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ふるふると震えている。体が。心が。
そんな自分に、柘榴は驚いた。心なしか呼吸が早い。
(そんなにも、私)
一蹴するはずだったのだ。偽物と。そんなものに拐かされはしないと。なのに。
(目が離せなかった)
気持ちを落ち着かせようと、彼女は息を大きく吸いこむ。そんなことをしていると、小さく扉が叩かれた。柘榴はきゅっと袖を握る。
扉が開いて姿を現したのは、朔だった。
「起きていて平気なのか」
口調が砕けても、体調を一番に気にかけるところは変わらない。
「ええ、少し喉が渇いて」
反射的に袖で顔を翳らせた。王太子は気遣わしげに白湯を注ぐと、愛する人に渡す。そうして先程まで白猫がいた椅子に腰掛けた。
柘榴はひとくち口に含むと、袖の陰で体調の悪さを強調するように、寝台へと戻った。朔はその傍らに付き添って、甘く愛を囁く。
他の娘たちからすれば、何ものにも代えがたい褒美のはず。けれどどんな言葉も柘榴を通り抜けてゆく。
そっと、朔は髪を撫でた。目の端でそれをみやって、彼女は目を伏せる。そのままでは。
(反吐が出る)
そんなふうに睨んでしまいそう。特に今は。
瞼を開けて、紅の眼で強く彼を覗けば、相手はたちまち幸せな夢の中。ばたりと寝台に崩れ落ちた朔に、柘榴は乱暴に布団をかけた。その様子を眺める紅は、冷えた光をたたえている。
(ああ、何て穢らわしい)
ぶるりと身体を震わせて、彼女は立ち上がる。先程とは違う震えだ。それをら抑えるように、腕を抱いた。
(私を抱けるとでも? あなたが見るのは泡沫の夢。手に入りもしないものを、愚かにも手に入ったと思い込んでいればいいわ。親子でそっくり)
王太子に背を向けて、柘榴は椅子にもたれかかる。
(私の奥に触れていいのは、彼だけ。一度たりとて、あなたたちに許したりはしない。このまま縊り殺すことは容易い。けれどそうはしない。呪いに身をやつしたくなるほど深く、絶望に堕としてやるわ。私と同じように)
呪いの焔が身を焼く。
触れたかったのは。
欲しかったのは。
復讐を。復讐を。
その為に今、ここにいる。
偽物風情に、絆されたりしない。
愛しい彼を脳裏に描く。名を呼ぶ声。表情。けれどそれらは擦り切れてかすれてしまっている。それに気づいた時、彼女はぞっとした。
(あんなに大事にしていたのに)
「もしかして、思い出せないのですか」
くっきりと彼を模った姿が、囁く。見透かすように。いつの間にか向かい側に腰掛けていた彼を、柘榴は睨んだ。
「帰ったんじゃなかったの?」
「いてほしかったんじゃありませんか?」
偽の彼は顔を寄せる。
「あなたは、怨讐で身を焼き過ぎた。心を砕きすぎた。それに比べてどうです。憎いはずの星守や王や王子たちの顔は、容易く描けるのでは?」
記憶の中で、彼はそんな表情はしなかった。そんな言葉を紡がなかった。こんなの、違う。違う。じゃあどんなふうに?
思い出したい。そう思えば思うほど、目の前にそれを求めたくなる。
「うるさい!」
柘榴は声を上げた。上げておいて、自分でないようなそれに驚く。向かいで知っているはずの顔が知らない声音でなおも笑う。
「おや、図星のようですね。でも、ご安心を。それなら再現すればよいのです」
すす、と彼は柘榴の椅子の肘掛けに半分腰掛けて、彼女に身を寄せる。
触れられるのを払おうとした。これは偽物。けれどその手を掴まれて、本物はどのようにと囁かれると、動けなくなった。
(どんなふうに?)
記憶を、無意識のうちに手繰る。今まで生きてきた悠久の中のほんのひととき。それを。
聴きたい。見たい。触れたい。
「解釈違いのままではこまるでしょう。どうぞご指導を」
癇癪を起こしたように腕をはねのける。
堕ちた神。人間に恋するなど、あるまじき行為。
(それでも私は、彼を選んだ)
柘榴は顔を覆った。
新月を追う。昼も夜も。
新たな王に即位すべく、準備を進める彼。柘榴と話すのは、体を気遣うことだけ。触れることすらない。
(そんなわけないじゃない。あんなに求めていたのに)
目の前のものが視界に入らなくなるほどに。
百合は頭上の冠に意識を集中させる。
(見せて、本当のあなたを。何をしているか。何をしようとしているか)
気が、遠くなりそうだ。でも、そうしていないと地を這う虫の音だとかじめじめとした湿り気が、暗い気持ちを増長させる。
「百合」
随分と久しぶりのような気がする。慌てて身体を起こすが、声の主の姿は見えなかった。辺りには、兵の姿もない。空耳か、と残念さよりも絶望感が百合を襲う。が。
「内緒で来たの。すぐ出してあげられなくてごめんね」
「水仙」
掠れた声で名を呼ぶ。ひそめるまでもなく、その声は微かだ。
「これ、虫除けの霊符。貼っておくね。奥は自分でやって。あとこれ蒸した布。顔拭いて」
握らされた布は、外は冷めていたけれど中はまだ熱くて。顔を埋めるとそれだけで少しさっぱりした気がした。ほんのり甘い百合の香りがする。つい笑みが溢れた。
それから、と見えない手は髪を撫でる。格子越しに腕を伸ばすと、目の細かな櫛で丁寧に梳った。
「さすがに服まで替えたら訝しまれるだろうから。香り袋だけね」
そう、握らされたのはいつも使っている香をほのかに発する小袋。
いつものように。それはなんて心地のよいものだろう。
いつまでもこのままで。そう願った水仙。それは、あなたといられて私は幸せ。そういうことだ。
「ねえ、水仙。私、あなたの願いちょっとわかった気がする」
水仙は一瞬目を見張って、そうしてほころびかけの蕾のように笑んだ。
気配が去った後、百合は気を取り直す。一言も発さずに、星と王太子とに向き合った。
一日中ずっと見ていると、朧げに何かを感じた。うっすらと、本当に僅かな薄霞のようなものがかかる時がある。
特に柘榴といる時。愛の言葉を交わす時。
(もしかしてこれが、)
重箱の角をつつくみたいに粗探ししてみる。頭が痛い。ぐらぐらする。そんなに未来を長時間しっかり凝視したりしてこなかった。それでも。
(見つけてみせる)
その時。
――ああ、面白そうなことをしてるわねえ。
不意に脳内に声が響いた。年上の、落ち着いた女の声だ。
(誰?)
心の中で返す。辺りには相も変わらず誰もいない。水仙でもない。茉莉花の声でもない。
「そのまま続けて。私も視るの好きよ。そうね、ちょっとだけ私の目を貸してあげる。まったく坊やは奥手なんだから」
百合は体を強ばらせる。
(何?)
「あなたの冠をいじらせてもらうわよ」
冠を、手で掴まれたような感覚が走る。頭を鷲掴みにされたようで、あまり心地の良いものではない。
(あなたは、)
尋ねきる前に、見えないものに口付けられる。口付けられたとわかる。冷たい気が流れ込んできて、体を巡ってゆく。それは冬の星のよく見える澄んだ空の空気のようだった。けれど、百合の中はそれとは逆。頭の中がかき混ぜられるようだ。ぐるぐるする。息苦しい。
恋人のような甘いものではなく、人工呼吸の必死なものでもなく。風船に息を吹き込む。それだけの感情の乗らない口づけに感じた。
どれくらい時間が経っただろう。ようやく唇が離されて、百合は咳き込んだ。
「さあできた。さあ、見抜きなさい。足掻きなさい」
その声に顔を上げると、靄を抜けて目の前にはきりりと澄んだ水鏡が広がっていた。今にも凍りつきそうなほど澄んだ水面。
そこには柘榴を訪れる朔の姿が映り込む。小さな小さな灯りを挟んで言葉を交わして。寝台に朔は腰掛けようとする。
百合は神経を研ぎ澄ます。いつもなら寝台になだれこむところだ。目を背けたくなる光景だ。でも。
(私は見逃さない)
そう覚悟を決める。薄霞の向こう、冴え冴えとした水面に目を凝らす。
映る二人の唇が近づいて。その時、柘榴の瞳が怪しくきらめいた。どさりと朔が寝台に横になる。
「あ、」
百合は思わず声を上げた。
霞の中、愛し合う光景の奥に、拒絶されている真実がある。夢と現。
百合は口元を押さえて声を殺した。身体のわななきが止まらない。
手に入ってなどいなかったのだ。あの呪いに王太子の思いが介在していないように、彼もまた、彼女の道具だったのだ。
(なんてことを)
小さい頃から、慕っていたのを知っている。おまじないをする時の、せつなげな顔も。手に入った時の幸せそうな表情も。
(残酷な)
百合は目を伏せた。