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「蝋梅、顔が真っ青よ。剣をしまったら?」
百合の背をさすりながら、水仙は勧める。蝶は舞い上がり、呼吸も楽になった。しかし蝋梅の表情は険しい。
「違う、呪いは浄化できたわけじゃない。主導権は百合にあったわけじゃなかったんだ。その更に奥……」
「なんですって?」
蝶は霧散することなく、明確に一箇所に群がってゆく。それはむしろ、光を求める蛾のよう。その羽ばたきのひとつひとつが、短な呪詛を吐いていた。
消えてしまえ許さない返せ潰れろお前がいなければ。
「気味の悪い」
金華猫は吐き捨てる。蝶は竜巻のようにうねりながら、一点を目指す。
「どこへ向かっているの?」
蝶が群れとなってまとまるにつれて、ようやく近くの状況が見えるようになってきた。瓦礫となった塔。駆け寄ってくる菊花。そして蝶の大群の向かう先。
「星守さま!」
「牡丹!」
牡丹を取り囲む呪いに、菊花は霊符を放つ。しかし到達するや否や、それは燃えかすに姿を変えた。疲れを見せながらも、蝋梅も後に続く。そうして剣を蝶の塊に突き立てた。しかしそう容易には消えてゆかない。
「く……っ」
「……百合は」
呪いの奥から、か細い声が安否を問うてくる。
「大丈夫だ。こちらで保護している」
驚くほど大きな声で、菊花は返した。
「陣を、描き直してくれぬか。奴らに食われてしまっての」
見れば、足元に描かれた星図はあちこち破損している。気丈に振る舞う彼女に、菊花は唇を噛んだ。
「菊花、白墨だ。他のものは離れよ!」
茉莉花も駆け寄り、二人で破損部分を補い始める。
「こんな呪い、触れたことない」
そうこぼす蝋梅の額を、汗が伝った。
「祓っても祓っても湧き出てくる」
「やめて、これは私の中にあったものでしょ! 来るなら私に」
水仙に支えられながら、百合が訴える。応えたのは。
「あなたのじゃないわ」
その声音の艶やかさに、思わずうっとりとしてしまう。しかしそれは、知らぬ人物のものだった。その場の全員の視線が、声の主の方に注がれる。顔の上半分を仮面で覆い、紅い唇を覗かせた女だ。
「お前が檀か」
菊花が即座に問うと、女はいかにもと頷いた。金華猫や槃瓠を焚きつけた、あの。
「ふふ、可哀想にね。あなたはただ利用されたのよ。愚かな小娘」
蝶の大群の中で、彼女はせせら笑う。百合の表情が凍りついた。
「お喋りが過ぎる!」
蝶の隙間から、牡丹が発する光が漏れた。彼女にまとわりつく蝶の数が、幾分減る。だが幾分、だ。優位なのは相変わらず相手。
「ああ、真実を知られないように抑えていたのにね。愛する人からもらったんだって、大切に抱えて育ててこんな事態を引き起こした呪いが、その人とは無関係の、ただ結界をぬけて星守を潰すためだけのものだったって」
ぶるぶると震える百合の肩を、水仙は抱く。今は堪えて、と耳元で呼びかけた。
「ありがとう、あなたのおかげよ。あなたが私の呪いに取り込まれてくれたおかげで、星守はずうっと祓えずに耐えるしかなかったの。馬鹿ね、弟子ひとり切り捨ててしまえばいいのに。晶華のためでしょ?」
嗚咽のような悲鳴のような声が、百合から漏れる。両手で塞いでもなお、それはとめどなく溢れた。
蝋梅は剣に力を込める。しかし、祓うよりも蝶の増える速度が速い。
「もっと、もっと、」
全神経を動員して、気を手繰り寄せる。
「もっと……!」
瞬間、蝋梅の星冠からまばゆく光がほとばしった。その場にいた皆が、しばらく視力を奪われるほどの眩しさ。呪いの外、塀の向こうからもざわめきが聞こえる。
「下の方の呪いが剥がれたぞ!」
「何だ、今の光は!」
ガチャガチャと、それまで遮断されていた兵たちの立てる音も聞こえ出した。
「蝋梅、どうしました? 今のは」
金華猫が、まだ完全に視力の戻らぬ中、嗅覚を頼りに蝋梅に近寄る。しかしその頼れるはずの嗅覚も、彼女を完全に捕捉できない。金華猫は、無理矢理目をこじ開けた。
目の前に、確かに蝋梅と似た匂いを発するそれが立っている。星にでもなったかのように、その身体をきらめかせて。水色がかっていた髪は、その光で虹を閉じ込めたような銀色と化している。そして、皆の前で舞を披露した時とは比べものにならないほど強く、神気を発していた。
「何と、」
金華猫は絶句する。
触れることすら畏れ多い。この世のものとは思えない。
おそるおそる、その伏目がちな眼を覗き込んでみる。そこに見えたのは、厳格で無機質な光。
瞬間、文字通り総毛立った。霊気を溜め込んだ獣だからわかる。これは。
「これはもう、神の……」
「蝋梅! おい大丈夫か!」
外から覚えのある声がする。金華猫は叫んだ。
「第二王子! 早く来てください! 蝋梅がおかしい!」
慌ただしく、駆け寄る足音が大きくなる。その間にも、周囲の蝶は急激に霧散していった。
牡丹を覆っていた塊もかき消え、その姿があらわになる。呪いにじわじわと根を張られた姿が。
「蝋梅?」
蝋梅は金華猫のいる足元には目もくれず、そのまなじりを檀に向ける。が。
「蝋梅!」
強く思いのこもった声だ。
後ろから強く身体を引かれて、彼女の身体が傾いだ。牡丹まで到達していた剣が抜ける。
たたらを踏んだ後、体勢を立て直した少女は、自分の腕を掴んでいる相手に静かに告げた。
「呪いは全部、殲滅します。それが私の使命。私は、」
「俺の妃だ、蝋梅!」
望は再び腕を引き、抱きしめる。腕の中で、再び剣を振るわんと離れようとするのを、必死で抱きとめる。
しかし彼女の煌めきは変わる様子がない。きらきらちりちり、小さな鈴が鳴るような音を立てて星粒を瞬かせる。常にその眼で制しているのは、呪い。
有無を言わさず、望は口づけた。逃れようとするのを追いかけてなおも唇を塞ぐ。視界を埋める。
「蝋梅、戻ってきてくれ」
何度繰り返しただろうか。その熱意に絆されたのか、潤んだ瞳が、唇が、今度は自ら彼を求める。
「で、んか」
合間の呼吸で発した声は、秋の終わりの虫の音色のようにぎこちなく、震えていた。
「こわい……」
その台詞に、望の目が見開かれる。吐息さえも漏らすまいと、再び唇を重ねた。
蝋梅の指がぺたり、ぺたりと彼の頬に触れてゆく。感触を確かめるように。縋るように。星屑はいつの間にか落ち着きを取り戻していた。
「でんかの、におい」
「蝋梅、俺はここにいる。ずっとそばにいる」
「でんか」
力の抜けてゆく身体を、望はしっかりと抱いた。蝋梅はそれに甘えるように身を委ねる。
その間にも、菊花と茉莉花は星図を描き続けていた。最後の一つを描き入れて、二人は離れる。
「いいぞ、牡丹!」
「反撃だ」
それに呼応するように、星守の戴く冠は鮮烈に輝いた。身体に纏わりついていた呪いの糸が、消滅してゆく。
「星よ、廻れ!」
空から檀めがけて、光の柱が降りてくる。
「いらっしゃいな。返り討ちにしてあげる」
檀はそれを受け入れるように両手を広げた。苛烈な星光を浴びてなお、その身から呪いの焔が登っていく。
それを見て、星守は肩で息をしながら口を開いた。
「紅榴よ、そなた滅びた珠の末の王子の恋人であったのであろう。確か名は、紅玉」
「その名を口にするな、穢らわしい!」
ごう、と焔の勢いが増す。
「珠の史書にそなたの名はない。我が星にも、紅玉王子の顔は見えれどそなたはなかった。弄ばれたのではないか? それとも何か、神ゆえに人からの崇拝と恋心の区別もつかなんだか」
「あなたに何がわかるって言うの!」
「わからぬわ。自分の愛は引き裂かれたと怒り狂いながら、他人の愛は利用する厚顔無恥さなど。その痛みを知っておろうに。だからこそ呪いに転じたのであろう! それとも、人ならば踏み躙ってもよいと思うたか! 愛を知りながら!」
「うるさい! すべての元凶が!」
二つの力は押しつ押されつ、拮抗している。それでも次第に、優劣がはっきりしてきた。
「あなたたちも私と同じように絶望を味わうがいい! 呪うがいい!」
焔が、柱を伝って天へと向かってゆく。
「浄化などされるものか、忘れるものか! あの姿も声も温もりも全部ぜんぶ忘れるわけにはゆかないのだから! これに焼かれることで、痛みを受けることで、過ぎし日の思いを忘れずにいられる。この焔は呪いではなく、形は違えど愛よ!」
想いの強さは呪いを強化し、凶化する。
天まで届いたそれは、更に遡上し、星守を捕らえた。描かれた線が焼け焦げるだけでなく焔を纏ってゆく。身体には再び呪いが襲いかかった。呪いは中へ中へと侵蝕してゆく。牡丹の身体だけではなく、星冠すらも。
「星守さま!」
蝋梅は星冠に意識を集中する。しかし、いつもならその手に現れるはずの剣は、星粒ひとつ姿を見せなかった。星冠も、内から鈍い光を発するばかり。
「どうして……!」
両の手のひらを交互に見て、蝋梅は狼狽える。かたかたと、それは小刻みに震えていた。
「どうして」
「蝋梅?」
異変を察知したのか、望が顔を覗き込む。
「どうして、こんな時に」
「落ち着け、蝋梅。気が散じていたら、できることもできない。こういう時こそ、深呼吸して」
そう言いながら、身体のあちこちを触ったり見たりして、異常がないか確かめる。
外野から、「蝋梅早く」「何とかして」と声が飛んできた。望は眉根を寄せながら、震える体を後ろから抱きしめた。目を覆って、耳元に口を寄せる。
「ゆっくり息を吐いて」
腕の中で、蝋梅は息を吐こうとする。しかし、しようとすればするほど、呼吸が浅くなる。
「俺の声だけ聞いて。大きく吐かなくていい。少しずつ、ゆっくり」
星冠は、ついたり消えたり。これでは道に迷ってしまいそうだ。望は唇を噛んだ。
それでも。それでも彼女に託さなければならない状況に。
その二人の前に、茉莉花が立つ。
「殿下、蝋梅を連れて紫霞山へ退け」
「でも」
「おそらく我らにはお咎めがあるだろう。そうすれば外に出られなくなる。荷物はまとめてあるのだろう。うちの見習いのこと、頼んだ」
望は槃瓠の名を呼ぶ。つむじ風のように入ってきたそれに、望は蝋梅を無理やり乗せた。抵抗する力は弱い。
「星守さま……」
「行くぞ」
大犬は主人の声に応えて、地を蹴った。