76
舞い手のために用意された部屋に戻ると、しばらくして明るい声がかけられた。
「よかった。こっちにいたのね」
水仙の声に、蝋梅は安堵する。が。
「こっち?」
首を傾げると、望が後ろから、言うなとでもいうように首を振る。水仙の肩に乗った金華猫は、構わず続けた。
「貴女用の控室がめちゃくちゃにされてるんですよ。鼻がいいのを後悔しましたよまったく」
よほどだったのだろう。猫の小さな手を鼻の前で払う仕草をしてみせる。
「私を解放さえしてくだされば、信頼できる侍女役にもなりますよ。魅了術で、相手を無力化だってできますからねえ。どうです?」
「一番信用ならねえ」
望は即答した。蝋梅は水仙の後ろを覗く。いつも一緒にいるはずの百合の姿は、そこになかった。水仙はその視線に気づく。
「百合なら王太子殿下観察にいそしんでたから、置いてきちゃった。それより、あなたの舞よ! すごかったじゃない、どうなってるのあれ!」
興奮から、水仙は前のめりだ。
蝋梅は修行のいきさつをかいつまんで話す。
すると前傾姿勢は次第に直っていった。表情もだんだんと曇ってゆく。じいっと蝋梅の顔を見つめて、最後には泣きそうな顔になった。
「……怖く、ないの?」
「え?」
蝋梅は目を丸くする。
「だって、自分じゃないものが入ってきて、混ざってくんでしょ? 戻れなくなったらとかさ。そういうのあるんじゃないの」
水仙と、金華猫と、望と。蝋梅は順々に顔を見た。何とも言えない表情を、それぞれ三人ともしている。
(怖い?)
そんなこと、考えもしなかった。迷っている時間なんてなかった。少しでも早く、ものにしたかった。そうでないと、守れないから。
「そのためにいるんだもの」
傍らで、望はいっそう表情に影を落とす。
「でもね。たったひとつ、星みたいに殿下の光があって、最後はそれ目指して戻っていくの。必ず、呼んでくださるから。もっとちゃんとできるようになったら、きっとそんな心配もなくなるよ」
そう言って笑うが、水仙は納得いかない顔で口をへの字に曲げる。その頭を、ぺちりと白い尻尾が叩いた。
「本人がいいならいいじゃありませんか。それに、対抗策はひとつでも多い方がいいのでしょう。しかもなみなみならぬものが。あの星守ですら、ちぎれた尻尾を掴まされたんですから」
「そうかもだけどね。だけどねえ!」
水仙は蝋梅の背を何度も撫でる。蝋梅はその肩を抱き返した。水仙が落ち着きを取り戻した頃、再び来訪者から声がかけられた。
「みんなこっちにいたのね」
少しばかり痩せただろうか。百合が遠慮がちに扉を開ける。入ろうとすると、千客万来、更にその後ろに人影が現れた。香でわかったのか、百合が驚いたように振り返る。
「……王太子殿下」
新月の夜のような衣を纏った彼は、百合の背にそっと手を添えると、中に入るよう促す。そうして奥の蝋梅の方へと顔を向けた。
「今日の舞は素晴らしかったよ。あれを超えるのはなかなか難しいだろうな。踊り手が誰であれ」
「あ、ありがとうございます」
似た顔立ちではあるが、どうもまだ蝋梅には慣れない。
しかし朔はそんなことは気にも留めず、微笑みを向けてきた。年頃の娘たちが、心臓のあたりを押さえてうずくまる微笑みだ。
「笑いの種にするどころか、逆に妃候補と後見が青ざめてるよ。正妃にはなりたいけれど、比較されては困るとね。しばらくは対策で静かになるかな」
「はあ。お役に立てたのでしたら光栄です……」
例にもれず、横で胸のあたりに手をやっている百合を見ながら、蝋梅は返す。
「それともきみがもう一度踊るか?」
一瞬、眼差しが鋭くなったような気がして、蝋梅ははっとする。それは望も感じたようで、守るように肩を抱いてきた。その手は、どこまでも温かい。
「あれは、殿下とでないと踊れないのです」
「どうして?」
どうして。その問いに、蝋梅の頬が桃の花のように染まってゆく。花は頬だけでなく耳や首まで満開になってゆく。
「……殿下のことをひとりじめできて、そのうえご褒美までいただけるので、できることといいますか……」
桃の花の開花は、望にもうつる。
「殿下、ご存知ないようですからお伝えしておきますが、この子前からこうでしたよ」
水仙が告げ口すると、望は声を裏返した。
「そうなのか?」
「この間の花朝節でも、殿下が一番かっこいいと力説してましたからね」
「す、水仙!」
蝋梅は慌てて口を塞ぎに行こうとする。しかし逆に水仙に押し返され、望の腕の中におさまった。
「離さないであげてくださいね!」
「勿論だ。責任はしっかりとる」
蝋梅は開花のおさまらない顔を、袖で隠した。
満開の花盛り。更にそれをひとりじめするかのように、望の袖が覆う。そうしてその二重の帳の中で、後ろから耳たぶに啄むような口づけを落とした。
声が出そうになって、蝋梅は帳のひとつで口を塞ぐ。蜜を啄む鳥をねめつけると、相手は帳の影で笑んでいた。
「とりあえず着替えるから、諸々後にしてくれ!」
訪問客たちは、ある者は素直に、ある者は渋い顔で、部屋を出た。
「まあ、お姉さま!」
外に出るなり、聞き慣れない声と呼び方に、百合は声の主を見た。
「……凌霄花」
ゆっくりとその名を呼ぶと、彼女は嬉しげに顔をほころばせた。
次に出てきた水仙は、二人を交互に見る。百合と同じ栗毛の、初々しい少女だ。どことなく雰囲気も、百合に似ている。
「え、百合の妹さん? と」
凌霄花のその後ろに、彼女の視線は移る。
ひときわ華美な髪飾りを無数に挿し、目の覚めるような青の衣を纏った女性。袖を揺らせば、強い香りがあたりに立ち込めた。それも、安物ではなく洗練された高級品だ。香り始めから最後まで、少しずつ変化していく。
「放春花さままで、どうしてこちらに? 王妃のお一人が、わざわざ出向く場所ではありませんでしょうに」
最後に出てきた朔が尋ねると、扇子の向こうで凌霄花が代わりに答えた。
「わたくしが舞の助言をいただくのについてきてくださったのです。こんな機会でもないと、お話しできませんでしょう。柘榴さまから、こちらに蝋梅さまが控えていらっしゃるとうかがったものですから」
初夏の花と鳥をあしらった扇子が、傾けられる。
淡い色合いのそれは、けして自己主張するわけではない。が、そのうしろのそれは、金銀の糸をふんだんに使い、同じ題材でもその財力を前面に押し出していた。
扇子で口元を隠して、放春花は初めて声を発する。
「まあまあ姉妹でそっくりだこと。安心したわ」
ねっとりとした甘い声だ。しかしそれは若い娘ようなそれではなく、百戦錬磨のやや低い声音。
「次の舞は大好きなお姉さまに代わりに踊っていただいたらいいわ。あなたも昔は正妃候補だったもの。願ったりかなったりじゃない。星冠は豪勢な髪飾りで隠せばいいわ。あなたも神くらい降ろせるのでしょう」
「そんな簡単なものではありません」
隣の衣装にでも着替えるような気軽さに、水仙が語気を強める。青家の妃は、普段女官をすくみあがらせている目つきで、彼女を睨んだ。
「あなたに発言は許してませんの」
はたはたと、豪勢な扇子であおぎながら、彼女は順繰りに周囲の人間を見ていった。最後にその目は、百合に辿り着く。
「星守など、陛下のお考えが変わらない限り冷遇されていく一方。今は過去の威光が残っていても、先のことまではわからないでしょう。でも正妃は別。そしてこの子が正妃になるのですから、あなたは影武者にでもなるくらいしか利用価値はありませんのよ。星守と正妃が両方青家から立つなんて、他の五家が許すはずないでしょう。絶対にならないでちょうだいね」
「彼女はそんな都合のいい存在ではありません!」
開けっ放しになっていた扉から話を聞いていた蝋梅が、たまらず抗議する。放春花は片眉を跳ね上げた。
「口を慎みなさい、庶民風情が。第二王子殿下も、もっとしっかり教育なさってくださいませ。やはり、妃は貴族になさった方がよろしいんじゃありませんの。この程度の雑草、今は物珍しくともすぐに飽きますわ。五家の温室で丁寧に育てられた花が、恋しくなることでしょう。早くお選びになられた方がよろしくてよ」
毛虫でも見つけたように忌々しげだ。その眼差しを遮るように、望が蝋梅の前に進み出る。
「放春花さま、私の妃は彼女一人。彼女へと侮蔑は私への侮辱ととらえますが? そもそも彼女のいるべき部屋が荒らされたのは、此度の祭祀の手配を行った五家の不始末ではありませんか。よもや、その五家がしたということはありますまい」
静かな怒りを秘めた声音だ。
しかし放春花はこれしき、びくともしない。いかに威光を笠に着ようと、後宮の荒波を渡ってゆくには、本人の度胸がものを言う。ましてや寵愛を得ることのなかった彼女にとって、蝋梅は仇敵にも等しい存在だった。
「ええ、ええ。勿論わたくしはそんなことはいたしませんとも。我らに媚びを売る小さき虫のことまではわかりませんけどねえ。妃には、おいたをされないだけの、品格が必要。王太子殿下、あなたさまはおわかりですよね」
話を振られて、朔はそれを受け流す。
「星守になれるかどうかは、星の導きによるもの。星は我らに忖度などしないでしょう。そして、私もまた王の妃となるに相応しい人物を選びます」
放春花はばたばたと乱暴に扇子であおいだ。怒りで顔が煮えている。
「小さい頃から、正妃は青家の娘と決まっていますもの。この子以外におりませんわ。さ、参りましょう。贅をつくした天女の如き衣であれば、羽虫の飛ぶのなど霞んで見えます。あなたの謙虚さは美徳ですが、教えを乞うまでもありませんわ」
せめてもの抵抗とばかりに、彼女はそう言い放つ。そうして凌霄花の背中をぐいぐい押しながら、足早に去っていった。
「悪かったね。本来きみたちは権力争いには無縁のはずなのに」
二人が見えなくなるのを確認して、朔は向き直る。大型台風が去った後のようだ。
饗宴はまだ続いているようで、その騒がしさが離れたところから再び聞こえだす。
「俺もそろそろ戻るよ」
そう告げて去ろうとする彼を、百合は引き留めた。饗宴に吸収されて、辺りに人は少ない。
「あの、王太子殿下。少しお時間をいただいてもよろしいですか」
(蝋梅は運命を掴んだ。私だって、踏み出せば)
これまでにない何かが、背中を押す。奥底から渇望が手を伸ばす。
(本当は、私だって)
ずっとずっと見てきたんだ。凌霄花がそう言われる前から、隣を夢見てきたのだ。
どくどくと鼓動が早くなる。
「水仙、先に戻ってて」
「う、うん」
何となく、察してくれたらしい。金華猫を抱いて、水仙は踵を返す。
「俺たちも着替えよう」
「はい」
望と蝋梅も、扉を閉める。残ったのは朔と百合だけだ。
ゆっくりと、百合は息を吐く。どこか握っていたい手で、袖を握り締めた。最後に星に祈る。
(ああどうか、私の願いが叶いますように)
「もし私がお眼鏡にかなう舞を奉納できたなら、妃にしていただけますか。今、人心は乱れています。妃に神を降ろすものがいれば、初代の再来となりましょう」
二人にだけ聞こえるほどの潜めた声で。百合は口にする。本当の願いを。
「勿論、将来の王妃がそうであれば、民の心を安んずることができるだろうな。しかし、二度、だ。俺たちが言葉を交わしたのは。それだけでできるものなのか? 相当な負担と聞いたぞ」
「――二度?」
聞き間違いか。百合は首を傾げる。
「どうした?」
「夜に何度も、私の部屋にいらっしゃったではありませんか。愛していると、何度も……」
しかし朔は、呆気にとられた顔を見せた。
「確かにきみとは会った。花朝節と、塔で一度ずつ。でも夜、だと?」
記憶をたどるように、王太子は考え込む。それがあまりにも身に覚えのない様子で。百合は次第に青ざめていった。
(そんな、だって)
夜を背負って、現れたのは確かに彼だった。百合の記憶の中には、そう刻まれている。
何をして、何を話したか、しっかり覚えている。朝もその香が残っていたことも。
百合は一歩、また一歩と、距離を詰める。今にも触れそうな位置で、切り札を口にした。
「赤き花の妃を慕っていらっしゃること、打ち明けてくださったではありませんか」
途端に、王太子の顔が険しいものに豹変する。
「そのようなことはあり得ない。虚言を流すのはいただけないな」
僅かに瞳の奥が揺れている。気取られぬように細心の注意をはらいつつも。これだけは。
「虚言……。そう、ですか」
気づけば百合は駆けだしていた。
普段、裾なんて持ち上げて走ったりしない。そんなこと、はしたないと言われていた。それなのに。少し先を歩いていた水仙を、あっという間に追い抜く。
「え、百合? どうしたの?」
水仙は慌てて追いかける。腕の中の金華猫は厳しい目でその背中を見つめた。
「ないことになってるのね」
一直線で塔の自室に戻ると、大きな音を立てて扉を閉める。そんなことをしたら、鬼教官に叱られそうだ。でもそんなこと構っていられない。
扉に体を預けて、天を仰ぐ。
「どうしたのよ! ねえ!」
息を切らして、水仙が扉を叩く。背中にその振動が伝わってきた。けれどそれは百合の心まで届かない。
(そうよね、私は気まぐれだったんだもの。誤魔化したくもなるわよね)
胸の中が空っぽだ。欲しかったものは、そんな手の届くところにはなかったのだ。
(その他大勢のうちの一人。そんなのわかってたじゃない。でも)
「百合、ねえ、入れてよ。そうだ、とっておきのお菓子があるのよ。三人で食べようと思ってとっておいたの」
「……お願い、一人にして」
「ほっとけないのよ。この間からあなたおかしいもの」
百合の脳裏に、朔の表情が浮かぶ。呆気にとられた、信じられないとでも言うような。
「おかしい? 幻覚でも見てたって言うの? 夢と現実を取り違えてる? 私が?」
夢なら。夢のままにしておけばよかった。覚めなければよかった。
心の底、固まっていた切望が蠢きだす。満たされなかった空っぽの自分の中で、膨れてその空虚を食らってゆく。
「そういうわけじゃないけど……とにかく話してよ」
「話せることじゃないの! ほっといて!」
「でも!」
なおも水仙は食い下がる。
――今のまま、楽しく過ごせたらいいな。
そう願った彼女。
(その願いが叶えば、私の望みは叶わない。それをわかってて、そんなふうに接してくるの? そもそも私たち、星守の椅子を巡って争う間柄なのに?)
ぐじゃぐじゃと、黒いものは這いずり回る。空腹を満たしたくて、どろどろの感情を食らってゆく。
けれど、そのどろどろはこんこんとわき出してきた。ありとあらゆるものが、自分の敵に見えてゆく。
「……私、水仙の思うような人間じゃないの。友達でも仲間でもない。もう、かまわないで!」
ずるずると、扉を伝って百合は崩れ落ちた。誰もかれもが自分を傷つけにくるような気がして。
扉の向こうでは、足音が遠ざかってゆく。百合は目を伏せた。
自室へと向かう、水仙の足取りは重い。後ろ髪を引かれようと、今彼女にできることは何もなさそうだ。
「振られたのかしらね」
「……振られたあと、一人にしてほしい人もいれば、愚痴を聞いてほしい人もいるものです」
腕の中で金華猫が返す。人生経験豊富な、酒場の主のようだ。
「でも、何か振られただけじゃない気がするのよね。勘なんだけど」
水仙の言葉に、白猫の耳が反応する。
「私、何にもできないのね。けっこう長いこと一緒にいるのに、肝心な時にさ。あっ、ちょっと金華! どこ行くの?」
上から降ってくるため息を避けて、金華猫は廊下に降り立つ。
「猫集会ですよ。人間ってものは面倒くさいですからね」
そう言って、後ろを振り返りもせず下に降りていった。