94
(何で私、星冠があるんだろう)
幾度となく、浮かんでは消えた問い。塔の誰しもが持ちえた問い。誰か答えは出せたのだろうか。
星冠がなければ、どうなっていただろう。きらびやかに着飾って、後宮の椅子取りに参戦していたのだろうか。
(こんな牢に繋がれることなんか、なかったのかな)
呪いの苦しさはない。けれど、かさかさと這いずる虫やじめじめした土の匂いが、たまらなく自分を責め立てる。
(だって、こんなことなかったもの)
申し訳程度に敷かれたござのようなものは、硬くて痛くて何の慰めにもならない。静かだから、兵たちの噂話がやけによく聞こえた。
(生贄。私が。死ぬんだ)
恐怖を。一緒に耐えてくれる人はいない。涙をぬぐってくれる人はいない。
仕方ないのだ。それだけのことをした。
晶華の要を壊した、大罪人。
兵は口にするのも恐ろしいと、言葉にはしない。けれどここにつれて来られるまでの宮殿の人々の視線が、口にせずとも物語っていた。
打ち伏しながら、ぼんやりと遠くを見やる。灯りは少なくて。でも、自らの頭上に光源があった。本当なら、希望の光になるはずのもの。
百合は星冠に意識を集める。
ずっと見てきた。片時も忘れたことはなかった。
(王太子殿下)
千々に乱れた心を、宥めすかす。もうあの方を見る意味はない。けれど。
ずっとあなたを見ていた。ずっとあなたを見てきた。たぶんすぐには忘れられない。
あれこれ立場を変えられて、それでもそこに北極星のようにいつも目指す先であってくれた。そんな存在だったから追いかけ続けた。
(もう本当に、見る必要はない?)
牡丹の姿が、眼裏に滲む。
恋心の曇った遠眼鏡ではない。
(あなたが何をしようとしているのか)
今までと同じように、孝行息子のふりをして。音楽を嗜み、花を愛でる。そんな未来を見せられる。
(違う)
百合はそう強く確信する。
あの呪いの思念に、朔のものはなかった。朔の意思はそこにない。知らぬうちにただ運ばされただけ。そんなことができるのは。
(心を許した相手だけだ)
幾重にも丁寧に慎重に。けれど、娘たちには逢瀬を重ねない。そんな人にかけられる相手。
王太子は、愛おしそうな笑みを浮かべる。同じ頃の娘たちにではない。もちろん、家臣でも女官でもない。義理の母たる柘榴へ。そうしてその眼差しは、同じように返される。
(こんな綺麗な未来がある? 傀儡のはずのあなたに。大事に愛し愛される)
彼は確かにきていた。けれどそれは自分の意思ではなく、傀儡となって。都合の良い傀儡が、そう簡単に手離されるはずがない。
(本当のあなたを、私は見抜けなかった。偽りの愛を、私は見抜けなかった。あなたを助けたいとか、そんな気持ちじゃない。私は私のために。今度こそ、私は見抜く)
生贄にされるなら、その前に。
体をゆっくりと起こす。少しだけ壁に手をかけて。天へと想いを馳せる。
そうして少し先の、あの背中を追う。呪いに魅入られた新月を。
昼間の新月は、王に代わり星守補佐と相対していた。どちらも代役が、しかも日々の祭祀の場で会うなど、滅多にない。しかし。
菊花は目を伏せる。
「次の星守はいつ発表に?」
くる日もくる日も、王太子はそれを尋ねてくる。
「お待ちください。儀礼には手順というものがございます。それに牡丹はまだ生きて」
「粉々の星冠で何ができるのです? 前代未聞ではありますが、もう星守としての資格などありますまい。それに、いつまでも代理でというわけにもいきません」
紅榴との衝突で、彼女の鉱石は粉微塵になった。意識もまだ戻らない。菊花の表情は、もう何日も険しいままだ。
しかし、王太子は淡々と先の話を続ける。
「星守とともに、王も代替わりが行われる。順当にいけば王太子であるこの私だ。弟はあろうことか宮殿を空けている。貴族たちも異存はないそうだ」
(塔の異変には籠ってでてこなかったくせに、よく言う。だいたい、百合をあんなふうにした元凶のくせに)
菊花は心の中でそう毒づく。そんな彼女の心など知ってか知らずか、朔は一人の名を口にした。途端に星守補佐の片眉が跳ね上がる。
「正妃としてこの方を占ってほしいのです」
「この方は先の王妃。あなたの妃にはなり得ません」
思わず声も厳しいものになる。しかし朔はどこ吹く風。
「吉か、凶か。塔が下すのはそれのみでしょう。こちらの問題はこちらで何とかします」
「道を正すのは王の役目でもあります」
「あなたの意見は聞いていませんよ、星守補佐。そもそも、あのような事態を引き起こしてなお職を解かずにいるのは、星守がその身を挺して呪いを食い止めたのと、あなたがたのこれまでの実績あってのこと。本来であればあなたも責任をとるべきでしょう」
その瞳には、何の感情も浮かんでいない。怒りも侮蔑も何ひとつ。こちらが感情を燃やしているのとは正反対だ。
「陛下は何と?」
「お伺いを立てる必要などありますか。星で決まったことに。そういう決まりでしょう」
「都合の良い時だけ利用するものではありません」
ぴしゃりと言い放つも、暖簾に腕押し。まるで結果は決まっているかのような余裕すら感じられた。
(書き換えられているとしたら、そうだろうな。牡丹すら見抜けていなかったものを、私ができるはずがない)
肩を落として、ひとり静々と退出してゆく。
これまでは二人だったのが、今は一人だ。次に増える時は、新たな星守と補佐だろう。菊花は拳を握った。
冷宮の中でも奥に用意された彼女の部屋は、引越し作業の中でも静かだった。付き添っていた見習いが、そそと席を用意する。
「医師の見立てでは、弱々しく回復の兆しが見られないと」
報告に、そうか、と小さく返す。
星冠は、その主が亡くなれば砂と化して宇宙へと還る。そう聞いていたし、見てもいた。
けれど、星冠だけ先に無くなるというのは前例がない。そもそも占い以外にこれほど力を使った記録がない。
争いとは無縁の、外界と離れた場所。そのはずだった。
「しばらく見ていよう。食事でも済ませてくるとよい」
そう告げると、彼女はすぐに退席していった。
もう太陽は天頂に達している。菊花は、寝台に寝かされた戦友の顔を見つめた。
苛烈な戦いを忘れたかのような、静かな寝顔だ。呼吸があまりにも小さくて。菊花は耳をすませた。
「こんな形で、休ませたくはなかったな」
ぼろぼろと石から砂になって風に流れていく冠。くずおれる牡丹。それを思い出すたび、腑が煮えくりかえる。
(何のための補佐か)
大事な星守ひとり支えられなくて。一人で覚悟を決めさせて。戦わせた。
(それにしても、牡丹はあんなに相手に煽るようなことをいう人間ではない。何か仕掛けたのだろうが、一体何を?)
――私の星は、見上げれば常にそなたと共にある。
彼女の言葉を、噛み締めるように思い起こす。
彼女の後見たる星。それは常に天頂にある北極星。
視界に帳を下ろして、星を思う。星冠に意識を集めれば、星図が辺りに広がった。
星がいかに巡ろうと、そこにある輝き。菊花はそれを辿る。
するとほんの微かに、宮殿の奥の方でそれは感じられた。自分が手に握る星の欠片と同じ波長を、微弱ながらも発している。繊細に探らないと、知っていてなお目を凝らして探さないと見つからない六等星のように。
その先を覗き見て、菊花は息をのんだ。宮殿も奥の奥。王の喉元でもある寵姫の宮から、それは発されていた。
名を口にしそうになるのを、袖で止める。気取られてはならない。ひと巡りしてそれが確かなのを確認すると、菊花は素早く退いた。
檀もまた人形だったのか、はたまた彼女が檀だったのか。それは今わからない。けれど。
(こんなところにいたのか。本体め)