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望から離れて、蝋梅はひとり舞う。暗闇の中、塵ひとつきらめきを見せない。まだ、何も。
(それでも殿下は、私に強制しない)
神の器、巫として、殲滅することを。それが一番正しく、近道だったとしても。
「まだ状況がわかっていないのか」
玄き神は、いつもそこに在る。
「一緒に生きると言ってくださった殿下との、約束ですから」
舞を止めずに、蝋梅は返す。
「それに私は、呪いを殲滅したいんじゃない。大事な人を守りたいのです」
自分の中の迷いやしがらみを振り払うように、強く水袖を振る。
「そなたは変わらぬな。最初に会った時も、そなたは家族を助けてくれと願った。そして、喉を掻きむしりながらも、涙を枯らしながらも、私を恨まなかった」
伸びる水袖を、青年神は掴む。ぐいと引かれたそちらへ、蝋梅は一歩二歩と近づいた。
「なぜ、恨まねばならないのです」
玄い瞳が、遥か彼方の宇宙のように深く、飲み込んでくる。それを見上げながら、蝋梅は告げた。
「あなたは私に可能性を与えてくださった」
玄から地続きの、夜明け前の瞳。明けていく空の眼で、星を見る。
「可能性?」
「大切なものや、未来を守れる可能性です。私ひとりでは、持ちえませんでした。あなたさまだったから」
「他の神でも同じだったかもしれない。私はただ、破邪の適性があったから来ただけのこと」
もう一歩、蝋梅は踏み出す。水袖が弛むくらい近くへ。
「現に今ここにいらっしゃるのはあなたさまだけです。強い言葉を使いながらも、神の器になる選択は、私に預けてくださっている」
「そんなに大事なことか?」
「あの呪いに触れて思ったのです。あの内に渦巻いている想いの強さに。あれに対抗するには、神秘だけではなくてそれ相応の信念でなければ。正しいとか間違っているとか、そういう答えではなくて、生命としてどちらが生き残るか。そのためにはやはり、私の意思で対峙しないといけないと思うのです。だからその選択肢は、可能性のかたまりです」
星の神の一柱は、じっと目の前の人間を見つめる。自らの巫として仕立て上げた人間を。けれどそこに、見下すような断絶はない。
はらりと、彼の指から水袖が離れる。ゆっくりと、こわれものでも触るかのようにそっと、彼は布ごしに蝋梅の指に触れる。
「そなたは私の作ろうとした星と、違う瞬きをする。吹けば消えてしまいそうなのに、内に青白い光をたたえている。あの男に触れて、その光が磨かれて。別の星のように育った。一等星のように眩い星。私にはそれが、もどかしく羨ましい。神にはできぬ。これは、私情、だと思う」
「北斗星君さま」
北斗星君は一歩歩み寄ると、蝋梅の手を自身の胸元までもたげた。袖の上から手の甲に、指で北斗七星の形をなぞる。すると、そのあたりがちりちりと熱を帯びた。
「私の名を呼べ、蝋梅。他の星神ではなく、私を」
「はい」
「さすれば私が、力を貸そう。共存の可能性を見せてみよ」
淡々としてきた声に、感情が宿る。夜が僅かに星灯りを見せる。蝋梅は強く頷いた。
石畳の舞台で、光が舞っている。冷水で顔を洗って戻ってくれば、夜空の下、それだけが眩く目を引いた。
回廊にも廟にも灯りは焚かれているし、空には星も月も出ているのに。強く、心惹かれる。
何て美しい、星。
「剣を持ちな」
不意に、横から木剣が差し出された。長庚がにっかりと笑ってそこにいる。身体は半透明なままだが、自分用の木剣もしっかり握っていた。
「特別なはからいでな。久しぶりに稽古つけてやるよ」
石畳の広場の端の方で、望は構える。掛け声と共に両者は踏み出し、打ち合う音が響いた。
はじめはやや固さのあった動きも、激しい打ち合いを重ねるうち、そちらに集中していった。それくらい、相手は鋭い攻撃を繰り出してくる。鋭いだけではない。重い。びりびりと手にその衝撃が伝わってきた。
「いい加減、出てきたらいかがですか。北斗星君さま」
一度間合いを置いて、望は話しかける。が。
「動いてねえと頭も固まっちまうだろ。それだけだ」
すぐさま相手は踏み込んできた。
「バレバレですってば。それくらい、わかります。叔父上ならもっと大振りするでしょう」
「あー……本当に最初は俺だったんだぜ。でもこの神さまが出てきちまってわぷっ」
余計なことを言うなとばかりに、主導権が、姿が入れ替わる。
「そなたのせいで、あれは神の器になろうとせん。そなたから諦めよ。父を、兄を救えと懇願せよ。さすれば望みは叶う。救国の英雄にもなれる。かわりの妃など、いくらでも用意できよう。しかし我が巫に適合できたのはただひとり。彼女しかこの事態を打破できん」
「代わりがいないのは、こちらも同じです!」
望は渾身の力で剣を弾き返す。
「俺は蝋梅を支配したいわけでも、所有物にしたいわけでもありません。共に歩んでゆくのです。神であってもそれは譲れない! 救国の英雄? そんな称号よりも蝋梅が欲しいのです」
相手が神であろうと、望は手を緩めない。それを受ける玄い瞳も、これまでにないくらい強い光が宿っていた。剥き出しの感情が、剣に乗る。
「そなたは知らぬ。あれがどれほど生きることを諦めていたのかを。縋りたくても甘えたくても、それを言える相手がいなかったことを。そして、そうなった原因の力を借りねば、そなたを救えぬことを」
「蝋梅は、あなたを原因だとは思っていないと思いますよ。親兄弟どころか、あなたはあの村を生きながらえさせた。あの年、あの村の周辺は疫病が蔓延して、記録的な死者が出た。星守さまの指示で中央から医師が派遣され、薬や食べ物を送っている記録がある。でもあの村だけは、奇跡的に被害が少なかった。それは彼女がそれを請け負ったからだ。けど、あなたの力が無ければそれすらできなかった。それのわからない彼女ではない」
剣撃が僅かに鈍るのを、望は見逃さない。
「しかし意外ですね、それも織り込み済みかと思っていましたよ。それともあなたはもしかして、ずっと罪悪感を」
「必要な犠牲だ」
北斗星君は言葉を遮った。
「だが、それに見合う対価があれには与えられねばならん。それだけのこと」
今度は青年神の方から、間合いを空ける。剣先は次第に下がっていった。望もそれに合わせる。
「……今のあれはそなたのことばかり。だが、ゆめゆめ忘れるな。あれがそなたを見限れば、すぐにでも取り戻しに来る。使命が終わろうともな」
肩で息をしながら、望は玄き神を見つめる。息ひとつ乱れず、汗もかいていない相手を。
玄の瞳は、既に石畳の中央に向けられている。光の舞手に。
その眼差しを、望は知っている。鼓動が、大きくなる。思考回路が、熱暴走するのではと思うくらい回った。
「僭越ながら申し上げますが。北斗星君さまは、蝋梅のことを我が子のように思ってくださっているのですね」
「子?」
不思議そうに玄の瞳は反芻する。
「はい。自らの加護を授け、生み出された星冠。それは血を分けた娘のようなもの。親は子の一挙一動に一喜一憂し、そうしてその行く末を案じ、願うものと聞いています。北斗星君さまの蝋梅を見守るお心持ちも、そのようにお見受けします」
神と人の間には、本来ないもの。それでも望はきっぱりと言いきる。あまりにも当然であるかの如く。それゆえに目の前の神は考えるように口元に手を当てた。
「あまり例のないことであるゆえ思い至らなかったが……子、か」
神は、煌めく星を玄の天に映す。新たに知った概念が、いや、知ってはいたが適用されるものだとは思いもよらなかった関係性が、自らの感情に馴染むものかどうか、思案しながら。
恭しく礼をして、第二王子は続けた。
「私はあなたさまの娘を必ずや支え、その幸福のために在りましょう。どうか私にもお力添えを」
長らく。長らく宙は、生まれて間もない星を見ていた。それは人間にとっては長くとも、彼にとってはほんの一瞬のことであったろう。
「蝋梅を、頼んだ」
手にしていた剣がちかりと輝いて、望は目を落とす。その姿は、最初に渡されたはずの木剣ではなく。
細かな装飾の施されたそれには、見覚えがある。廟に奉納され、奥にしまわれていた宝剣だ。一度も、鞘を払うことすらしてこなかったもの。この場所の霊気を溜めに溜め込んだもの。
礼をして、望は蝋梅へと近づく。一連の舞を終えた彼女に、そっと手を差し出した。
「殿下」
彼女の額からは汗が流れ落ち、息は上がっている。けれど前のような焦燥はみられない。
手を取って引き寄せると、彼女はそれに身を委ねた。
「一緒に、超えよう」
「はい」
蝋梅は微笑んだ。