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名を呼ばれたような気がして、蝋梅は目を開ける。呪いの糸に飲み込まれ、濁流に流されるような感覚の後、妙な空間に放り出された。他のものは何も見えない。上下左右もわからない、真っ暗闇の中にいるようだった。
そして、これまでとは比べ物にならない息苦しさ。汚泥に沈んでいくような重さ。これは人ひとり呪う量、質ではない。
(百合)
底上げされようと、核になるものがなければ成り立たない。それだけ苦しかったんだ。それだけ虚しかったんだ。一途に道を進みながら。いや、一途だからこそ。
修行中、恨み言のひとつも言わなかった百合を、蝋梅は思い出す。
「この中なら、ゆっくり話せるよね、百合」
蝋梅は声をかける。ここは彼女の中。どこにいたって、彼女には届くはず。聞く耳さえあれば。
「あなたは理由なくこんなことしない。あなたは何を抱えてるの。憎いなら、外の人たちじゃなく私を呪えばいい。私はここにいる」
「そうね。飛んで火に入る夏の虫。ここであなたは潰えればいい」
闇に守られるようにして、百合はゆうらりとその姿を現す。
呪いの子。星神の人形。消えてしまえ消えてしまえ。
とりまきよろしく、怨みの声がわんわんと反響する。頭が割れそうに痛い。
「庶民の出なのに、あんなみすぼらしい状況で拾ってこられたのに、大事にされて好きになってもらえて、何とか側に置こうとさえしてもらえて、特別な加護もあって! ……私はひとつもないのに」
呪いが身体に巻きつく。百合の両手が、蝋梅の両耳を塞いだ。その手にも腕にも呪いが根を張っていて。百合の悲痛な叫びが、呪いに混じって耳をつんざく。
妃にならなきゃ価値はないの。
星守にならなきゃ価値はないの。
代わりになれなきゃ価値はないの。
それなのに、それなのに!
「絶対負けない。あなたなんか、呪いに飲まれてしまえばいいのよ。そうしたら私、まだ溜飲が下がるわ! 付け焼き刃で未完成な抑止力! こんなにも脆いじゃない。助けだってこないじゃない。第二王子殿下だって、すぐに次を見つけるわ。妃だって、何人も侍る」
心の隙を、柔らかいところを、呪いは突いてこようとする。遠のきそうになる意識を必死に奮い立たせて、蝋梅は口を開いた。
「百合、あなたが守ろうとしてるものは何?」
彼女の手に、呪いにその手のひらを重ねて問う。
「あなたには関係ないわ」
「塔を犠牲にしてでも守りたいものって何? これまであなたが過ごしてきた場所でしょう。それよりも大切なものって?」
胸は苦しいし、嫌な汗が滲んでくる。それでも。濁った瞳で、百合は蝋梅を見下ろす。
「消えなさい、塔もろともに。私の足枷」
「私に希望を見せられた。それが私を呪う理由なら、あなたが抱えているのは、王太子殿下のこと。それも呪い。違う?」
「何も話すことなんて」
「あるよ、百合。これが王太子殿下の呪いなら。王太子殿下は何を呪おうとしているの。こんなにも深い怨みを誰に抱いているの?」
感覚を研ぎ澄まし、呪いの声を聞く。叫びは星守を呪うものと百合のもの。
「あなたなら、聞き分けられるでしょう。呪いの中に聴こえるのは、あなたが聞きたかった声?」
百合の瞳が揺れるのを、蝋梅は見逃さなかった。
「これは王太子殿下のものじゃない。あなたを苦しめるものは、あなたの求めるものじゃない。だから私はそれを止める」
蝋梅は星冠をきらめかせる。それに応えて、剣は姿を現した。
「それ、家族に手紙?」
同期の少女が横から手元を覗き込んでくる。超のつく美少女。お店の看板娘をやらせたら、きっと行列ができるだろうに。
星守の塔は高い兵に囲まれているから、そんな輩は簡単に入ってこないが、ここにくる前は凄かったらしい。
貴族でも指折りの名家。その本家のお嬢さま。それが百合だ。
そのいいとこのお嬢さまは、隣に座ると堂々と手紙を読み始めた。
「なあに、名前もしらないイケメンの話ばっかり。検閲する方も、びっくりでしょうよ」
塔は機密情報を扱う機関だ。下っぱとはいえ、念のため外に出すものは取り調べが入る。ちょっと恥ずかしい気もするけれど。
「いいでしょ、活力源なの。妹宛なんだから、飾るような話でもなし」
百合はなぜか複雑そうな顔をする。貴族のおうちは、姉妹でイケメンの話をしないんだろうか。水仙には彼らの世界がよくわからない。
「すっごい泣かれたのよ。ここに来るの。御伽話の王子様みたいなのがいっぱいいるから、楽しんでくるわっていったの。そういうの、あの子好きだからさ。街にはキラキラしたイケメンは転がってないし、ちょっと笑ってネタにしてくれたらいいなって。まあ、王子様本人はここへは来ないんだけど。あとは」
ちらりと横目で、百合を覗く。
「あとは、友達ができたってかけるといいんだけど」
百合は目を丸くした。
「それ、私のこと?」
「そ」
「友達ができたって、そんな報告することなの?星守の座を奪い合う相手でしょう」
「なにそれ、」
思わず変な声が出た。
「一緒にやってく仲間でしょ」
ちょっと怒り気味に言って。でもそれから少しずつ宮殿内でのあれこれを聞きかじって、無理もないかなと思ったりもした。
競争社会なのだ。きらびやかですました顔で練り歩いてる。それは、虚勢を張らないと、たちまちとってかわられてしまうから。
それでも百合はぽつぽつと、手紙に書いた名も知らぬイケメンの名を、一緒に遠眼鏡で覗いて教えてくれた。かわりばんこに覗くのが面倒でもう一つ揃えたら、渋りながらも並んで覗くようになった。
百合はいつも、誰かを探しているようだった。それがわかったのは、そう遠くない日のことで。ひときわ華やかな装いの、ひときわイケメン。
(もしかして)
彼女の願いは、階級社会の頂点に立つことじゃなくて。ありふれた少女の恋心。
「わ、悪い?」
それを指摘すると、百合は膨れた。
「悪いなんて言ってないわよ。だって友達でしょ」
そう言って笑いかけると、彼女はやっぱり目を丸くして。「そうね」と小さく口にしたのだ。
(だからさ、欠けたら嫌なんだって。苦しんでたら嫌なんだって)
昔を思い出しながら、水仙は壁の向こうに思いを馳せる。
(蝋梅はもがいてもがいて殿下を救った。あれは星の加護だけじゃない。本当に守りたいって気持ちが強かったからだ。それなら私にも、友達をひとり助けることだってできるんじゃない?)
霊符で守られた扉の中で過ごす時間は、途方もなく長かった。静かに書物に目を通す茉莉花に、精神統一している菊花。座して待つ二人に、見習いや星告たちは不安を抱えつつも、自ら霊符を書いて不測の事態に備えていた。それでも、それでもだ。
(待っている間、百合はこの呪いに晒されてる。苦しんでる)
「星守補佐、私、百合を助けに行きたいです」
星守補佐は眉を跳ね上げた。
「どこへ。呪いに飲まれるだけだぞ」
「でも、飲み込んでくるなら言葉を直接伝えられるかも」
水仙は膝を進める。
「話したいんです。百合と。星守さまを信じないわけじゃありません。ただ、一番近くにいたのは私です」
物凄い形相で、星守補佐は年若い見習いを睨む。けれど、水仙はぎゅっと拳を握りしめて引かなかった。
「……わかった。私も行こう」
「ダメですよ。乙女の会話に入り込んじゃ」
そう告げて、さっと立ち上がると扉の前に立つ。善は急げ。いつの間にか茉莉花もそこに立っていた。
「一瞬だ。封印を解く。菊花はすぐにかけなおせ」
菊花は小さく頷いた。
最後の最後、出る間際に強引に握らされたのは、菊花謹製の霊符だった。それを小さな灯りみたいに握りしめる。
外に一歩踏み出せば、そこは酷い台風のように荒れていた。呪いの叫び声にさらされて、頭はぐるぐるガンガンするし、気持ち悪い。
(蝋梅は、こんなのといつも戦ってたんだ……)
思わず背を丸める。
「ああ、だからやめておけばよかったんですよ。無知とは恐ろしいものですねえ」
慇懃無礼な声が、足元から聞こえる。
「金華、何でついてきたの」
水仙は白猫を抱え上げる。
「出し物は最前席でかぶりつきで見る主義なもので」
減らず口を叩く猫に、水仙は口元を緩めた。
「百合、どこなの百合!」
霊符を近づけて何とか口を開けると、隙間から呪いが入り込んできた。嫌な気持ちに浸食されていく。小さかったはずの心配の種が、むくむく想像上の大木に育っていく。
(これは呪い)
そう自分に言い聞かせると、握りしめた霊符は小さな光になって飛んだ。
(破邪の霊符じゃない。これは、人探しの霊符だ)
懸命に水仙は、それについてゆく。たどたどしい足取りで。その彼女に、呪いは容赦なく浴びせられる。
――今のままみんな仲良く?あなたとは星守の椅子を争ってるのに?
――敵なの。あなたは。今のままじゃ私は、星守になれない。馴れ合いなんていらないの。補佐に可愛がられて、仕事まで教わって。私より、未来を読めないくせに!
言われたことなんてないはずなのに、妙な実感を持って心の中に浮かび上がる。
「そんなふうに、思ってたんだ」
あまりの猛攻に、ついぽろりとこぼす。
「そうよ。幻滅したでしょ」
どんなに呼んでも来ないくせに、弱った言葉はすぐ察知する。しかしそれも声だけで。姿はそこになかった。
霊符はなおも先導していく。水仙はそれを追いながら返した。
「しないわよ。知ってたもの。むしろ、大歓迎。やっと本音のあなたに会えた。だいたい誰にだって、そういう気持ちくらいあるわよ。持っちゃいけないなんて誰が決めたの。なのに、いっつもふわふわ笑ってて、何にも言わないで。でもあなたとっても負けず嫌い。刺繍がこれでもかってくらい細かいのとか、星図を徹底的に書き込むところとか。本当はいろいろあるんだろうなって、愚痴とか言い合えたらいいのになって思ってた」
負けない。負けない。負けない。
歪む視界の中で、光を追いかける。するとだんだんと進行方向に別の光が見えた。近づくにつれ、息苦しさが楽になってゆく。霊符の光はその眩さの中に溶けて見えなくなったが、新たな光はその輝きを見失わせなかった。
次第に光は、その姿をあらわにする。剣を手に、青白く輝いているのは。
「蝋梅」
ようやく辿り着くと、思わず傍らで膝をつく。彼女の纏うきらめきに触れていると、頭痛も吐き気もなくなった。
「嫌よ、嫌よ! 私、わたし」
光の剣の先には、必死に抵抗する百合。その表情からは冷徹さが消え、混乱しているようだった。
「水仙、私では彼女に届かない」
蝋梅は百合から目を離さずに告げる。朔から渡された呪いであるらしいこと。ただしその彼の念は感じられないということ。
「あまり余裕がなさそうですね。水仙、貴女早く説得した方がいいですよ」
金華猫の表情は険しい。水仙は頷いた。
膝に力を入れて立ち上がる。思ったよりもがくがくしていたけれど、今は怯んでいられない。一歩、また一歩。蝋梅と百合の間に入る。
「どうしてそんなに大事に抱えているの? 呪いの形じゃなきゃいけないの? あなたの大事なものなんでしょう」
「この形じゃないと、もらえなかったんだもの。私は、私じゃ」
「聞きなさい、百合! じゃないと私、今から王太子殿下のことひっぱたきに行くから! 何なら頭引っ掴んで土下座させてやるわ! 一国の王子だろうとね、誠実じゃない男は信用ならないってわからせてやるのよ!」
「殿下は、」
百合はふるふると小刻みに首を横に振る。その肩を、水仙は掴んだ。遮るように呪いが水仙の腕に絡みつく。それでも水仙は手を離さなかった。
「百合、私の方が百合のいいとこいっぱい知ってる。過ごした時間も長いわ。あなたがすっごく努力家なところも、気配り上手なところも。知ってるし助けてもらってきた。みんなで学問したり、仕事しながらおばあちゃんになりたいと思ってた。父や母や兄弟の代わりに、ここにいるみんなで……。だから私、あなたに幸せになってほしい。こんな形で何かを抱えて守って、苦しむあなたを見たくない! そんなふうにさせる相手に、あなたの心を奪われたくない。百合、あなたを大事に思う役目は、私じゃだめかな?」
その言葉を受け止めて、百合はぐっと詰まったような表情を見せた。
「わたし、わたし、殿下の一番になりたかった。そうならなきゃって。でもっ、なれなくて、そうでなきゃいらないのかなって。せめてこれだけは、殿下の秘密だけは、持ってたら共犯になれるかなって思ってたのに、なのに殿下はっ、柘榴さまとっ……」
光の消えていた瞳に、涙が浮かぶ。
「私のことなんかこれっぽっちも思う気なんてなかったのよ、渡された呪いだって、殿下のものですらなくて。そんなことすら見抜けなくて。結局私は、妃にも星守にも代役にもなれない。なんの価値もない。誰からも認められない。それなのにこんな、こんな」
「誰からも? 王太子殿下からだけじゃないの?」
「――あ、」
百合の目から、涙が溢れた。放春花や、凌霄花の姿が、さっと水仙の脳裏をよぎる。その背後にいるであろう貴族たち。
「わ、たし」
ほんとうは、と唇が声にならない声を形づくる。
「百合は価値がなくなんかないよ。認められなくもないよ。少なくとも私は、あなたを見てる。それとも、肩書きがなきゃだめ?」
百合はゆっくりとかぶりを振る。水仙の腕を掴んでいた呪いの糸が、ずるずると後退していった。かわりに水仙の手に込められた力が強くなる。
「だめじゃ、ない。けど、わたし、こんな呪いまみれで」
ぼろぼろと、百合の目から大粒の涙が溢れ出す。
「私はそういうの得意じゃないけど、蝋梅が頑張ってるから。その代わり、あなたは落ち着くの! いい?」
「こんなことしたら、わたし、嫌われて」
「あなたが厄介な人間だってのはもうわかってるわよ! でなきゃ毎晩殿下のことしつこく覗き見したりしないでしょ。あなたのこと、そんなに簡単に嫌いになったりしないから。私は手のひら返したりしない」
「うん。うん」
百合が頷くたび、剣から発される光が強くなってゆく。身体から翅脈に光が流れ込んでいくのが見てとれた。
「いっぱい話聞かせて」
「うん」
「その代わり、私のも聞いてよ?」
「うん」
ぐしゃぐしゃになった顔を、百合は蝋梅に向ける。
「ごめん、蝋梅」
蝋梅は頷く。すると剣はいっそう輝きを増した。翅脈から翅全体に光が移る。そうして一閃したかと思うと、ぼろぼろと崩れていった。闇で覆われていた辺りも、蝶の形に姿を変えて飛んでゆく。
蝋梅が百合から剣を抜くと、彼女の身体はぐらりと傾いで水仙の腕におさまった。