2.元婚約者に「真実の愛」を問う
ある年齢を過ぎた頃からエーリクが苦しんでいたのは知っていた。
神童と呼ばれた彼は努力の仕方を知らなかった。成長すると家庭教師に凡人で落ちこぼれ扱いを受けるようになる。
ボルク侯爵家としての跡継ぎ教育が本格的になるとエーリクは私から見ても躓いていた。安直かもしれないが諦めなければ、努力のコツさえ掴めば大丈夫だと思っていた。
『一緒に頑張りましょう。今までエーリクは私を助けてくれていた。今度は私があなたを助ける。もし二人で悩んでも一緒に力を合わせれば解決できるわ』
結婚して一生を共に過ごす。人生はいいことばかりじゃない。今これを乗り越えていければ私にとってもエーリクにとっても自信になる。今なら手を差し伸べてくれる大人がいる。助けを求めることは恥じゃない。だから頑張ろう、そう伝えたかった。でもそれは間違いだったのだ。彼を追いつめ傷付けた。
エーリクにとって自分ができないことを認めるのは屈辱だったのだ。認めなければ教えを乞うことはできない。私はボルク侯爵家に通いエーリクと一緒に勉強をしていた。エーリクは家庭教師に注意されることが増えると次第に体調を崩し休みがちになった。エーリクは私にできて自分にできないことがあると不機嫌になる。そうなると私はかける言葉が分からなくなり途方に暮れた。
家庭教師はしばらく休養するほうがいいと配慮したが、エーリクは勉強を放り出して外出するようになった。気付けばエーリクと会う時間が減り、夜会などの社交の場だけでしか顔を合わせない。その頃には会話もなくなり、話しかけてもおざなりな返事しか返してくれなかった。
(このままで私たちは大丈夫なのかしら?)
そんな時ある噂を聞いた。エーリクとフリーデが腕を組んで買い物をしていたと。
私とエーリクが結婚すればエーリクにとってフリーデは義妹になる。仲が良くても問題ない。腕を組むのは慎みがないが、でもきっと大丈夫。だって私たちは婚約者として十年以上、一緒に過ごしてきた。私たちには時間をかけて築き上げた信頼関係があるのだから問題ない。そう自分を誤魔化した。
不安だったがきっと明日には元の関係に戻る。そう願いずるずると時間が過ぎ一年が経った。結婚式を一年後に控えた今になって私たちの関係は崩壊した。いいや、きっともっと前から壊れていたのに私が目を逸らしていた。そして失うことになったのだ。それなら最後は逃げずに受け止めたい。
「エーリク。あなたにとっての真実の愛とはなに?」
「一生、一緒にいたいと思える相手、支え合える人への愛……言葉にするのは難しいが……フリーデは誰よりも私の気持ちを理解してくれている。私もフリーデを理解してやれる。お互いを必要としているんだ。それにフリーデは伯爵家で辛い思いをしていたそうじゃないか。私が守ってやりたいと思った」
「……」
エーリクにとって私は一生を共にできる存在ではなく、また支え合いたい相手でもない……。
「辛い思い」という言葉にはどこか私に対する非難が入り混じっている。フリーデは伯爵家で私にいじめられているとでも訴えたのかもしれない。それを彼は私に確かめもせずに鵜呑みにしたのか。エーリクは優しいが思い込みが激しいところがある。
「フリーデは絶対に私を否定しない。私にはフリーデが必要なんだ」
エーリクを否定したつもりはない。でも私といるのはそんなに苦しかったの?
確かに辛いときや苦しいときには逃げることも必要だ。壊れてしまうまで頑張って欲しいわけじゃない。でもエーリクはボルク侯爵家を継ぎ守っていく立場にある。苦しいからと逃げ続けることはできない。今立ち向かわねばこの先やっていけないだろう。
結局、私はエーリクの話を聞いても真実の愛を理解できなかった。これは僻みなのか。私が冷たい人間だからなのか。彼の望む言葉をかけられなかった私には愛情を感じなかったということだ。一緒に頑張りたかったのに私の思いはエーリクには届いていなかった。フリーデを思いながら微笑むエーリクに、もうこれ以上聞きたいことはない。
「分かったわ。ありがとう、エーリク。どうぞお幸せに」
「ああ。ありがとう。ブランカにも真実の愛を捧げられる人がきっと見つかるよ。私に力になれることがあれば言ってくれ。私がフリーデと結婚すれば義理の兄妹になるのだからね」
私は愕然とした。エーリクはこれを本気で言っている。あまりにも思いやりのない言葉だ。血の気が引くのを感じながら訣別のために別れの言葉を告げる。
「さようなら。エーリク」
私はソファーから立ち上がると見送りを断りボルク侯爵家の玄関を出た。空を見上げれば曇天から白いものがちらちらと舞い落ちる。
「雪……」
どうりで寒いはず。吐き出した息が白い。思わずぶるりと体を震わせる。私はそっと左の頬に触れた。
私の左頬は赤く腫れている。一昨日、エーリクからの婚約解消の手紙を読み激高したお父様に殴られた。翌日おじさまが来て婚約者を私からフリーデに変更して欲しいとの説明でお父様の機嫌は直ったが、頬の腫れは引いていない。化粧で誤魔化しているが隠しきれていないのは顔を見れば分かるはずだ。お茶を出してくれた侍女ですら腫れた頬を見て悲痛な表情をした。でもエーリクは最後までそのことに触れなかった。「どうしたのか?」「大丈夫か?」そんな労わりの言葉もない。きっと気付いてもいなかったのだ。それはもう私への興味が一欠けらもない証拠。
お父様が私とエーリクの婚約解消を受け入れ、エーリクとフリーデの婚約の手続きを早急に済ませた。私たちはもう婚約者ではない。彼が考えを変えることはないと分かっていても、どうしても直接話をしたかった。でも話をして分かったのはエーリクが私を好きではなかったことだけ。胸に残ったのは優しい思い出ではなく、今までのすべてを否定された悲しみだけだった。
本当に……終わってしまった。十年前に思い描いた、優しく幸福な未来は訪れない。
私は虚しさを胸に抱いたまま帰途に就いた。