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「こんなところで何するんです?」

 机の上に丸くなった白猫は、隣に積み上げられた書物が自分よりも高くなっていくのを横目で見る。

「珠の書庫から持ってこられた書物は、ここに収められているの。紅玉や紅榴のこと、何か載ってないかなって」

 まとめた表紙こそ晶華のものだが、中は少し違う紙質で、勿論書かれている言語も珠のものだ。さすがにこれは、塔にはない。

「あの物語は、どこにも載ってなかった。畢方の話も柘榴の話も。となると正式な結婚ではなかったのよ。言わば、自称妃」

「確かに、珠の神相手なら残るはず。特別に祝福を得た者として、歓迎されるはずです。それもないとなると、本当に、極秘だったのでしょうね。だから痕跡を残さなかった。いや、残せなかった。その瞬間の愛だけが、真実」

 紅玉は明るく朗らかで、音楽と舞踊を好んだという。妾である身分の低い母から舞踊の手ほどきを受けたこと。王の方針で、分け隔てなく愛されて育ったこと。心優しく、虫も殺さぬ男であったこと。そういった彼の記述は時折あるものの。

「紅榴のことは何も載ってない。祭祀の結果に変調をきたしていた様子はあるわ。けれどそれは晶華の侵攻によるもので。異境の神が入り込んでいた記録もない」

 水仙はその場にうち伏した。

「ああ、もう……」

 側で自分なりに頁をめくっていた金華猫は、ぺしぺしと尻尾で彼女を叩く。

「一人で何かできると思ったんですか。あなたは一介の見習いですよ」

「私には、星読見の才能も破邪の才能も宮殿の常識もない。ここにのうのうといられるのは、何もないから。だから、今のままこのままで、なんて望める」

 潰れた声で、水仙は泣き言を言う。

「少しでも知識を。そう思ってたけど。何にもならなかったんだね」

 尻尾は、いつの間にか動きを止めていた。何か言いたげにその先をもたげるも、すぐに止まる。しかしその迷いもそれまで。ぴくりと耳をそばだてると、体を起こした。

「ちょっとお花摘みに行ってきます」

 突っ伏した顔を僅かに上げて、水仙は白猫をねめつける。

「猫の表現としてはどうかと思うわよ」

 ただならぬ猫は意にも介さず、てってってっと書庫を後にした。

 一匹でも、去ってしまえばあとは一人きり。雪中の冷たさを耐え忍ぶ花は、深々とため息をついた。一人というのは耐えがたいものだ。だれか一人でも温もりが、気配があれば、強がることもできるのに。

 頁をめくる音が、なかなか次を告げない。間に挟まるため息ばかりが増える。

 自分のすることに意味はあるのか。

 自分のすることは正しいことなのか。

 空白は疑いを生む。

(星守だったら?)

 星の映す光景は、玉座に座る朔と、傍らに寄り添う柘榴。そして星守として水鏡に向かう蝋梅の姿。百合の影はどこにも見えない。それ以外の分岐を探せど探せど、大筋は変わらない。

 水仙は顔を覆う。

「こんにちは。あなたが雅客かな」

 完全に不意をつかれて、水仙は椅子から転げ落ちそうになった。

「青連翹……」

 輝かんばかりのイケメンは、にっこりと微笑む。

「ここにいらっしゃるとうかがいましてね。情報交換といきませんか」

 水仙は不躾とはわかりつつも、頭のてっぺんから爪先までひと通り見回す。皺ひとつない衣は、今しがた替えてきたばかりのようだ。疲れは見えるが、病や飢え、酷い暴力にさらされた様子はない。

「情報交換って、そもそもあなた攫われたんじゃ」

「ええ。でもその話は後に。今はそれどころではないでしょう。あなたは百合を助けたい。僕は青家の栄華を取り戻したい。向かう先は一緒でしょう」

 ぐいと顔を寄せて、逢引する男女もかくやという距離で、連翹は囁く。金華猫以来の美声に、水仙は口をへの字に曲げた。それでもさっと防音の霊符を取り出すと、その範囲に連翹を招き入れた。

 連翹は、攫われた先や天公廟で自分の聞いてきたことを端的に語る。

「蝋梅は? 大丈夫なの?」

「僕には仔細はわかりかねますが、殿下の溺愛ぶりは振り切れてますね。あんな方だったのかと驚きましたよ」

「ああそう……」

 それならまあいいか? いいのか? と首を捻る水仙に、連翹は微笑みかけた。

「そしてあなたは手詰まり、と」

「うるさいわね」

 充血した目でねめつけると、美男子は肩をすくめた。そうして傷ひとつない滑らかな指先で、頁をめくる。それすらも絵になる男だ。

「負けた者の歴史は、けして正しく残されません。これは勝者の物語ですから。珠という国は、風雅を好み、文化を尊びました。かの国で産出される宝石は外から人も金も呼び寄せ、サロンにはさまざまな国の芸術家が集まっていたそうです。そしてその維持を可能にするだけの財力もありました。〝しかしそれにのめり込むあまり、小国としての在り方を忘れてしまった。美しい外面だけを評価し、そうでないものは見て見ぬふりをするようになった。〟最後の二文は、晶華から見た記述です。武力でねじ伏せ、それが正当だったという理由づけをするためのもの。ですから、人となりは史記だけではわかりませんよ」

 ぱたりと本を閉じて、連翹は書庫に目をやる。

「たとえば、紅玉王子は、どんなものを貢いでいたのでしょうね。好きな相手に贈り物のひとつふたつするでしょう。押収した帳簿や目録の類に載っているはず」

 手近にないとわかると、彼は青い衣を翻して他の棚に移った。水仙も霊符を手にそれを追う。

「そんなものまであるのね」

 色男は振り返ってウインクしてみせる。

(腹立つくらい顔は抜群にいいわね)

 つい水仙はそんな感想を抱いた。当の本人は、帳簿を手に取るとさっと目を通していく。一冊、二冊と、都度棚に戻しながら止まることなく。

「やはり装飾品の類の取引が多いですね。彼も買い求めていますよ。ある時期から、柘榴石ばかり注文していますね。柘榴石、紅榴石。深い深い赤の石。それで、名を紅榴と。似合いの宝飾品を貢いでいたのでしょうね」

 そんな分析をしていた彼の目が、ある一点で止まる。

「どうしたの」

「珠が滅亡する直前の注文ですよ。完成まで間に合わなかったのですね。商人が晶華に売りつけて、この宮殿内の宝物庫に納められています。これだけ柘榴石ではありませんね」

 該当の頁を、連翹は水仙にも見せる。水仙は息を飲んだ。

「これは」

「これは王族の財産ですからね。あなたでも入れませんよ。どうするんです」

 頭の中がぐるぐる回る。蝋梅がいれば、第二王子に頼めたのに。そんな思考を脇へ押しやる。

「あなたにツテはあるの」

 連翹は今日初めて困ったような表情をみせた。

「あるにはありますが……」

 数刻後、水仙は後宮の別の宮にいた。平身低頭している先の表情は見えない。かろうじて見える爪先は、細やかな刺繍のされた青い靴だった。青を率先して纏うは、青妃放春花。連翹と血縁関係にある彼女こそが、あるにはある彼のツテだった。傍らでは、凌霄花がおろおろした顔で二人を見比べている。

「どんなものを取りに行くっていうのかしらあ」

 ねっとりした声で、青妃は尋ねる。両脇で女官が大ぶりの扇子で風を送っていた。

「指輪です」

 水仙は顔を上げずに返した。

「珠の商人から買い上げた、赤い宝石の指輪です」

 赤い宝石、と頭上の声は低い声色で繰り返す。

「まったく。それが何になるっていうのかしら。あたくしたちの目にも止まらず残ってる指輪なんて、たかが知れているわ。連翹は青家のためと書いてよこしたけれど。あたくし機嫌が悪いのよねえ。例の一件で、凌霄花は正妃の最前列から遠のいてしまうし。迷惑極まりないわ。信頼の回復って、大変なのよぉ。これまでわたくし自身や青家が積み上げてきたものがぜぇんぶ消えてしまうんだもの。肩身が狭いったらありゃしない」

 氷で丁寧に出された茉莉花茶を、放春花は口に含む。それでも落ちないくらい、紅はしっかりと唇に引かれていた。目元を彩る化粧も、目力を増幅させるようにしっかり施されている。その迫力たるや。

「対価が欲しいわよねえ。政治の世界と関わらないとはいえ、一応あなた方の権力はまだ確かなもの。否定するのは加護を失うことだわ。さあ、何を貰えるのかしら」

 水仙はぎゅっと唇を引き結ぶ。個人的な蓄えなどないし、彼女たちのような後ろ盾となる実家もない。渡せるものなど、何も。

「叔母さま、私からもお願いします。お姉さまの命がかかっているのです。ひいては青家の汚名をそそぐことにも。それが何よりの対価ではありませんか」

 横で、少女が両膝をついた。彼女の侍女が慌てて立ち上がらせようとするが、彼女は聞き入れない。

 ふんと青妃は鼻をならした。

「見習いとはいえ、あの塔の者に頭を下げさせるのは気持ちがいいわ。ずっとそうしてなさい。気が向いたら話を聞いてあげなくもないわ」

 そう言い放って、放春花は足音も高らかに部屋を出て行った。後には女官もぞろぞろ続く。残されたのは、百合の妹とその侍女、そして水仙だけとなった。

「申し訳ありません、水仙さま」

 凌霄花はその小さな肩を落とす。

「いいのよ。親友の為に頭を下げてるんだもの。いくらでも下げるわ」

 親友、と少女は反芻する。そうしてきゅっと拳を握った。

「私、お父さまにお願いしてみます」

「いやいや王家しかダメなんでしょう。あなたのお父さまがいくら名家でも、それは難しいわよ」

「それでも、です」

 その視線は、床の僅かな模様を彷徨う。

「正妃候補になった時、私嬉しかったんです。いつもお姉さまからうかがっていたあの王太子殿下にお近づきになれるって。いつもお姉さまの後ろにいた私が、お姉さまと星守と正妃として並び立てるんだって。でも、後で気づいたんです。お姉さまは、候補とか家とか関係なく、殿下をお慕いしてたんです。王太子殿下のお話をされるお姉さまは、とても輝いて見えましたから。それなのに、その場所に私がいる。きっとお姉さまは私のこと――」

 か細い少女は、そこで口をつぐんだ。今にも泣き出しそうな表情で、でもそれをぐっと堪えている。

 水仙は声をかけようとしたが、廊下から聞こえてきた足音にそれを止めた。足音は真っ直ぐ二人の方に向かってくる。しかも大勢。

 扉が開いて、青妃が入ってきた。その後からもう一人、華やかな装いの女性が入ってくる。その衣は、淡い紅色だ。

 王の鶴の一声で、赤は柘榴の色となった。許されたのは、それとわからぬほど淡い色合いのみ。それでもなお纏い続ける彼女こそ。

「赤はあの忌々しい盗蜜者に盗られた色。私は持ち出せないわ。できるとしたら、同じく赤をその家の名に冠する者のみ。赤妃が他界して以来、煮湯を飲まされてきた彼女に助力を仰ぎなさいな。赤蓮亡き後、赤家から代わりとして嫁がされて一度も顧みられることのなかった彼女が」

 青妃よりひと回りほど若い彼女の表情は険しい。それでも美しく、華やかである彼女ですら、侍ることを許されなかったのかと、水仙は瞬きした。

 そうと決めたら、彼女たちの行動は早い。大勢の女官を引き連れて、宝物庫に突撃した。一糸乱れぬ女官に混じって、二人もついていく。警護の兵は、恭しく首を垂れながらも、許可証の提示を求めた。しかし先頭に立つ二人の妃は動じない。

「あらまあ、妃が宝物庫に入ることの何がいけないっていうの? わたくしたちまだ押しも押されぬ妃なの」

「わたくしたち気が滅入ってしまいそう。せめて華やかな装いくらいはしたいものよねえ、赤妃さまぁ?」

「そぉよねぇ、青妃さまぁ。装飾品くらい好きにさせてもらいたいわ」

 圧のせいで、二妃が何倍にも大きく感じる。耐えきれずに、とうとう兵は開錠した。


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