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その場所まで連れて来られて、水仙は口をへの字に曲げた。
広い宮殿の中でもほんの片隅の、更に地下。あまり使われることのない形ばかりの牢は、手入れが行き届いているとはお世辞にも言えないほどぼろぼろだった。
鬱々と、そしてひんやりとした土壁を、塀が先導する。灯りもほとんどついておらず、時折虫が這ってゆく。
今までいた環境とは、月とスッポンだ。牢の中でも最奥が、今回の目的地。
兵が牢の前で足を止めると、脇へどく。代わりに茉莉花が進み出た。水仙もそれに続く。
霊符の貼られた目の荒い格子の向こうに、灯りすらない部屋がひとつ。兵の持つ灯りで、奥の方に何かいるのがようやくわかった。
「百合、調子はどうだ」
声をかけると、衣擦れの音をさせて人影が扉に近づいてきた。開けることすら許されぬから、格子越しに顔を見せる。
「茉莉花さま、水仙」
場違いなほど儚げな、泣き腫らした顔の少女は、か細い声で来訪者を呼んだ。
捕らえられた時の姿のまま。長い髪を梳かすことも許されないのか、あちこち絡んでいる。それでも、彼女の美しさは消せない。
「体内の呪いの状況の確認だ。手を伸ばせ」
白く細い腕が、格子の隙間から伸ばされる。それを、茉莉花は掴んだ。星冠を輝かせて、呪いを探る。やがて、もうないようだなと手を離した。
「星守さまは……」
百合の声は尻すぼみに小さくなる。
「まだ目覚めぬ。急に力を使いすぎたんだ。じきに目を覚ます」
「はい」
豊かな睫毛が、憂いを帯びたように伏せられる。水仙は、しゃがんで彼女の目の高さに合わせた。
「どうしたの? ここじゃ気が滅入るのもわかるけどさ」
そうじゃないの、と栗色の髪の少女はゆっくりかぶりを振る。
「私は、生贄となるのですか」
「誰が言ったの、そんなこと」
水仙の顔から、血の気が引く。
「見回りの兵が話しているのが聞こえました。無理もありません。星守さまを傷つけ、塔も壊滅……青家も庇い切れないと。そう、聞きました」
今にも消え入りそうな声だ。
「決定事項ではない。そのようなことは我々も聞かされていないからな」
努めて平静に、茉莉花は告げた。
「そなたは呪いに飲まれぬよう、心を平静に保つのだ。それも修行のうちだろう?」
「はい」
「泣いている暇はないぞ」
「はい」
返す声が震えている。
水仙はぎゅっと袖を握った。それでも彼女をここから解放するすべはない。
(あんな大見得を切っておいて)
不甲斐なさに、頭に血が昇る。
間借りしている後宮の一角まで、二人は歩いて戻る。
新王の即位に向けて、後宮の中は忙しなく女官がかけずり回っていた。王が変われば、それぞれの宮の主人も変わる。
そんな忙しさの中でも、塔の者は好奇の目に晒された。ひそひそと、作業の合間に柱の影で噂しあう女官たち。
「気にしている場合じゃない。戻ったらまだ片付けの続きだ。使っていなかった建物だ。あちこち傷んでいるだろうからな」
冷宮として用意されたその宮は、今の王の代に押し込められた者はいない。王がみだりに妃以外に手を出したり、妃に取り立てたりしなかったのもあるし、そもそも柘榴以外に興味を示さなかったのもある。
水仙が戸を開けると、ぎしぎし軋んだ。まだ埃っぽさの残る匂いに、あちこち窓を開けて回る。
「塔の状況はまだ見に行けませんかね」
茉莉花は深々とため息をついた。
「わからないね。補佐が祓ったとはいえ、後宮に呪いにたんまり浸かったものを持ち込むのは嫌がられるだろう。雨が降る前に書物の類を回収したいが……ひとまずこの後、結界を張りに行くことになっている。霊符の準備ができ次第行くよ」
「やることは山積みってわけですね。早く檀を捕まえて、突き出したいのに」
あの後、衝撃波の跡に檀の姿はなくて。将軍も兵も、誰も彼女の姿を見た者はいなかった。
知っているのは塔の関係者と第二王子。けれど第二王子は蝋梅と近すぎる。公正な証人にはなりづらい。だから百合が犯人だと拘束された。
相変わらず檀の居場所も、生死もわからない。
「でも、生きてる気がするんです。だって、あんなに強い執念だったんですから。星守さまだけで終われるはずがない」
「私も同意見よ。あの後すぐ調べたけれど、呪いの痕跡は百合のものしか残されていなかった。未来にもその姿は見えない。あまりにも綺麗すぎる。ただ今我々が動くのはいらぬ疑いを生む」
「それじゃ、蝋梅に頼るしかないじゃないですか」
水仙は声を荒げる。
「そうだよ。だから逃した」
「でも……」
水仙にも聞こえていた。早く何とかしてと蝋梅に願う声が。
いや、願うなんて生やさしいものではない。叫んで、そして役目を押し付けていた。
しかしあの場にいたのは、塔の見習いや星告たちだ。
(本当は。立ち向かうべきなのに)
水仙は唇を噛む。それは自分も同じ。何もできなかった。
俯く彼女に、茉莉花は静かに告げた。
「あの時、殿下が余計なことをしなければ、檀を止められていたかもしれない」
ぱっと、俯いていた顔を上げる。思わず相手の袖を引いた。不敬とか、そういうことはどこかに飛んでいく。
「あのまま、蝋梅じゃなくなっても良かったっておっしゃるんですか!」
鼻がつんとする。必死で引き戻そうとした望や、それに縋り付くようにしていた蝋梅の姿が、今も鮮明に思い出せる。
呪いを殲滅しようとした姿も。あれは。
(あれは、蝋梅じゃない。ずっと一緒に過ごしてきた、それを呪いと一緒に壊してしまう。それが蝋梅にとって幸せなはずがない)
「それが最善だった。最高である必要はない。それが星守の選択だ。王子との色恋は関係ない。晶華が維持できるかどうか。それが第一」
「そんなの、そんなの」
おかしい。間違ってる。
そんな単語を、水仙は飲みこむ。星守とは。この国を導く者。星神の巫。
「星守は、その選択を迫られる。牡丹の敗因は、それができなかったこと。かつての選択を後悔し、引きずった。百合を、切り捨てられなかった」
水仙は口元を覆った。かたかたと、肩が小刻みに震える。
「水仙、百合のことは諦めなさい。呪いに堕ちた彼女は、もう星守にはなれない。星冠がある以上、外には出されないだろうけど。やり直しなんてきかないんだよ」
茉莉花は持ってきた木の箱から、霊符を何枚か取り出す。すべきことはたくさんあるのだ。
「茉莉花さまがおっしゃること、わかります。でも、そんな選択肢、私には選べません」
蓋をする背に、水仙は返した。
「個人の選択の話ではないよ。星守として何が最適か、だ」
窓の外を、茉莉花は見やる。水仙もそれに続いた。冷宮だけあって、あまり陽が入ってこない。空も見えづらい。
「塔は、壊れて良かったのかもしれない。もう一度、構築しなおすべきだ。もっと高尚に、厳格に」
「本気でそれおっしゃってます?」
「本気だとも。そうでないから、塔は崩れた。これまで牡丹をもてはやしていた輩が、こぞって手のひらを返してくる。甘い考えではいられないよ」
茉莉花は霊符を懐に入れると、足早に部屋を出る。
わかる。わかるのだ。牡丹という星守を失った後、精神的支柱として彼女が求められていることも、規範とならねばならないことも。
水仙はその後ろ姿を見送った。
空が遠い。
声をかけに行こうにも、いつも一緒にいた二人はここにいない。星守も、星守補佐も。
「私、ずっとみんなと一緒にいたかっただけなんだけどな」
金華猫も銀華も、最近あたりを賑わせていた存在もない。
星冠が発現した後。勝手に見えるあるはずのない光景に悩まされた。それは他の人間にはない悩みで、でも、この塔にやってきた者にとっては当たり前の悩み。制御できるまでの苦悩は並大抵ではないし、それを共有してきたからこそ生まれる連帯感がある。それなのに。
「だあれもいなくなっちゃったよ」
するりと、目から何か溢れ落ちてゆく。水仙は慌ててそれを拭った。
(牡丹さまは、やり直せるっておっしゃった。百合だけじゃない。私だって、あの場で何もできなかった私だって、やり直せる)
水仙はかけだした。