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その間にも、菊花は禁呪符を星守に施していた。星守ごと呪いを捕らえ、封じようとしたが、即座に弾かれる。
「牡丹、気を確かにもて!」
禁呪符を手に、菊花は直接牡丹の身体に叩きつける。奥へ埋め込みでもするかのように。燃えかすを掴んで離さないその手を、牡丹はゆっくりと剥がした。
「よい、菊花。こうなることはわかっておった」
え、と菊花は短く声を上げる。
「少し前からの、見えんかったのじゃ。未来が」
星守補佐は声を失う。
「確定した死が近づくと、自分の死後の未来が見えなくなるというあれじゃろうな」
愕然。そんな目の前の顔を、牡丹は柔らかな眼差しで見つめた。
「馬鹿を言うな!」
星守補佐は、手元にある霊符をまとめてねじ込んだ。喉が潰れんばかりに、何度も何度も唱える。しかしその甲斐もなく、光の柱は呪いに飲まれて痩せ細ってゆく。
ぎゃあぎゃあと耳をつんざかんばかりの恨み声が、感覚を鈍らせる。
それでも。
伝えねばと牡丹は一つの名を呼んだ。
びくりと体を震わせて、名の主は友に支えられながら一歩、また一歩と牡丹に近づく。その顔は、皆が見惚れた美貌が勿体無いくらいに、ぐしゃぐしゃになっていた。
「涙を拭け、百合。ひとつ、聞いてほしい我儘があるのじゃ」
百合は、茉莉花が止めるのも聞かずに牡丹に縋る。
「そなたは神ではない。欲があり、希望があり、成長がある。だからやり直せるのじゃ。何度でも。私にはできなかったことじゃ」
「私が、私が受けるべきものなのに…!」
「あとは年長者に任せておくのじゃ」
茉莉花と水仙が、百合を引き剥がす。
「菊花、後のことは任せたぞ。私の星は、見上げれば常にそなたと共にある」
星守はもう自由のきかない体で、できうる限り深呼吸する。ちかちかぱちぱち、目の前で火花が散った。頭の中が、頭上の冠が、未来を見届けてきた眼が、焼き切れそうだ。それでも。
「我が命を尽くして、乞い願う! 星よ、我が元で廻れ! 晶華を蝕む邪悪に、その光を刻み込め!」
「まだ、まだ終わりはしない。王と王子、全ての元凶を絶望に堕とすまでは……!」
閃光が、轟音が、衝撃波が、辺りに広がった。
ざわざわと、客席が騒がしい。
それはそうだ。あれほどまでに手に汗握る場面を見せられたのだから。あのような画は、なかなか観られるものではない。しばしの幕間に、感想を言い合いたくもなる。
「ときに北斗星君」
後ろの席から声をかけられて、北斗星君は意識だけそちらへ向けた。
「そなた人間に入れ込みすぎではないか。異境の神が獲らえたものをわざわざ取り返すなど」
「あれは舞の褒美だ。我が巫のおかげで、我らへの祈りは増している」
淡々と、玄い青年は返す。それ以外に何も意図などないと。
「そうさね。それに加えてこの一件。これまでにないほど我らに祈りが向けられている。生きたい、死にたくない、苦しい、助けて……。まっこと小さきものよの」
おお、そうよの。更に隣が会話に乱入する。
「それを導くのは容易ではあるまいの。しかし、舞台も終幕。そろそろあの堕ちた者には退場してもらわねばなりませんわ。あまり遊びすぎると、他の神に盗られますもの」
「神の器の活躍、楽しみにしておるぞ」
言いたいだけ言って、彼らはまた別の者と会話に花を咲かせる。
青年神は密かに息を吐いた。客席に、いつまでも用はない。
立ちあがろうとすると、隣で笑う声がした。愛らしい少年の姿に、北斗星君は眼差しだけ向ける。
「もう戻るの? よっぽど彼女が心配なんだねぇ」
憐憫の目を向けられているのだとわかって、北斗星君は不快そうに睨んだ。
「違う。目的の遂行のために、早く完全に我が巫となるよう告げるだけだ」
「うんうん。そうしたら誰からも傷つけられずにきみの手で護れるもんねえ。わざわざ苦難の道を選ぶ必要なんてない。どうしてそれがわからないのかって思うよねえ。僕らとは、感覚が違うんだなあ」
椅子にふんぞり返って、彼は足をぶらつかせる。そうして口元を三日月にした。
「ま、ちゃあんと眷属はしつけておいでよ、北斗。仕損じるなんてことのないようにさあ。あれだけあの女も主役面してるんだ。僕たちが出張っても、文句言えないっしょ」
北斗星君の脳裏に、さっと少女の姿がよぎる。
無理やり舞台に引き上げた彼女。風前の灯火のようだった彼女が、今やどうだ。そうさせたのは神でも何でもない一人の青年だというのは口惜しいが。
「無駄話をしている暇はない」
にべもなく返してその場を後にすると、少年は口を尖らせた。