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あの夜、私は幸せだった。
憧れだった王太子殿下が、他でもない夜に訪ねてきたのだ。浮かれないはずがない。
こんな時間に人目を忍んでくる理由なんて一つしかない。
子どものような第二王子みたいに、一緒に調査をするとか、本当にただ寝るだけとか、そんなことを彼はしでかさなかった。
甘い声で囁いて、撫でるように触れてくる。
あまりにも、甘美な時間。はじめは粗相のないように淑やかにしていた百合も、いつしか時を忘れ、朔の胸に縋りついていた。
彼は耳元で何度も囁いた。「愛している」と。
麻薬のようだ。聞けば心は揺すぶられ、平常心ではいられなくなる。
でも、百合は知っている。彼は皆に同じように接するのだと。そして、潤んだような瞳で見つめ、喉から手が出るほど欲しいのは、柘榴ただ一人なのだ。
けれど、詰め寄れるわけもない。そんな覗き見など、本来の星冠の用途ではない。
ただ、諦められなかった。
この味を知ってしまったら。
引き出しにしまった惚れ薬が、痺れた脳裏に浮かぶ。得体の知れないものを飲ませるべきではないことも、そもそもそんなものを使うべきではないことも、本当ならわかっているはずだった。けれど酔って狂った理性はそれを止められない。
(これを逃せば、次はないかもしれない)
ぽたりと、手の影でその液体を垂らす。香りの一等強い百合花茶に隠して。
胸が苦しいのは、罪悪感のせいだろうか。
「また来てもいいかい」
別れ際の言葉に、百合は眉尻を下げる。
「勿論でございます」
ああ、どうか。
百合は心から星に願った。
(彼があの方を忘れてくださいますように。嘘が真実になりますように)
翌日も、彼は至極当然のように現れた。こんなことは初めてだ。彼は連続して同じ娘を訪ねたりしない。
本当に、愛してるんだ。
疑う心を見抜くように、彼はそう告げる。そうして身ぐるみ剥がして丸裸にしてゆく。その手に、百合は溺れていった。
本当に本当にそうなのかと、頭の片隅で彼を疑うよう何かが警鐘を鳴らす。しかし彼の手が肌を滑ってゆくたび、それはどこかへ隠されていった。
どうか、どうか。
そうして帰りにはまた、星に願いながら禁断の薬を一滴垂らした。
体が怠いのは、夜通し起きていたせいだろうか。百合は寝台に横になる。
いつもと違う香りのするそこで、百合は気づいた。自分の中に、うっすら澱みがあるのを。
これでも星守見習いだ。その澱みが呪いの類であることくらいわかる。そうしてそれが、朔から移ってくるものだということも。
(私には、そこまで強い破邪の力はないし、吸い上げもしない。なのに)
呪いは人の心の暗いところに入り込んでくる。
抱えてしまうくらい、彼は。
呼び寄せてしまうくらい、私は。
薬の効果はわからない。けれど、朔はその後もやってきた。その度に澱みは嵩を増した。
皆には内密にと彼は言う。もうきみには私の匂いが移っているから、他の人に気取られないようにしてほしいと。
許可などとっていないのだから当然だ。そこまでして毎夜通ってきてくださるのか。
百合は震えながら問うた。
「あなたから私へ、呪いが溢れてくるのです。あなたさまの中の何が、そんなにも呪いを生み出すのですか」
彼はすぐに答えなかった。
「柘榴さまへの、想いが、あなたさまを苦しめていらっしゃるのですか。あなたさまの境遇を、呪っていらっしゃるのですか」
ずっと訪ねたかったこと。喉の奥の魚の小骨みたいに引っかかっていたこと。
彼は微かに目を見張った。
「知って、いるのか」
「はい」
聞かずにはおれなかった。これを乗り越えねば、自分に先はない。他の娘と、同じだ。
「ずっと、苦しかったんだ。誰にも打ち明けられなくて。どうかきみだけは俺を、受け入れてほしい。俺の昏さを」
やや晴れ間ののぞく顔で、彼はそう告げた。
(ああ、私だけの殿下。あなたの後ろ暗いところを、私だけが抱きしめられる。あなたのものなら、何でも受け入れる。この感情は、私にだけ明かされたもの。私たちだけの秘密)
彼の澱みは、一層蓄積した。
祓うことなどしない。これは自分だけのもの。重たいそれを、身体中で抱きしめた。
しかしその幸せも束の間。
朔は何の前触れもなく現れなくなった。
(どうしていらっしゃらないの?)
ぱりんと音を立てて瓶は割れる。投げつけたのか、落としたのか。定かでないくらいに手は震え、視点が定まらない。こんなもの、役に立ちはしない。
(愛しているっておっしゃったのは、嘘だったの? 唯一ではなかったの?)
枕も袖も、ぐっしょりと濡れた。どうして私を選んでくれないの、という嗚咽をぶつけて。ぐるぐると、高熱に魘されている時のように意識が朦朧とする。ほんの少し先の星を見ることもできないくらいに。
だから望が行方不明でその捜索をしているのだと聞いて、不謹慎にもほっとした。
「……そう、それで、ね」
それなら、忍んでこれなくても仕方ない。
蝋梅が無事望を見つけて、塔にも安堵が広がった頃。百合もまた胸を撫で下ろした。
また王太子殿下が来てくださる、と。
お気に入りの服、お気に入りの香。それらを揃えて夜を待った。
でも彼は来なかった。
何日も何日も待った。朝まで来訪者がないと星を読見ながら、もしかしたらこの朦朧とした状態で見ることができていないのかもしれないと、眠らぬように窓辺に腰かけて刺繍をした。
けれど、星の示したとおり、待てども待てども彼は来なかった。しかし他の娘のところに通うわけでもない。
もしかしたら、警護が厳しいのかもしれない。そう自分に言い聞かせた。体の奥に渦巻く何かを必死に抑えつけて。
それなのに。
縋り付くように星を辿って。見えてしまったのは柘榴との夜。
悲鳴を上げそうになるのを、必死で堪えた。代わりに涙が、ぼろぼろと溢れてくる。
(どうして、叶ってしまうの?)
叶わぬことに絶望して、私をあなたの唯一にしてほしかったのに。
私だけがあなたを理解できる。私だけがやんわりとあなたを包み込む夢であれる。
なのに。
正妃になりなさい。
正妃はダメよ。星守になりなさい。
星守になっちゃダメ。妹の代わりに神を降ろしなさい。
俺の昏さを受け入れてくれ。でも本当に愛しているのは別の花で、俺はその側にありたい。
(どうしてみんな勝手ばっかり。私はただ、どんな形でもいいから朔さまの側にありたかったのに。どうしてどれも許されないの?)
ふつふつと沸き始めた思いは、次第にぐつぐつ沸き立ってゆく。
腹の底の方が熱い。それがどのあたりか、百合にはぼんやりわかっていた。呪いが、百合の怒りに共鳴するように噴き出した。
それは身体から糸のような細い形となって伸び、しゅるしゅると周囲を巻き込んでいく。
「何? これ」
呪いの糸は、とどまることを知らずに辺りを蛹でも作るかのように巻き上げていった。
くるしい。かなしい。くるおしい。
巻き上がっていくにつれ、感情が堆積してゆく。
これは、彼のものだ。
彼が私に、唯一はっきりとした形で残してくれたもの。その瞬間だけでも、自分を愛そうとしてくださった証。他の娘では、知覚もできず、害にしかならなかっただろう。
「けれど、私は違う。あなたの膿をわかってあげられる。ねえ!」
叫びは空しく蛹の中でこだました。