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 星守と補佐の朝は早い。まだ星の見えるうちに祭祀を執り行うからだ。

 しかし今朝はどうも様子がおかしい。ぴっちりいつも通りに身支度を整えた菊花は、欄干から下を覗きこんだ。

「何だ、この禍々しい気は」

 塔の底から湧き上がってくるような、嫌な気配。それは第六感のようなものではなく、糸のような形となってぐるぐると塔を包み込んでゆく。

 初めての光景に、一瞬呆気にとられる。こんなこと、未だかつてない。

 しかし、すぐに我に返ると、上階の星守の部屋へと走った。来訪も告げずに扉を勢いよく開ける。

「牡丹、逃げるぞ!」

 牡丹もまた祭祀を行うべく、星図の刺繍された衣装を纏い、部屋の中央に座っていた。床の陣はまだそのままになっている。牡丹はその線に指を這わせた。

「もう遅い。濃い邪気で出口が塞がれておる。私はこの呪いの根源を辿る。そなたは結界を張り見習いたちを守れ。しばらくはもつであろう?」

 厳かな声だ。菊花は頷き、再び階下へと走った。




「百合、大丈夫? 百合!」

 拳で扉を思いきり叩く。痛かったが、そうも言っていられない。緊急事態だ。

 しかし中からは何の返事もない。水仙は一瞬迷うが、意を決して扉に手をかける。

「百合、上に避難を」

 言いながら扉を開けると、中には確かに百合の姿があった。しかし。

 その異様さに、水仙の肩に乗っていた金華猫は、毛を逆立てる。水仙もまた、目を見開いた。

 膝を抱えて、彼女は丸まっている。身体や両手足には、おびただしい量の細い細い黒い糸が巻き付いていた。

 口を再び開きかけて、水仙は急激な眩暈と吐き気に襲われた。視界がぐにゃりと歪む。

 耳元で、金華猫が鋭い声を上げた。

「いけません、水仙。あれは、あれがこの邪気の本体です! 退避しなければ!」

 そう告げる声も辛そうだ。

 何で、どうして。声にならない声が、心から迸る。

 水仙は口元を覆って、何とか百合を見ようとする。

 百合は虚ろなまなこで、どこか虚空を見つめていた。その体は、どんどん糸に巻かれ、飲み込まれてゆく。名を再び呼ぼうとした時には、糸の波に沈んでいた。

「早く!」

 白猫は床に降りると、懸命に裾を口で引っ張る。しかし猫の小さな体では、それが限度。

「何してる!」

 そこへ菊花が血相を変えて駆け寄ってきた。ふらつく水仙の肩を抱いて、顔を覗き込む。

「百合はどうした」

「彼女が元凶ですよ」

 答えられない水仙の代わりに、金華猫が返した。菊花は、はっとした顔で開け放たれた扉の中を覗く。

 部屋の中はもう蠢く呪いの糸でいっぱいだった。が、いっぱいに勢力を広げたそれは、今度は収縮し始める。あたりの邪気も吸収しながら、やがて人ひとりくらいの大きさの蛹になった。

 菊花は禁呪符を取り出す。

「凶悪を断却し、不祥を祓除す!」

 そう唱えると同時に霊符の文字が蛹に絡まる。すると、辺りの邪気がやややわらいだ。

「百合」

 苦しげに水仙は呼んだ。しかし返事はない。

「あなたが呪いの根源なの? どうしてこんなことに……」

 菊花は唇を噛む。霊符の効きが悪い。絡みついた文字が歪み、今にも引きちぎれそうだ。

「とにかく祓わないといけません。私でもわかるほど、汚染が広がってきていますよ。気分が悪いにも程がある」

「原因になるとしたら、昨日の件? でもこんなぞくぞくする呪いが、人間に生み出せるものなの?」

 肩で息をしながらも、この場を離れられない。だって目の前にいるのは、塔に来てから苦楽を共にしてきた人だ。

「生霊とか例がないわけではないだろうが、それには相応の恨みの蓄積が必要だろう。槃瓠のように何らかの底上げがあったとみる方が自然だな」

「でも、檀がここに来れるわけありません。招かれざる者は結界が阻むでしょう。それとも、昨日の祭祀で?」

「私が望んだの」

 蛹の中から、くぐもった声がした。確かに百合の声だ。だが、内容はそうは思えないもので。

「望んだって、どういうことよ。こんな呪いにまみれた状況を? 槃瓠とは比べ物にならない……。あなた星守になるんじゃなかったの?」

 震える声で、水仙は問う。

 返事の代わりに、ぶちりと禁呪符の文字が千切れた。衝撃波が、蛹から発される。水仙は顔を背けた。

「祓わないで。これ以上私から奪わないで」

 奇妙なエコーのかかった声が、耳に響く。

「何を言って……」

 再び目を開けた時、水仙は言葉を失った。

 蛹が割れて、中から人の形をしたものが姿を現す。しかしそれは、ただの人間ではなかった。

 蛹の中で、蝶の幼虫はドロドロに溶けてその形を作り直す。そうして新たに得た見事な翅を広げ、飛んでゆくのだ。

 百合も同じく、形を作り変えていた。呪いの服を纏い、呪いの翅を背に生やしている。折りたたまれていた翅は、ずるりと身体が蛹の外へ出るのと同じくして、開かれていった。禍々しくも美しい、黒き翅。その翅が開いていくにつれ、圧迫感も増していった。頭上を見れば、星冠の鉱石が光を失ってただの石のようになっている。

「百合」

 菊花の呼びかけにも、冷徹な瞳は応えない。その間にも、息苦しさは増すばかり。再び禁呪符を投げるも、瞬く間に焦げて塵となった。

「退避だ、呪いに飲み込まれる!」

 菊花は水仙を抱きかかえるようにして上階へ向かう。

 外は呪いの壁に覆われて、少しも見えなかった。迫り来る呪いに、菊花は霊符を向ける。しかし足止めになる様子はなかった。

 広間に着くと、中では他の見習いたちが窓や壁に霊符を貼り、結界を敷いていた。

「びくつくんじゃないよ!」

 指揮をとるのは茉莉花だ。

「さ、ありったけの符印を部屋へ貼りな。蟻の子一匹部屋に入れさせるんじゃないよ。この塔にいるのは一人じゃないって、思い知らせてやんな」

 怯える見習いや星告たちを鼓舞し、発破をかける。

「茉莉花さま、私は星守さまの補佐へ回ります。ここはお願いします」

「頼んだよ」

 菊花が再び外に出ようとすると、廊下は既に呪いで満ちていた。結界を破ってなだれこもうとするそれを、慌てて扉を閉めて止める。

「これは想像以上だね。もう塔全体が呪いで包まれてしまうなんて」

 茉莉花が眉根を寄せた時、ぐらぐらと塔全体が揺れた。見習いたちが悲鳴を上げる。

「何が起こってるんだ……?」

 二人は顔を見合わせた。




 塔を震わせた揺れは、羽化によるものだった。塔全体を蛹のように覆った呪いは、それを脱ぎ捨て、塔をすっぽり飲み込むほど大きな体の、蝶と化した。

 高周波の鳴き声が、あたりにこだまする。それは哀しげであり苦しげな、悲鳴にも似た音だ。

「ああ、なんて美しいの」

 叫び声を聞きつけて、赤い唇が歪む。

「ぞくぞくするわ。苦悩を喰らい、育った蝶。その鱗粉であの目障りな大輪の花を枯らしておしまい」

 呪いの焔を揺らめかせ、女は嗤う。

「もう少しよ」


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