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朝のしじまを引き裂く妙な気配と異音に、王は玉座で歯噛みした。兵の足音が慌ただしく外をかけてゆく。
「何だ、塔はどうなっておる」
またぞろ第二王子が様子を見に行ったらしい。今回は破邪の星も一緒だと報告が入った。だが、気は抜けない。
「昨日、祭祀を取り行ったばかりだというのに」
眉間の皺はいっそう深くなる。
「朔はどうした」
周囲の者は次々に首を横に振った。
「昨夜の宴の後、お見かけしておりません」
「檀」
口元をうまく隠して小さく呼ぶと、檀はいつものように玉座の影に姿を現した。
「王太子殿下は、騒ぎを聞きつけ柘榴さまのところに。柘榴さまはたいそう怯えておいでです。私もお側に参ります」
その報告に、王は表情を曇らせる。
「あやつの体調はどうだ。昨夜からあまりよくないと聞いていたが」
「まだ不調のままでございます。その上あのような怪異。胸が潰れんばかりのご様子です」
「そうか。あやつの力になってやれ。有事の際は身の安全を第一にな」
「は」
返事をするや否や、影から気配は消える。王はため息をついた。
玉座でただ座っているだけの自分ですら、異様な息苦しさがある。身体の弱った柘榴であれば、その負担はいかばかりか。
(これが引き金にならなければよいが)
檀の代わりに、影から不安が湧き出てくる。王は長く息を吐き出した。
――わしもそなたたちといがみ合いたいのではない。私情であろうと、妃の体調が運命を変えられるよう逐一導いて欲しいのだ。星守に伝えよ。
記憶の奥の蓋が開く。そんな話をしたのはいつのことだったか。相手は星守補佐。厳しい顔つきを更に硬くして返す。
「……陛下、柘榴さまには何も凶兆は見当たりませぬ」
「そんなはずはない。何度も体調を崩しておるのに、そなたらは何も出ぬの一点張り!」
声を荒げようと、この補佐の態度は変わらない。
「何もないのです」
困惑するでもなく、苛立つでもなく、蔑むでもなく。それが変わらぬ結果であると彼女の眼差しは伝えていた。それが彼女の職務。
されどそれは満足できる回答ではなかった。
「星読の精度が落ちておるのではないか。時間をかけてもよい。もっとしっかり見よ」
暖簾に腕押し。苛立ちの末に、過去の王はこれまでにしたことのない問いかけをした。
「そなたはどうだ」
「は?」
「補佐よ。そなたはどう出た」
「国家の大事を占うのは、星守さまでございます」
補佐の声が次第に刺々しくなってゆく。無理もない。星守の占いの結果を疑っているのだから。それは星神を疑うことに等しい。それでもくらいつく。
「そなたも占えぬわけではあるまい。星守に何かあった時には、そなたが代役となるだろう」
「星守さまの結果がすべてです。私も同じ」
彼女は首を垂れたまま続ける。
「陛下、病を正確に見抜き、対処するのは不可能です。古来より多くの覇者が不老不死に挑みましたが、成功したものはおりません。勿論、凶刃が襲うなどということであれば、避けられるようお伝えしますが……」
「わかっておる。無茶だということは。しかし止められぬのだ。もう失いとうない」
だんだんと萎んでゆく声を、補佐は静かに見つめていた。それに星守の姿が重なる。
美しき大輪の花だった。彼女が自分の星守になるのだと知った時、正直なところ心が躍ったし、その後の版図拡大をずっと支えられてきたから、信頼も厚かった。しかし。
蓮の死からすべてが変わった。
何度も夢に見た。蓮が涙ながらになぜ帰らぬのかと縋るのを。けしてそのような姿を見せぬあの者が。
――戦はおやめくださいませ。陛下は既に版図を広げに広げられました。急激な拡大は毒になりましょう。
(そうだな。それでそなたをうしなったのだ)
――私の凶事を見抜けなかった星守を信ずるべきではありません。
(そうだな。これまでは実力で勝っておったのだ)
――王子たちが心配なのです。
(そうだろうとも。他は正妃の座を争い、自分の子を太子にしようと目論んでおる。そのような者の元へは通えぬ。王子たちの命を脅かしかねん)
夢の中で、繰り返し蓮は訴えた。誰もが反対したが、柘榴だけが自分を理解し、正妃を悼み、王子を大切にしてくれた。
はじめはやっきになっていた妃や妾は、諦めて王子の相手探しに熱を入れる日々。将兵は武器を置き、他の職を求める者も出た。
「陛下は、失って気づかれたのです。正妃さまをどれだけ愛していらっしゃったのか。そのお気持ちは大切になさらなければ」
過去の人間の話を、自分以外の妃の話を、柘榴はよく聴いた。吐き出してなお夢に蓮を見るのは、それほど蓮が無念であったのか、それとも自身の後悔が深いのか。
ああ、何もかもあれからおかしくなった。
その中心にいるのがあの星守だ。あれさえいなければ。星守としてしかと全うしていれば、このような騒動も起きなかったというのに。
耳をつんざくような音に、家臣たちが怯えて耳を塞ぐ。
(いっそのこと、これで消えてしまえば。塔ごと全部)
不意にそんな考えが浮かんで、思わず王は息をのんだ。
(今のは、)
ああでもそうだ。そのとおりだ。これはもしかしたら、自分の望みなのかもしれない。
ゆっくりと玉座から立ち上がる。半狂乱の臣下たちが、それでも左右に分かれて道を開けた。その間を一歩また一歩、王は進んでゆく。
ゆっくりと開かれていく扉の向こう、晶華を見渡せるようにという思いで建てられたその塔は、禍々しい怪蝶に姿を変えていた。
「陛下、呪いが鱗粉となって飛散しているとのこと。ここにはまだ達していないようですが、どうかお戻りください」
伝令の兵の報せに、周囲は阿鼻叫喚の坩堝。
「はは、」
乾いた笑いが喉からこぼれる。伝令兵が怪訝そうな顔をしているが、そんなものはもう視界に入っていなかった。
――あれは、あなたを解き放ってくれるのです。
白昼夢のように、彼女の声が耳元で聞こえた気がした。
初めて空が白み始めるのを、この部屋から見た。その白さは何かに似ている。
自分の想いを発露して、空っぽのようになった自分自身だろうか。朔は緩く瞬きする。
胸の奥にちくちくと痛みがあるのは、それが道ならぬ道だからだろう。ただもう、迷う段階は過ぎた。
身体から、彼女の香りがする。服である程度隠せるだろうが、その服自体が昨夜と同じ。他人に気取られぬようにしなければ。
ぐちゃぐちゃな感情を胸に抱えて外に出れば、前代未聞の騒ぎで。反射的に口や鼻を覆う。しかし、覆えど漂う重苦しさは変わらなかった。頭のどこかで靄がかかったような感覚がある。
これは。
慌てて柘榴の部屋へと引き返す。薄い帳は下りたままだ。体調があまり良くないのだからと、あまり言葉を交わさずにきたが。
「義母上」
声をかけると、か細い返事があった。あまりにそれが消え入りそうで。朔は思わず帳を上げる。奥には真っ白い顔をした、柘榴が横たわっていた。
「まあ、許しもないのに寝台を覗くなんていけないわ。ましてや陛下の元で指揮をとるべきお方なのに」
軽口を叩く余裕はあるらしい。朔はその手を取る。
「もう、覚悟はできています。あなたを手に入れられるなら何だってする。そう、約束したではありませんか」
力ない手で、彼女が握り返してくるのがわかった。はっとして、朔は紅い瞳を見る。その瞳は、奈落の底へと誘うように、見た者の心をまっさかさまに落としていった。淡い青は、虚ろで光を映さない。昏い中で、弱りきった柘榴が縋るように彼の腕にしがみついた。
「柘榴」
吐息混じりに愛する者の名を呼ぶ。今にも消え入りそうな彼女を。
「嬉しい」
彼女はそう告げた。荒い呼吸の合間に。
「私の願いを叶えてくれるのは、あなただけ……」
魚眼レンズで覗いたような歪んだ視界の中で、紅い唇は三日月を描いた。
「どうして王太子殿下はいらっしゃないんですの?」
苛立った声の主は蘭だ。しっかりと武装した姿は、最低限の化粧しか施していない。しかし凛とした雰囲気は、彼女の美しさを引き立てていた。
ただしここは、晶華の王の御前。未曾有の危機を前に、誰もが彼女を愛でている余裕はなかった。彼女もまたそうされる気はない。
「せめて陛下と指揮を取るべきではありませんの?」
「そうは言ってもですねえ、塔に近づくと、気分が悪くなるって聞きましたよ。宮殿もあんまり良くはないんじゃないですかね。並みいるお妃さま方も、こぞって扉という扉を閉めて祈祷させてるって話じゃないですか。王太子殿下と柘榴さまなら尚更ですよ」
付き従う兵は呆れ顔だ。
周りを見回しても、いつもなら喧しくさえずるはずの五家の者たちの姿はない。前線に赴いた白将軍の代わりに、蘭がいるくらいだ。蘭は片眉を跳ね上げた。
「んまあ、情けない。でも、わたくしとしましては自薦の種となりましてよ。白家の代表として、陛下をお守りする。しかし、肝心の伴侶たる王太子殿下がこれでは、ねえ。前線に出ずとも、陛下の傍らで補佐するくらいはしていただきたいもの。第二王子殿下と立場が逆転しましてよ。わたくしなぞ、できればもう少し前線に出たいくらいですのに。早く汚名を返上せねば」
「ダメですよ。呪われちまうらしいじゃないですか」
将軍の愛娘に何かあってはと、兵たちは気が気ではない。このお嬢さまは、行動力と突進力に優れているのだから。
「破邪の星が打開するまで大人しく待機しましょう」
その二つ名を聞いて、彼女は目を輝かせた。
「ああ、蝋梅さまはまた最前線にいらっしゃるのね! あなたこそ私の好敵手。早く剣の手ほどきをして差し上げたい」
夢見る乙女のように頬を紅潮させる蘭。今にも前線に飛び出しかねない彼女を、兵たちは押し戻した。
「それにしても、なぜ陛下は何もおっしゃらないのかしら。王太子殿下の身の安全を確保するにしても、ご自身の寵妃と一緒だなんて」
王は黙ったまま玉座から前を見据えている。狼狽え、怯えるわけではないが、自ら動こうという気配はない。かつて他国としのぎを削っていたという荒々しい姿など、想像できないほどだ。
「陛下はお変わりになりましたよ。正妃さまが亡くなられてから。豪胆さがまるで見えなくなってしまわれた」
潜めた声で、古株の兵がぼやく。
「そんなに愛しておられたのね」
古株の兵は、隣と顔を見合わせる。
「今の柘榴さまには及びませんがね。正妃としての地位を確立されたのは、王子をお産みになられてから。それまではご実家の力関係で、真ん中くらいの立ち位置だったみたいですから、出世といえば出世ですよねえ」
「失って気づく愛ってやつもありますしなあ」
「あら、何だか実感こもってますこと」
彼らの私情は後で聞くとして。蘭は王の周辺に目を光らせる。
(それにしても、星守さまはこの国の要。失えば取り返しがつかないというのに、宝剣のひとつも持ち出さない。晶華を守る気がおありなのかしら? しかも、第二王子殿下の指示で前線に補給されてゆくのは、どこかから持ってこられた大量の霊符。使うべきところに、人に、使っていなかったんじゃありませんこと?)
蘭は変わり果てた塔の方を睨んだ。