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戻るまでに随分時間をくってしまった。
塔の周りに侵入者を阻むべく巡らされた塀の外には、既に白将軍が精鋭を並べていた。みな霊符を持たされているからか、顔色が悪い様子はない。あちこちにかけられた梯子を登れば、すぐにでも突入できそうだ。
「一時苦しむような様子を見せましたが、他は変わりありません」
将軍の報告に、望は頷く。
「それは」
将軍の視線は、望の手の弓に注がれている。
「ああ、破魔の弓を宝物庫から失敬してきた。後で大目玉だろうな」
そう言って望はわざとらしく、肩をすくめてみせた。
「はは、強行突破ですか。まあ申請している場合ではありませんから、しかたありますまい」
将軍はにやりと笑った。
槃瓠の首元を叩くと、彼は二人を背に乗せて塀の上に登る。望は弓を引き絞ると、蝶に放った。矢は、みごと蝶の翅の根元に刺さる。蝶は嫌がるように翅を捩らせた。反対の翅に比べ、少し動きが鈍くなる。
「やはりな。槃瓠の時と同じだ」
普通の武器では通用しない。
「腕に自信のあるものは、強弓を持て。合図とともに霊符をつけた矢をいかけよ。なるべく根元を狙うこと。塀より内側に入ってはならん。体の不調を感じたら、即座に退け」
伝令が声の届かぬ方へ、望の命令を伝えに走る。
「俺たちは遊撃だ。槃瓠は回避に集中」
槃瓠は喉を鳴らして返事した。
合図の音と共に、霊符をつけた矢が一斉に射かけられる。はじめは羽ばたき、鱗粉で応戦していた蝶も、次第に動きを鈍らせていった。
ダメ押しとばかりに、先程とは逆の翅に望は矢を射る。さっと合図の音が鳴らされると、兵たちは矢を放つのを止めた。
「槃瓠、頭部へ突っ込め!」
望の指示に、巨体は地を蹴った。目標は、頭部に見える百合。到達するや否や、蝋梅は槃瓠の背から滑り降りると、光の大剣をその胸に刺した。
痛ましい少女の悲鳴が、あたりに響き渡る。それが一番効果的だと。
事実、兵たちは目を背け、耳を塞いだ。しかしそれでも、蝋梅は止めない。
「この薄情者! 呪いを祓うだけの人形が! いくら人間の形を模ろうと、所詮は星神のしもべ!」
悲鳴の合間に、喉が潰れんばかりの声で彼女は罵る。しかし蝋梅が手を緩めることはない。
「薄情だろうが何だろうが、呪いの拡散は阻止する。それだけ」
剣を中心に、呪いが祓われてゆく。しかし、甲高い叫び声をあげ、全身の力を振り絞るようにして、蝶は抗った。
ばらばらと翅に刺さっていた矢が落ちてゆく。足場が揺れて不安定になってきた。百合の腕から無数の糸が吹き出して、蝋梅に絡みついてこようとするのを、望は霊符つきの剣で弾く。しかし弾けども弾けども、絶え間なく糸は供給される。
「撤退だ」
蝋梅を抱えて、望は槃瓠の背に戻る。槃瓠はすぐさま塀の外まで跳躍した。牙の奥から漏れる息が荒い。
「我が主、呪いの侵蝕が酷いのではありませんか」
燻る呪いの焔を、槃瓠は何度も深呼吸して抑える。白将軍がぎょっとした顔を見せるが、望はかぶりを振った。
腕の中の蝋梅は、ちりちりと細かな光を纏って望の腕を握っている。懐に勿論霊符を入れてはいるが、蝋梅の護りがあるのだろう。望は不思議と苦しさを感じなかった。しかし長期戦は危険だ。
「霊符つきの矢をつがえよ、回復のいとまを与えるな!」
再び合図の音が轟く。蝶は呪い声を上げた。
「殿下、顔が怖いです」
蝋梅が腕の中から見上げてくる。望は口をへの字に曲げた。
「わかってる、あれが呪いに思考を侵されているからだって。でも」
人形、星神のしもべ。そんなことを言われたら、平気ではいられない。蝋梅を抱く腕に、つい力が入る。
「百合の精神状況がそれだけ危ういのでしょう。一刻も早く解放せねば。……しかし、決定打に欠けますね」
あくまで矢による攻撃は、動きを鈍らせるだけ。呪いを削ぐには至らない。それができるのは。
ちらと槃瓠の足元を見ると、もう呪いは抑えきっていた。
「もう一度、行きます」
そう告げる眼は、星が宿る空のように美しい。望は頷いた。同じ手はくらうまいとしているのか、蝶はその目で標的を捉え、牽制する。ばさばさと翅を動かし、移動を阻んだ。
「槃瓠、上に跳んで!」
蝋梅の声に、槃瓠は蝶の頭部を超えて跳躍した。着地前に、蝋梅はするりと望の腕から抜け出る。その手に光の剣はない。
「蝋梅!」
望は手を伸ばすが、空を切る。着地と同時に、先程までは剣をよけていた呪いの糸が、容赦なく蝋梅に絡みついた。蝋梅はそれに身を任せる。
望も後を追おうとするが、槃瓠は蠢く呪いの表面のうちの、僅かな足場を蹴って再び跳んだ。ぐらりと身体が急に傾いて、反射的に槃瓠につかまる。
「蝋梅!」
喉が裂けんばかりに、望は名を呼ぶ。名の主はあっという間に、呪いの中へと沈んでいった。それと共に、頭部から百合の姿も消える。
名を呼ぶ声を飲み込んで、代わりに望は深く息を吐き出した。ぱんと両の頬を叩いて気合いを入れ直す。
自分に今できることは何だ。
「補給部隊! ありったけの霊符をかき集めてこい。外したり使ってない霊符がある。惜しむな。弓隊は隊列を組んで順にいかけよ。命は惜しめ! 違和感を覚えたら退がること! 必要以上に前に出るなよ」
矢継ぎ早に指示を出し終わると、望は他に弓矢を預け、剣を手に槃瓠に歩み寄った。
「槃瓠、翅が動きを止めそうになったら、右翼に近づいてくれ」
承知しました。槃瓠が首を垂れる向こうで、将軍が慌てた。
「殿下、あなたが必要以上に前に出てどうするんですか。破邪の星の加護も得られないんですよ。あなたは普通の人間なんです。むしろ、守られる立場の」
「わかってるよ」
蝶から少しも目を切らない彼に、傍らで聞いていた兵は呆れ顔を向けた。
「ちっともわかってないじゃないですか」
「できることをするだけだ」
白将軍は、望の視界を遮るように前に立つ。まさに仁王立ち。望はようやく目を合わせた。
「殿下、彼女がいない今、あなたが呪いに侵されてしまった時に対処できるものがおりません。お下がりください」
「しかし……」
「殿下、あなたさまは誰とご自分を比べていらっしゃるのですか」
その言葉に、望は悔しげにうなだれる。
槃瓠に攫われて傷だらけになった蝋梅。そして神気を纏った彼女と、それを我が巫と呼ぶ北斗星君の姿。それらが彼の脳裏をかすめてゆく。
「今は耐える時です」
将軍は剣を引き取って、弓を望の手に握らせる。剣は既にぼろぼろで、焼け焦げた霊符の上に新たな霊符が何度も貼り直してあった。
「それに、我々には命を大事にせよとおっしゃるのに、あなたさまがそれを守らないのでは、示しがつきませんよ」
焦燥。
それが彼女を想う時に根深く残る。自分が苦しみ、削れてゆくことを厭わない、そのように刻み込まれてしまった生き方。それが壁となって彼女と自分の間に立ちはだかっている。
望は梯子を登って塀の上に立つと、矢をつがえる。
(蝋梅)
手は届かなかった。もどかしさとやるせなさで、胸の中が爆発しそうだ。それでもどうか彼女の助けとなるよう、念を込めて。
(人智を超えた力を、俺は持たない。でも蝋梅を想うことにかけては絶対に負けていない)
届け。
どろどろと、澱みが渦巻いている。その息苦しさが以前は嫌だったけれど、今の百合には心地よささえあった。それが嫌悪感を加速させる。
(どうして)
蝶の額のところから、こちらに向けられている敵意と矢の数を知った。自分の内側で、怯える命の数も。
少しばかり浄化されて、我に返った彼女には、耐えがたい状況だった。
「私、こんなはずじゃ」
ただ、渡したくないだけだったのに。
「呪いを?」
紅い三日月が、暗い中に浮かび上がる。
「わかるわぁ、その気持ち。大切だったのよね。叶わなかったのよね。それしか縋るものがないのよね。もう、やりきるしかないわ。あなたにはそれしか残されてないの」
三日月は甘く囁く。澱みは震える身体をやわく包み込んだ。
「やりきる?」
再び呪いに思考が飲まれていく。考えられない。どうしたらいいのか。
「大事なんでしょう、その力をくれた人が。あなたにしか託せなかった」
「そう」
「なら、その願いを叶えるべきだわ」
「願い?」
「星守の塔の崩壊。あなたを苦しめているこの場所から、あなたを解き放つの。あなたは、はばたけるわ。だって蝶なんだもの」
そう言われると。背中に生えた翅で、軽やかに飛べる気がした。