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新王の即位に向けて、宮殿は慌ただしく人が動き回っている。朔自身も歩きながら祭祀の際の衣装の指示を出していた。
が、その行く手を仁王立ちの影が遮る。そんなことをする人間は、そういない。
「王太子殿下、やっとつかまりましたわ」
武装した侍女を左右に従えた蘭だ。ため息を深々とついて、朔は足を止める。
「何だ」
尋ね方も、ついぶっきらぼうになる。
「必要な時にいらっしゃらず、脅威が去ってから、いえ、玉座に文字通り王手をかけてからお姿を現すなんていかがなものでしょう」
「俺に何かあれば、後継者に困るだろう。弟は前線に出てたんだ」
「避難場所が後宮というのはいただけないと思いますわ。陛下のお側の方が兵の守りも堅かったはず。しかもその後はすぐ即位の準備。疑う声が出ても仕方ありませんわ」
朔の左右はさっと顔色を変える。対して朔は表情ひとつ変わらなかった。
「それだけか」
蘭は眉根を寄せた。
「あら嫌ですわ、私のいでたちを見てもそんなことしかおっしゃれないなんて。本当に目でも塞がれていらっしゃいますの? わたくし、後宮に入り浸りの殿下の護衛に参りましたの。むさ苦しい男たちの入れない場所ですから」
「必要ない」
にべもなく返す。苛立ちがどこかから湧き出てくるのを、取り繕いもしない。
「何ですの、その死んだ魚のような目は! あなたはもっとマシな顔をなさっていたはずですわ。もっと猫をかぶるのもお上手だったでしょう」
「黙れ! これが本当の俺だ! これまでとは違う!」
蘭は腕組みして考え込んだ。品定めするようにつぶさに朔を観察している。それがまた、朔の癪に障る。
「なるほど、客観性がまるでありませんわね。何かに取り憑かれているようですわ」
ぎくりと、心の奥底がざわつきだす。
(何だ、心当たりなんて……)
「健全な精神は健全な肉体に宿ります。演習場に参りましょう。少し身体を動かしてはいかがです」
蘭は有無を言わさず手を取る。しかし朔は動かなかった。
「そんなことより、他の家のように妃の椅子とり合戦に行ってきた方がいいんじゃないか? なりたいんだろう、正妃に」
口を開けば正妃正妃。花園に大量に咲く花の一輪でしかないのに。蘭は不躾にも王太子をひときわ強く睨んだ。
「今のあなたの妃の椅子に、価値があるとは思えません」
「何だと?」
返事と同時に、足が僅かに浮く。足を払われたのだとわかったのは、不恰好に尻餅をついてからだった。彼女が手を握っていなければ、もっと無様なことになっていただろう。
「あなたは自分の身体さえ自分で支えられておりませぬ。そのような人間に、晶華が背負えますか? 何に取り憑かれていらっしゃるのですか」
彼女は。星の加護もない、ただの娘。家柄がいいだけの。自分の何が見抜けるというのか。そう思うと、朔は苛立った。
「これは俺の意思だ。誰のものでもない」
支えられている手を払って立ち上がる。ぐらりと体が傾いだ気がするが、両足で踏ん張った。
頭の中は、即位の儀式のことでいっぱい。他に考えている余裕はない。声もかけず歩き出したが、蘭はそれ以上追いかけてはこなかった。
止まることはない。追いかけてほしいなどとは思っていないのだから。
「柘榴、具合はどうだ」
仕事の合間に、朔は顔を出す。すると寝台からぎこちなく起き上がる彼女が見えた。それでも笑顔は崩さない。
「心配かけてごめんなさい。でもまたいつものように、元気になるわ」
白い彼女の顔に、朔は唇をかんだ。
「今回は特別長いだろう」
柔らかな髪が左右に揺れる。
「大丈夫。必ずあなたが即位する日は立ち会うわ」
「ああ」
そっと触れようとする指を、彼女は手で制す。
「万が一にも、御身にうつるものであってはなりませんから」
体調を崩しやすいのは昔から。それでもここのところの弱り方は目に余る。食事もほとんど摂らず、女官もなるべく近づけないようにしている徹底ぶり。
「もしかして、この間の呪いの鱗粉のせいか……?」
そう口にすると、柘榴は袖で顔を隠した。
「星守見習いめ。どこまで引っ掻き回せば気が済むのか……」
「殿下、早急に次の星守を立てては。私だけでなく他の者も不安を募らせているはず。呪いはそういった隙をついてくると聞くわ」
袖を少しだけずらして、甘い声が耳元で囁く。視界が僅かに濁るのは疲れからか。
「連れてくるのです。破邪の星を。星神も彼女なら納得するはずです。我々を赦してくださるかも」
とろりとろり。溶けるように、言葉が染み込んでくる。
「あれは第二王子妃だ」
そう返す声に生気はない。
「まだ正式にはなっていないでしょう。人心を安んずるためと言えば、第二王子もわかってくれるはず」
それもそうだな。そう返す声は音になったかどうか。
「新たな塔は堅牢なものにしましょう。誰からも害されないように。邪なものが入り込めないように。彼女を守らないと」
ざらざらと、監獄のような堅固な石造りの建物が脳内に描かれる。嵌め込まれた小さな窓の奥に見えるは、暗い顔の蝋梅。
「使いを送りましょう。けれど、新たな星守になられる方。最大限の礼をもって迎えなければ。白将軍などいかがでしょう」
そうだな。それがいい。
足が自然と動く。名残惜しさなど微塵も感じられない様子で、彼は柘榴の部屋を後にした。
寝台の奥で、紅が嗤った。