『幸せでした』と言ったのでしょう? その言葉を信じてもいいのではないでしょうか?」
会いに来ないユリウス様を責めるのではなく「ありがとう」と言ったのは本心だと思う。
「そう……だろうか?」
「私はそう思います」
フィーネ様とは会ったことすらない。人となりを知らないので想像だけだ。他人が無責任な慰めを口にしていいのか迷うが私はそう感じた。ユリウス様には私の言葉など気休めにもならないかもしれない。でも伝えずにはいられなかった。
「ありがとう。私はもう少しここにいるが」
「私はお先に失礼しますね」
ユリウス様は一人になりたそうなので、邪魔にならないように先に帰ることにした。
私はそのあともエーリクと険悪になるたびにここに来た。三回に一回くらいの頻度でユリウス様に会う。
次第に私はユリウス様にエーリクの愚痴を言うようになった。誰にも言えなかったのについ口が軽くなってしまった。ユリウス様は不思議な人だ。公爵子息であるが偉ぶらない。エーリクを弁護するようなことも言わないし、私を慰めるわけでもない。ただ静かに聞いてくれた。彼の存在があったおかげで私は自分自身を追い込まずにすんだのかもしれない。
ある日私は気になっていたことを思い切って尋ねた。
「ユリウス様はこの花に思い入れがあるのですか?」
「前に開花した時、フィーネは熱を出して見に来ることができなかった。あの時に次に咲く時は連れてきて欲しいと頼まれていた。果たせなかったな」
「そうだったのですね……」
私たちは偶然にもお互いの婚約者とこの花の開花を見る約束をした者同士だった。
「ブランカ嬢。大丈夫か? 私に何かできることはあるだろうか? 以前助けてもらった借りを返したい。私はあなたに感謝しているんだ」
ユリウス様は初めて会ったときのことをそんなふうに思っていたのか。私は感謝されるほどのことをしていないのに。
今日は先日行った夜会でエーリクに置いて帰られた愚痴をこぼしたせいで、ユリウス様に心配をかけてしまった。今までは彼が何かを申し出ることなどなかったのに。
「まあ、借りなど大袈裟です。ただ話を聞いただけですから」
「私はあの時、私とフィーネのことを知らない人に話を聞いてもらえて救われた。私が感謝して借りだと言えば借りなのだ」
「強情ですね」
「ブランカ嬢は……私の次の婚約者のことを問わなかった。私の家族以外の人間はみんな早く新しい婚約者を決めろとせっついたのに。フィーネの……妹でさえ……自分が婚約者になりたいと言ってきた。まだ喪も明けていないときから……」
「それは……」
次期公爵当主となるユリウス様と結婚を望む家や女性は多いだろう。立場的にも婚約者は必要だ。でもそう急すぎては思いやりがないと思う。彼にも心があるのだから。
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蕾を見ながらユリウス様との不思議な縁に思いを馳せた。
私は明日、バーナー子爵領へ向かう。再び王都に戻る日が来るのか分からない。今日、ユリウス様に会えてよかった。
「ユリウス様。私、王都を離れることになりました。今までありがとうございました」
「そうか。私にできることはあるか? まだ借りを返せていないのだが」
「まあ! まだ借りなどとおっしゃるのですか?」
真剣なユリウス様の表情が可笑しくてくすくす笑ってしまった。ユリウス様は優しい方だが強情なところもある。それにしてもさすが公爵子息。私が婚約を解消されたことをすでにご存じのようだ。情報の早さに驚いてしまう。でもまあ、エーリクとフリーデは堂々と二人で過ごしていたから婚約者の交代は時間の問題だと貴族たちは気付いていたはず。
「大丈夫です。私、母の実家に養女にしてもらえることになったのです。その後のことは叔父に任せています。きっといいようにしてくれると思います。心配してくださってありがとうございます」
「そうか。でももし助けが必要なことがあれば必ず頼って欲しい」
「はい」
私たちはその後ベンチに並んで言葉もなく再びしばらく蕾を見ていた。一時間ほど経った頃、合図もなく同時に立ち上がる。
「ユリウス様。お元気で」
「ブランカ嬢も元気で」
私は久しぶりに笑った。手を振り穏やかな気持ちでユリウス様と別れた。
植物園を出ると心の中にあった真っ黒なものが消えていた。私はすっきりとした気持ちで歩き出した。