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その頃、蝋梅のいる部屋にもまた変化が起きていた。足音もなかったのに、静かに扉が開かれる。
星明りを背に、長身の男がそこには立っていた。扉もまた、音を立てることなく閉められる。一歩、二歩と、優雅な足取りで彼は近づいてくると、蝋梅の正面に腰を下ろした。そこでようやく、部屋の灯りが彼の姿の全容を照らし出す。
男とも女ともとれる美しい顔立ちだ。やんわりと見つめてくる金色の瞳は、そのまま見つめ返していると吸い込まれてしまいそう。
あれほど強く感じた李の香が消し飛んでしまったかのように、相手の甘やかな香が鼻をくすぐった。
「この部屋の娘ではありませんね」
開口一番、彼はそう言ってのける。
水仙の話のとおり、朗々と詩歌を歌い上げるような佳い声だ。それが、じわじわと耳から脳を侵してくる。五感のすべてが、彼に徐々に溶かされていくようだ。
蝋梅は、脳裏に望の姿を思い浮かべる。その声も、温もりも。そうすると何だか、この“夢の中にいるような心地”とやらにも対抗できる気がしてきた。
「それでもいらっしゃるのですね」
「あなたがたをも落とせたら、本物でしょう。それに、貴女からは敵意が感じられない。動物はそういうのに敏感なんですよ」
「おっしゃるとおり。私はお話をうかがいにきたのです。あなたのことを。まずはなんとお呼びすればいいか、お名前をうかがえませんか」
男はくすりと笑った。
「お好きに呼んでください。話せることなんて何もありませんよ。私は口説きに来ただけですから、むしろ貴女の話を聞かせて欲しいくらいです」
表情にも仕草にも、余裕が溢れている。袖を翻せば魅惑の香りが更なる追撃となって蝋梅を襲った。かといって、命を狩りに来るような鋭さは見受けられない。
「楽しそうですね」
「貴女よりは長く生きてますからね。普通のことじゃ楽しくないんですよ。どこかに少しばかりスパイスとしてスリルを求めてしまうのです」
「一国の中心部に潜り込むとか?」
ふふ、と男はまた笑みを浮かべた。すす、と今にも触れられそうなところまで、間を詰めてくる。
蠱惑的な香りがいっそう強くなってきて、蝋梅は鈴を握り締めた。金属の硬い感触が、まだ意識があると教えてくれる。
「貴女は我慢強いんですねえ。この間の星守見習いの子も普通の子よりは耐性がありましたけど。ネタバレ済みとはいえ私の誘惑にこれだけ耐えるなんて、ぜひ落としたいですね」
耳元で囁かれる美声は、甘い言葉でもないのに耳から溶かしてこようとする。
――蝋梅。
あの方は、いつもどんなふうに呼んでくれていたか。記憶を手繰って、思い起こす。自分の中に積み重なったもので、抵抗する。
そして、手掛かりを持ち帰ってくれた水仙のためにも。
「それは無理ですね」
蝋梅は振り払うように言い放つ。
「どうしてです? どなたか決まった人でも?」
「星守は、生涯を星読みに捧げるものなのですよ」
余裕のある微笑みを、見よう見まねで浮かべてみせた。
「ふうん。そういうことにしてあげましょうか」
男はするりと立ち上がると、窓辺に腰掛けた。窓の向こうでは、月が細くも爛々と輝いている。
「食事でもどうです。お腹がすいているんじゃありませんか」
「どうぞ。月でもお召し上がりになりますか」
水仙から、金華猫の概要は聞いてきている。月の精を長い年月をかけて取り込み、力を得るのだと。
男の目が、月と同じ色に妖しく輝いた。
「おやおや、見当をつけてきたのですね。たのもしい。では遠慮なく」
金華猫が指先で月をつまむと、うっすらとした月の写し身を抜き取り、美味そうに啜った。
「どんな味が?」
「つるりとしていて喉越しがいいですよ。少し甘いですかね。ライチに近いでしょうか。……そんなこと聞いて、どうするんです」
「月を食べたことはありませんから」
それもそうだねと、金華猫は笑んだ。
月を取り込んだせいか、妖しさが増している。何かしていないと、意識を保っていられなさそうだ。
「いつからこちらに?」
「んん? 秘密です。ミステリアスな方がいいでしょう」
「ちっとも」
蝋梅はにべもなく返した。害意はなさそうだが、話にならない。
「手詰まりですねえ。貴女が来てどうするつもりだったんです? 見習いごときに私が祓えるとでも?」
「口説きにくるのですから、話せるほどの知性がおありだと思いました」
「話してどうするのです?」
「あなたに害意がないなら、立ち去ってもらおうと思いました。人間と居住区域が重なったために、縄張りを守ろうとしたり、また迷い込んで身を守ろうとする神霊や怪異もいます。折り合いをつけられるなら、穏便にすませたい」
金華猫は愉快そうに、しばらく笑っていた。
「んん、残念。私はただ楽しいだけなんです。老若男女関係ありません。私の魅力にハマってほしい。ただそれだけなんですよ」
「美女もあなただったのですね」
色男は、サービスですよと月の影の中に入ると、姿かたちを変えてみせた。影を通り抜けたところから、絶世の美女が現れる。芳香がより強く放たれた。
「ここは美男美女の巣窟。楽しいこと、この上ないですねえ。気持ちのいいものですよ。昨日まで権力に媚びていたのが、他の相手に懸想していたのが、私に夢中になっていくんですもの。素性もしれない、そもそも人間ですらない相手に。可笑しいでしょう」
さっと雲が月を隠す。瞬く間に、金華猫の姿は最初の美男に変わった。
「さ、堅苦しい話は終わりにして、飲もうじゃありませんか。その桃のような唇が熟れてゆくのが楽しみですねえ」
杏が用意していた酒を、遠慮なしに彼は注いでゆく。蝋梅の前に置かれた杯を、結構ですと彼女は断った。
「つれないですねえ。じゃあ、菓子でも」
「いいえ」
「なんです、もう寝台に入りたいのですか?」
からから笑って揶揄うが、蝋梅はのらない。
「ねぐらを教えてくださるのですか」
「うーん、これだけ力を浴びせてもまだですか。強情ですねえ」
ため息ひとつついて、金華猫は頬を掻いた。
「今日はこれくらいにしておきましょうか。外から怒気がすごいんですよ。居心地が悪いからもう帰りますね」
やれやれといった風情で、彼は腰を上げる。そのまま軽い足取りで、扉へ向かった。
「怒気?」
蝋梅の問いかけに、足を止めて振り返る。
「忠犬ですね。褒めてあげなさい、彼は言いつけを守ってこの部屋の主を押さえてたんですから。隠しきれない怒気を迸らせながらね」
ひらひらと手を振りながら、彼は月明かりに消える。
蝋梅も追いかけようと立ち上がりかけるが、視界が歪んで再び膝をついた。頭は重いし、眩暈もする。その上ずしりと身体に疲労がのしかかってきた。
それでも壁を伝いながら、何とか斜向かいの部屋へと足を向ける。最後の力を振り絞って扉を開けると、中にはぐるぐる巻きにされて、それでもなお逃れようとする杏と、それを取り押さえる二人がいた。
「蝋梅!」
望は蝋梅の顔を見るや否や、飛んでくる。
「殿下、」
掠れた声でそう呼ぶと、呼んだ当人はふつりと糸の切れた操り人形のように、その腕に倒れ込んだ。
「蝋梅!」
ずっと脳内で思い起こしていた声が、耳元で聞こえる。いつもの匂いも、ぬくもりも。
そう思うと、身体の力が抜けてきた。力の入らない身体を、望が急ぎ抱き上げる。背中の向こうで、警護の兵が、この場はお任せをと声をかけるのがうっすら聞こえた。
「安心して、力が抜けただけです」
そう伝えるも、望は止まらない。途中で行き合った兵に、増援の指示を出すと、脇目もふらずに塔へと向かった。
「待っていてくださって、ありがとうございました」
心地よい揺れと温かさの中、そう伝える。
速度はそのままに、望はちらとだけ蝋梅を見やった。
「いいから休んでろ。目が覚めて、あの男に魅了されてるようだったら怒るぞ」
「はい」
不安定な意識の中に、金華猫の姿は入り込んでこない。ここは望の領域だ。
蝋梅は望の胸に顔をうずめて、意識を手放した。