脱出
窓枠に手をついて、キースは母を見つめていた。これは敵わないと感じた。
この人と結婚しているんだから、ニコラス叔父さんも只者じゃないだろう。
ふと気付くと、横にいたマックスが、俯いていた。
どうした、とキースが小声で聞くと涙ぐんでいた。
「お前、ずるいよ。何であの人がお前の母親なんだよ。なんであの女が僕の母親なんだよ。何であんなに差があるんだよ。お前なんか嫌いだ」
キースはマックスの事が気の毒になった。彼の気持ちはわかる。反対の立場だったら、きっとマックスを殴っていただろう。だから何も言わなかった。
室内は静かだ。にっこりと微笑む母と、呆然とした様子の、その他三人。
そのまま、時が止まったようだった。
一番最初に我に返ったのはマーシャ伯母さんだった。
「馬鹿な事、言わないで。マックスは侯爵家の跡を継ぐのよ。ここに残らせるわ。キースだけ連れて帰りなさいよ」
「やはり、ここにいるのね」
母が、ふっと緊張した顔に戻り、そう言った。その言葉に反応して、ミール侯爵が言葉を返した。
「ここに居るなんて誰が言いましたか? 居るならという仮定にすぎません。それに、もし居るとしたら、キースこそ返しませんよ。あなたとの縁を繋ぐ金の鎖だ」
キースの背筋に悪寒が走った。気持ち悪いからやめて欲しい。
マーシャ伯母さんが鬼のような形相でミール侯爵に迫った。
「マックスを侯爵にすると約束したじゃない。キースなんかどうでもいいわ。探って来るから、ついでに拉致しただけじゃないの」
母が伯母に問いかけた。
「それなら、キースはどうするつもりだったの?」
「さあね。知らないわ」
母は、疲れたような顔をし、横に座るニコラス叔父さんが、母の肩を抱き押せた。
「あなたはいつも、そう。何も考えずに、とんでもない事を気軽にしでかす。いつも、いつまでも変わらないのね」
マーシャ伯母さんが、なぜか自慢そうな顔になった。
「なぜだろう。伯母さんの頭の中が理解できない。できたら、危ない奴だろうな」
キースがそう言ったら、隣にいるマックスが横を向いた。
「アトレーを取られた事を今でも恨んでいるの? ざまあないわね」
「なぜ、そんなことをしたの? 一度聞いてみたかったのよ。アトレーのことを、少しも愛していないでしょ」
「ソフィは、誰もが憧れるアトレーに選ばれたと、有頂天だったじゃない。それに引き換え、私はパッとしない田舎の子爵。結婚式に出るのが腹立たしかったのよ。アトレーを寝取ったおかげで、結婚式は心から楽しめたわ」
そんなことのために、今のこんな状況が起こっているのか。キースは吐き気を覚えた。
隣に立つマックスは少し泣いている。
母が、こめかみを押さえて言った。
「それでも侯爵位を与えたいと望む程度に、マックスの事は愛しているのでしょ。愛しているなら、こちらに渡しなさい。私達でちゃんと育てるわ」
「嫌よ。夫が彼を欲しがっているの。それが侯爵位を継ぐ条件ですもの。アトレーはマックスに興味が無かったから、ミール侯爵家で養子に迎えるわ」
母が、きっとして顔を上げた。
「それがマックスにとって幸せなことだと思うの?」
「侯爵になるのは幸せになるってことよ。何を言っているの?」
ニコラス叔父さんが割って入った。
「ソフィ。彼女には言葉が通じない。実力行使でいいと思うよ」
母が立ち上がった。
「屋敷内を見て回っていいかしら。居ないと言い張るなら、見ても大丈夫でしょ」
ミール侯爵が何か言い掛けるのを無視し、母とニコラス叔父が部屋を出て行った。そのまま門のところに行き、後ろから追いかけて来る侯爵を無視し、母は門番に開門するよう命じたようだ。
なぜか、門番たちは素直に、それに従った。
外で待機していた騎士達が一気に屋敷内に入り込み、屋敷中を探し回っているようだ。
たくさんの人間が走り回る靴の音と、ドアを開ける音が屋敷内で響き渡っている。
二人が隠れている真上の三階の部屋から、ドアが蹴破られたようなすごい音がし、ここだ、という声が上がった。
それはそうだろう。開いた窓と、不自然に窓辺に移動したベッド。其処から地上に向かって垂らしたシーツのロープ。
ザ・監禁現場。(脱出済み)
ニコラス叔父さんの声がした。キース、マックスと叫んでいる。
「ここにキースの銀時計が落ちている。ここに居た証拠だ」
その声で、銀時計を落としてきたんだと気付いた。ポケットを探ったがなかった。
キースはマックスに向き直り、彼に聞いた。
「なあ、僕たちはどうしようか? 監禁が公にされたら、マーシャ伯母さんは罰を受ける事になる。君を監禁しているだけなら何とかなるけど、僕まで監禁しているから、言い逃れも情状酌量もできないと思う。どうする?」
マックスは悩んでいるようだった。こんな厄介事ばかり起こす母親だ。関わりを断ちたいと思うだろうけど、だからといって自分の手で処刑台に送りたくはないだろう。
この決断は、重すぎる。
結論が出ないまま、時間が過ぎた。
それで、仕方なしにキースが決めた。
「よし、大人達に任せよう。それでいいな?」
そして、二人で揃って、庭で二人を探している大人達の前に出て行った。
すぐさま伯爵達が走り寄って来て、キースはゲート家の祖母に抱きしめられた。
「無事なの。何もされていない。大丈夫だった?」
薬を盛られて眠っていただけで、起きてすぐに二人で窓から脱出したと伝えると、両家の祖母たちが泣き出した。
本当にひどく心配していたようだ。
ミール侯爵は、使用人共々屋敷に軟禁したようで、騎士達が入り口で見張りに立っている。
少し離れた所にニコラス叔父と母が立って、こちらを見ているのにキースは気付いた。
お礼を言わなくてはいけない。二人のおかげで突破口が開けたのだ。
キースとマックスは二人の前に立ち、助けに来てくれたお礼を述べた。
「お二人にお礼を申し上げます。ありがとうございました」
ニコラス叔父さんはいつもの穏やかな顔に戻っていた。さっきの顔が、もう幻のようにしか思えない。
「よかったよ。無事で」
ニコラス叔父さんはそう言ってキースを抱きしめた。広い胸と長い腕は固かった。実はすごく鍛えられた体だった。今になって気が付くなんて、人を見る目が全然ないな、とキースは反省した。
母はその横で静かに立っていた。
ニコラス叔父さんが、母の体を少し引っ張り、キースの近くに寄せた。
「ソフィ。キースを抱きしめてあげてもいいんじゃないかな」
母はおずおずとキースに聞いた。
「あなたを抱きしめてもいいの?」
キースはびっくりした。母から避けられていると思っていたので、そんなことを聞かれるなんて思いもよらなかった。
そして、びっくりした挙句、小さい子供の様に、両腕を前に出していた。
更にびっくりしたことに、母がキースを抱きしめた。温かい体と、フリージアの花のようないい香りがキースを包んだ。生まれて初めて母に抱きしめられたのだった。
今まで一度も、手を取ることすら無かったのに。
キースは伸ばした腕で、母の体を抱いていいのか迷い、結局伸ばしたままで、母のするがままに任せた。
ニコラス叔父さんが、マックスも抱きしめてから、母のもとに連れてきた。
マックスの顔が情けないほどしょげている。
「さっきはありがとうございました。僕のことも取り返すと言ってもらえたこと、感謝します」
母は、彼の事も結構無造作に抱きしめた。
その様子を見てキースは泣きそうになった。人生初めての抱擁をかみしめていたのに、そんなのありか、と頭の中が文句で一杯になる。
そんなキースの気も知らず、母がマックスに言った。
「当たり前よ。あなたは私の大事な甥っ子よ。誰が手放すものですか」
マックスが母の腕の中から顔を上げた。
その顔が真っ赤に変わっていく。
ニコラス叔父さんが、あれっと言って、頭を掻いた。
「刺激が強すぎるよね。君の母上は。彼、かわいそうに」




