99
真っ白な中に、呪いだと刻み込まれた記憶を紐解いてゆく。
厄災の子。
呪いの子。
耳を塞ぎかけた手をとめる。
目の前にないはずの光景が見える。本当になったことも、ならなかったことも。嘘つき呼ばわりされたことも。
――悪いことが起こるところにあの子がいたのよ。ああ何て気味の悪い。我々のこともすっかり忘れて。違うものと取り替えられたんじゃないか。髪の色も全然違う。妙な石も浮いてるし。
呪いは止めるもの。殲滅するもの。私が、私の手で。それが使命。私の存在意義。
――持っていけるなら、ちゃんとお前がかぶれよ! お前のせいで怪我しただろ!
――あんなの、家族ではありません。
――閉じ込めておこう。我らに呪い返しがあっては困る。
――知らないうちに怪我だらけ。ぐったりしているし、何なのよ。わけのわからない幻も見てるわ。
殲滅しなさい、殲滅しよう、殲滅しなきゃ、全部ぜんぶ。それしかないんだ。自分には。
真っ白に漂白されて、最初に沸いた感情。
早く、はやく。でないと壊れてしまう。苦しい。辛い。
守られることも愛されることもない。醜く歪んだ顔だけが、こちらを向いている。
屋根の切れ目から見える星。あれだけは、綺麗に映った。他のものは怖くて酷くて汚くて。
泣いてる。誰かが。
怖いって、助けてって。
(誰?)
水鏡の向こうに、彼女が見える。小さい女の子だ。手を伸ばすと、向こうも伸ばしてきた。
「どうして泣いているの?」
(あなたこそ)
「私?」
水鏡に映り込んだ自分の顔は、泣き腫らしたような顔をしていた。
「ああ、確かに。こんなにぐしゃぐしゃに」
――蝋梅!
「呼んでる」
反射的に水鏡から顔を上げる。辺りを見回して、声のする方を探した。
(私じゃないわ)
水鏡の向こうは、暗い声で否定する。
「私のことよ」
(だって私は、)
――桃花の姿をした厄災が!
「桃花、私の、名前は」
どぷりと水鏡の向こうに引き込まれる。
ぜんぶわすれちゃえば、こわくないわ。なんにもないんだもの。ぜんぶわたしとおなじにしちゃえばいいの。ひかりのなかで、あたたかで、まっしろで。
いきができないくらいさけんだでしょう。なみだがかれるまでないたでしょう。なにもかもくだけちってまっしろになったでしょう。
――蝋梅!
「っは、」
水面に引き上げてもらったみたいに、彼女は慌てて息をする。
「わたしは、」
桃花。
蝋梅。
二つの名が、頭の中で重なって響く。何度も何度も、互いに対抗しあうように。頭を抱えて、反響を抑えようとするが、そんなことでは止まらない。
「蝋梅!」
はっきりと名を呼ばれて、ようやくそれはおさまる。意識がはっきりしてくるにつれ、汗がびっしょりなのに気づいた。それももう冷たくなりつつある。
「殿下、桃花というのは、私の」
絶え絶えの声で尋ねる。
「お前は、蝋梅だ」
念を押すように、忘れてしまわないように、強く望は繰り返す。抱きとめる腕の力も、更に強く。
「でも、桃花でもあるのでしょう」
眉根がぎゅっと寄せられる。それでも彼は、問いかけに答えた。
「……否定はしない。厄災だと、名前を奪われる前のお前の名だ」
身体が冷えてゆく。その前に、冷え切る前に。
「もう一度、行きます」
預けていた体を起こして、蝋梅は足を踏みしめる。そうして険しい表情の望に微笑みかけた。
「殿下、呼んでくださって、ありがとうございます」
「ああ。何度でも呼ぶから」
絞り出すような声だ。それでも彼は止めない。
(わたしの、命綱)
目を細めて、蝋梅は背を向けた。
何度も何度も、蝋梅は潜ってゆく。
潜っては戻り、また挑戦する。時折、力尽きて倒れ込んだ。明らかに疲弊している彼女を撫でる手に、やるせなさがこもる。
「蝋梅」
生存確認のように、声をかける。なんて心許ない命綱か。
神の巫は、神々しく美しい。銀色の瞬きは静かに傅くことを求めてくる。
「あなたには消すべき呪いはない。だからもうあなたに用はない。我が使命の前に、その不確かな感情をおさめよ」
「不確か?」
「あなたと交わると、余計なものが混じる」
そう口にした彼女のほんの僅か、崩れる表情。神の気でも消せぬもの。
「蝋梅」
「私に名はない。使命を完遂する機構。神の巫」
やや被せるように。言い聞かせるように。彼女は告げる。
(ああ、そうか)
望は腑に落ちる。名は無いのだと言い切った、初めて出会った時の彼女。その姿が、記憶の奥から蘇る。
(これは蝋梅があのまま過ごし、望みも願いもすべて消失し、完成した姿だ。それが神の巫)
星守は、本来その姿を求められた。だから塔に隔離され、閉じられた世界で星を見ることだけを、星に縋ることだけを教えられた。公正さを欠く感情など不要。それが神に近しく、愛されるから。
(俺はその契機に使われた。それだけが役割だった)
それでも。
――あの子もまだ愛をよく知らぬ。
(星守さまはここまで見通していたのだろうか。それとも、星に繋がる者として察したのだろうか。どちらにしても、見て見ぬふりをできなかった。理想の星守の後継にだって、できただろうに)
圧倒するような眩さに、屈したりはしない。見惚れるなら、もっと感情を揺さぶるものを知っている。彼女が、自分にもそんな熱情があるのだと知らしめてくれた。止まるものかと、追いかけて抱きしめて。
「愛してる」
はねのける手を、絡めて引き寄せる。何度も何度でも。
「愛してる、蝋梅」
離さない。そう、決めたのだ。
「不確かな存在だけど。受け取ってほしい。名も、愛も」
蝋梅。
そう、口移しするように呼ぶ。喉を伝ってその熱量は彼女の中へ。こくりと、飲み込んだのがわかる。
浮上してくる彼女に、酸素を供給するみたいに深く口づける。息を吹き返すまで何度でも。そうしてくったりと力を失ってゆく身体を強く抱きしめた。膝の上に座らせると、全部明け渡したかのように身体を預けてくる。そこに先程の輝きはない。けれど、眼には小さな星が宿っている。
「でんか、」
か細い声で、彼女は願いを伝える。
「どうか呼んでください。私の名を」
確かなものにするために。
「蝋梅」
腹の底から、声を発する。甘く優しげな声ではなく。しっかりと残るように。
「蝋梅」
はにかむように笑んで、彼女はまた深い海のような意識に身を投じた。
こぽこぽと、泡が割れるような音がする。どこか遠くで。
(波に攫われて、漂白された私。どっちも私だ)
自分の中にもうひとつ、意識が重なる。心なしか幼い声音が。
(私、我儘だわ。家族の無事をお願いしたのに、いざってなったら怖くて。でも、止めてって言ったら助けて貰えない)
だから、叫び声だけあげた。言葉にならない声で。せめてもの発露を。
川で冷やされた西瓜。染めた布で花飾りを作って。一緒に火にあたる大人の人。小さな子とかじかむ手で作る雪だるま。ぶっきらぼうに差し出される、同じ年頃の子の手。蒸したてのちまき。
浮かんでは消える。その人たちの顔は、もやがかかっていて見えなくて、誰なのか関係も名前もわからない。
(何もかも捨てなきゃならなかった。だからだからだから。殲滅しなきゃ。私の願いも未来も全部消した分。わたしのすべてをかけて。かみさまにちかしいものになって)
怖い。
苦しい。それでも、呪いを、止めなきゃ。
与えられる苦しみと、自分で自分に与える苛みが、絡み合って枷となる。
「殿下」
混濁した意識の中で、蝋梅は想う。名も愛も教えてくれた人。
(あったかい、それ)
胸の奥で、幼い声音がそれに触れた。
「待っていてくださる方がいるの。だから私は私でいなきゃ。怖くて、苦しくて。それでも。一緒に受け止めてくださるから」
そっか、ともうひとつの声は心なしか明るい調子になった。
「もう、言っていいんだね」
深い海に揺れている。ここは波が荒くない。ゆったりとしていて、優しい。波に揉まれて力尽きた後を、包み込んで揺蕩わせてくれる。けれどここに光は届かない。柔らかな月の光も、指し示す星の光も。
見つけなきゃ。手を伸ばさなきゃ。逆らわずに泳いでゆく。
怖くても大丈夫。苦しかったら言っていい。だから。
「蝋梅!」
願いが天を無数に走る。願えば願うほど増えてゆく。それは雨のように。水面に流れ落ちてくる。
「こんなにたくさん、あったんだ。私の中に」
雨に洗われて、空はぴかぴかに澄み渡っている。揺れる水面に目を落とすと、桃花もまた空を見上げていた。
「わたし」
鏡越しに目が合う。
「もう、捨てたりしない。手放したりしない。諦めたりしない」
そう告げる声は、示し合わせたみたいに重なった。
すうと息を吸い込む。星の冴えた香りだ。水面を跳ねれば円環が果てなく広がり、願い星へと届く。
「蝋梅」
近くで呼ぶ声がする。蝋梅はうっとりしたように目を細めた。
「殿下」
目を開けると、そこには真昼の空があった。温かく包み込むような、柔らかな天色。空の主は、啄むように口づけた。
そろそろと蝋梅は手を伸ばす。そうしてその肩に腕を回した。きらきらと、ちりちりと。蝋梅は自分を細かな星屑が包んでいるのがわかる。ほんの僅か離れただけの距離の彼にも、それは届いて爆ぜた。
流れ星は、そのほとんどが地表に届くことなく燃え尽きる。けれど。
(私の願い星は)
何度も口づけを降らせてくる。額に、目元に、耳に。ゆっくりと蝋梅を地に縫い止めながら。それに応えるように蝋梅も唇で受け止める。次第に口づけは深く、呼吸は混ざってもうどちらのものかわからなくなっていった。
「殿下、」
口づけの合間に蝋梅は願いを告げる。無意識の産物などではなく。自らの意思で。
「殿下が欲しいです」
「……俺も、蝋梅が欲しい」
惚けたような声音で、彼は受け入れた。その瞳には、星屑を従えた姿が映り込んでいた。