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急ごしらえとはいえ、五家の財力にまかせてしつらえられた舞台は、立派なものだった。
五色の幕がかかり、本来の星祭並みに人が集められている。星神に捧げられる犠牲も、大型の牛に豚、羊と揃えられ、酒も青銅の器に満たされていた。
舞台脇には楽師もずらりと並んで、今や遅しと出番を待っている。
「もうじきだな」
舞台袖で、望は衣装が崩れぬよう気遣いながら抱きしめる。装飾品は、望が馴染みの店に頼んでくれたものだったが、服は塔で大切に保管されていたものだ。念入りに干してはいるが、うっすら虫除けの薬草の匂いが残っている。
星守さまが蝋梅と同じくらいの頃、星祭の際に毎年纏っていたものだと、菊花は口にしていた。それらしく、古いながらも細やかな刺繍がたっぷりとほどこされている。
初代の役目を果たすのだ、これ以上相応しいものはない。そう続ける彼女の顔は誇らしげだった。
しゃら、と簪や首飾りが音を立てる。金色のそれらには、望を表す満月の印があしらわれていた。
都に来て、自分を作り上げてくれたものたちだ。それが蝋梅の背中を押す。そして。
「蝋梅」
紅がとれるから代わりにと、望が額に、頬にと啄むような口づけを降らす。蝋梅は目を細めた。
緊張がないわけではない。けれど、どこか大丈夫だと思えるのはこれらのお陰だ。
出番だと声をかけられ、蝋梅は一歩踏み出す。
舞台に向けられるのは好奇と敵意の目が一対九くらい。冷たく射すくめ、品定めする。
「まあ地味だこと。うちの娘にすればよかったのに」
「まともに踊れるのかしら。教養もなしに」
「第二王子殿下も騙されて、お可哀想に」
舞台上にも聞こえるように、不躾な会話が飛び交う。
「蝋梅」
望はそれを遮った。
「俺はお前を離さない。存分に魅せてやれ」
「――はい」
答えて蝋梅は深呼吸する。
それまでのさざめきも、上空を旋回する風の声も、混じり合って流れていった。流れに、呼吸が、身体が、意識が、渾然一体となる。
流星のように、蝋梅は駆けた。
冷やかしの声は、自然と止んだ。
ただの舞ではない。それは誰がみても明らかだったから。口を噤んで、見入らずにはいられなかったのだ。
柘榴の舞、あれは動だ。艶やかで華やか。見るものの情熱を揺すぶるような。
対してこちらは厳かで静かな動き。けれど描く円が増えるたび、風のうねりは大きくなる。天へ呼びかけ、答えを乞う。
これは確かに、神を降ろしている。
――なんて、美しい。
心の奥底から、彼らは驚嘆した。誰かが地味だと評した舞台上の少女は、指先まで細やかな光の粒を纏っている。躍動する星屑を率いて水袖が流れるさまは、星が尾を引いていくよう。
見たものの願いを叶える流れ星。神をその身に降ろし、なお人としての矜持も持ち合わせている。
そしてそれを支えるのは、地に繋ぎ止めるのは望の役目だ。巫の目を捕らえて離さない。楔となって、羽衣を縫い止めている。
いつ曲も舞もやんだのか、人々にはわからなかった。しんと静まり返って、ただただ魂の震えがおさまるのを待っている。
演者が去って舞台が空っぽになってなお、呆けたように眺めていた。
衆目から解放された舞台裏で、望は崩れる蝋梅をしっかりと抱きしめた。天へと取られないように。
「殿下、大丈夫ですよ。ちゃんと意識はありますから」
ありがとうございますと告げる唇は塞がれる。蝋梅はうっとりと瞼を閉じた。
紅が取れるのもかまわずに、二人は唇を奪い合う。向こうではようやく我に返った観衆が、遅い歓声を上げていたが、二人の耳には入らなかった。
「第二王子殿下、陛下がお呼びです。第二王子妃候補と共に来るようにとの仰せです」
扉の向こうからかけられた声に、望は蝋梅から唇を離した。やや不満げだ。
「後にしてくれ。消耗が激しい」
そう返す彼に、蝋梅は返事を重ねた。
「いえ。参ります」
気づかわしげな表情を浮かべる彼を尻目に、蝋梅は崩れた服を直し、紅をひく。
望も衣服の乱れを正すと、二人で王の元へと向かった。
祭祀はつつがなく終わり、捧げられた供物が分けられている。王はその喧騒を玉座で聴いているようだった。
彼の傍らにいるのは兵ばかりで、柘榴も朔も、他の王妃たちもいない。そればかりか、二人が前に進み出ると、兵たちも下がっていった。
やけに静かだ。蝋梅はつい、見える範囲で辺りをうかがう。
「手放しでは喜べないが」
もったいぶるように前置きして、王は言う。
「素晴らしい舞だった。見ている方まで心が洗われるようだ」
王弟のような破顔とまではいかぬものの、目尻が僅かに下がっている。声音もいささか柔らかく感じられた。
「先日は、手荒な真似をしてすまなかったな」
「殿下を思ってのことでしょう」
情の深い人なのだ。それが痛いほど蝋梅にもわかる。だからこそ。
「……呪いを解かせていただくわけにはまいりませぬか」
王は黙って蝋梅を見下ろした。前回の烈火のような感情は迸ってこない。静かに、彼は口を開いた。
「蝋梅よ。わしに呪いをかけておるのは、望と同じ者か」
「おそらく、大本は同じでしょう」
その答えに、王は嘆息した。
「わしの呪いが解ければ、他へ矛先が向こう。それが一番恐れていることよ」
口髭を手で弄びながら、彼は続ける。
「わしが即位した時、晶華を大国として確立しようと誓った。そしてそのとおり、版図を広げてきた。恨みなどたくさんあろうな。もとよりそれは承知の上よ」
その眼差しは、目の前の二人ではなくどこか遠くに向けられているよう。
「陛下は、死ぬのを恐れていらっしゃらないのですか。私に呪いを解くよう言う人々は、恐れ慄き、せかしました。罵詈雑言や暴力に形を変えて。しかし陛下にはそれが見られません」
「そうかもしれん。そうだな、その先が楽園であればあるいは。蓮も、舞が得意だった。そなたのような神々しさがあったわけではないがな。とても、楽しげに踊る女だった。風も共に踊るようだった」
蝋梅は目を見張った。
過去に思いを馳せる王は、これまでになく哀しげに笑む。胸が締め付けられるくらいに。
「素敵な方だったのですね」
「そなたは知らなんだな。あれは楽園に咲く花だった」
傍らの望は、僅かに目を伏せてそれを聞いている。
蝋梅は再び王の目を覗いた。そこは深い海の底のように、光が届いていない。
「陛下は、星に晶華の繁栄を誓われたのですよね。ならばなぜ、それを閉ざすようなことをなさるのですか。陛下が呪いに屈したとなれば、国は乱れましょう」
「目指すものは、時と共に変わる。それだけのことよ」
「変わらぬものもあります。陛下の身に何かあれば、殿下が悲しみます。私は、殿下の心をお守りしたい。それには、陛下の無事も含まれるのです」
王は何か思案するように髭を撫でる。しかし口から出たのは、「疾く休め」の一言だった。
「顔が白い。望、そなたも心配だろう。下がるがよい」
王が手を上げると、兵たちはまた元の配置に戻る。それ以上話すことはないとでも言うように、王は手で追い払った。