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「調子はどうだ?」

 太陽がだいぶ西へ傾いてから、望は戻ってきた。

 もうそんな時間かと、蝋梅は膝をつく。ぺたりと座り込むと、立てなくなった。そのまま石畳の上で大の字になる。

 空では白い雲がゆったりと流れていった。

「なるべく空っぽにして、受け入れ易くとは思っているのですが、まだうまくいきません」

 どうせ昼はまだだろうと、望はおこわや果物の包みを揺らす。そうして脇に立てかけていた竹筒を振って、眉をひそめた。

「水が減ってない。飲めって言っただろ」

 文句を言いながらも、望は蝋梅を助け起こすと、口に水を含ませた。

「裏に水場がある。行くぞ」

 望に手を引かれて、蝋梅は歩いてゆく。繰り返し北斗星君の助言を唱えながら。

 門を出て裏に回ると、確かに湧き水が噴き出ていた。ちょうどいい湯があるからと、浸かりに行くのはいつも暗くなってからだったから気づかなかった。そこと違い、手をひたすとかなり冷たい。顔を洗うと、火照りが静まってきた。

 ちろちろと、水のせせらぎが聞こえてくるようになる。蝋梅は息を吐いた。

 甘くつけた若桃を頬張る間、望は裾を捲り上げて足を揉んだり、ツボを押したりしていた。

「一国の王子にしていただいてよいのでしょうか……」

 武術とともに仕込まれたというそれは、確かに心地よい。特に足裏が。

「妃の身体に触れることの、何が問題なんだ?」

 望の手が、流れるように触れてゆく。触れているところは温かく、何やら心地よい。

「何となく、わかる気はするのです。殿下から流れてくる気は、温かい。逆に呪いは冷たくて重い。呪いを解く時、力任せに呪いを消滅させるわけではないのです。一度受け止めて温かな光と混ぜて分解してゆく。それが陰陽の理だというのなら、自分だけの中で完結させるのではなくて、自分もその一部として考えれば」

 望は裾を戻すと、隣に座る。そうしてそっと唇を塞いだ。喉まで渋滞していた言葉が、柔らかな気に流されていった。

「こういうこと?」

 悪戯っぽく、望は囁く。

「……もう少し、いいですか。経口で私の気を吹き込んで殿下の気をこちらで取り込んで……」

「いいからさ、そういう小難しいことは」

 再び途中で思考は途切れさせられる。これでもかと、深く長い。回路が焼き切れそうだ。

「でんか、」

 蝋梅は苦しげに息継ぎする。が、自分から離れることはしない。

「殿下……っまだ、足りない、です」

 今度は自ら、相手の体にしがみつく。

 とてもとても甘くて、とてもとても幸せ。

 余計な思考が削ぎ落とされてゆく。他には何もないくらいに。貪るように唇を奪うと、呼吸の合間に望が尋ねた。

「まだ足りない?」

 息が上がっている。心拍数も、体温も。心臓が融けてゆきそうだ。そうして混じり合ってしまいそうなほどに。

「まだ、もっと。欲しいです」

 溶けかけたまなこでそう訴える。相手の答えを待たずに舌を絡めた。望の方もそれに応えるように絡めてくる。

 陰陽が中で掻き回されているのがわかる。理屈ではなく、自然とそうあるものだと。生命の、宇宙の一部として。

(あなたがいなければ、わからなかった。あなたが必要だった)

 空色だったはずの望の姿が、いつの間にか橙へ、そして茜色へ変わっていた。身体は重い。でも何となくわかる。自分の内に渦巻くものが。

「わかりそうか?」

 望は手を差し伸べ、再び廟へと先導する。

「……忘れないうちにやってみます」

 門をくぐると、石畳の舞台を蝋梅はかけだす。一番星がきらり、金青色の空に光った。それが合図。

 水袖を流水のように流す。腹の内から息を吐き出し、身体のすみずみまで気を巡らせる。

 静かにしみ出た水が、やがて集まり壮大な流れとなるように。

 か細い天のひと吹きだった風が、巨大なうねりとなるように。

 小さな動きが、次第に大胆に、呼び込むような動きになる。木々のざわめきに翻る衣の音が重なる。望とひとつになった時の、あの廻り廻る感覚を、蝋梅は身体中で描いた。

 辺りは既に暗い。その中で、蝋梅は自分が星になった気がした。




 星冠が、ちかりちかりときらめく。灯りもないのに、その姿が浮かび上がった。望は、その舞姿を見守る。

(本当に、自分のものになった気がしないな。どこかへすぐ飛んでいってしまいそうだ)

 ひらりと、水袖が舞い上がる。弧を描く蝋梅の瞳が、望を射た。真っ直ぐに、心臓を。望は思わずその場でへたりこんだ。これが、舞など舞ったことのない人間だろうか。

 天を舞うことを宿命づけられたかのように、その動きは風を、流れを捉えている。それに応えるように、体中を神々しい気が包み始めた。

 美しい。あまりにも。跪いてしまいたくなるくらい。

 でも、望は知っている。もっと、跪いてその足元に口づけずにはいられないくらいの絶対性。あの剣を発現させた時。その時は確かにそこに彼女の意思があった。

「おい、蝋梅!」

 もう一度はじめから舞おうとする蝋梅の腕を、望は掴む。すると、蝋燭を吹き消すように神気が消えた。はっとしたような表情で、黎明の瞳が天色を映す。

「意識が、飛んでました……」

 思い出したように、呼吸を乱す。望はその腰を抱いて支えた。

 まだどこか焦点の合わない目をしている。ひとまず竹筒を渡して、水分補給させた。

(あの神、叔父上だけでなく蝋梅を神の器、依代にしようとしてるんじゃないか。今度は直接介入できるように。でも、命を削るような方法は取れない。そして呪いも止めなきゃならない……)

 額の汗を拭いてやりながら、望はその横顔を見つめる。彼女の指先が、かすかに震えながら自分の服を握っているのに気づいて、手を重ねた。

「俺も舞う。俺だけ見てろ」

「殿下」

 蝋梅は目を見張る。

「一人にしないって言っただろ。お前が剣を使う時は、一緒にいる。俺は蝋梅を地上に留めておくための楔、そう思ってくれ」

 意識が乗っ取られるたびに、望はその手を引いた。玄い瞳の夜が明けるまで、名を呼ぶ。回を重ねるごとに、蝋梅が消耗していくのがわかった。糸の切れた人形のように、その場にくずおれる。

(そりゃそうだ、石を埋め込んで記憶吹っ飛ばしたくらいなんだ)

 それでも立ちあがろうとする彼女を、望は強引に座らせた。

「時間がありません」

 息も絶え絶えに、蝋梅は腰を上げかける。それを無理やり抱きしめて膝に乗せた。

「無理するな。匂いが一番記憶に残る。終わったら必ず抱きしめるから、思い出してくれ、俺の香で」

 胸の中で、蝋梅はぼそぼそ、はいと返事する。

「じゃあ、今は覚える時間だ。寝ろ」

 服でぐるぐるに巻いて、望は蝋梅を運んでいく。蝋梅はその首元に頬を寄せた。

「殿下」

「ん?」

「いてくださって、ありがとうございます」

 望は蝋梅を抱き直す。

「約束だろ」

 廟の向こうには北斗七星が、はっきりとその姿を現している。何よりもその存在感を示している。北極星さえも差し置いて、じっと自身の巫の成長を見守っているように思えた。

 望はそれに真っ向から向き合った。




 夢の世界で、また彼は現れるだろうかと蝋梅は期待していた。すぐに打ち解けなくてもいい。望がしてくれたように、僅かずつでも歩み寄れたら。

 けれどその夜、彼は夢には出てこなかった。それどころか、何も見なかった。

 気づいた時には朝で、陽も高くて、望が心配そうに顔を覗き込んでいた。襟元に擦り寄ると、あの香が漂う。蝋梅は目を細めた。

 水を汲みに行った望を見送って、蝋梅は廟の階段にひとり腰掛ける。青葉や繁る草の香りが運ばれてきて、蝋梅は目を伏せた。

 塔はさほど緑深くないから、ここまで強い生命力の宿った風は初めてだ。この山に宿る力が、神気を呼び込み易くしているのだろう。

「ここはよい。静かで人の心の移ろいから遠い」

 その声に、蝋梅は弾かれたように目を開けた。傍らに、そこだけ夜を纏っているような青年がいる。

 名を口にしようとして躊躇う。ここは、夢ではない。

「異境の神は人との恋を知り、堕ち、あのようになった。そなたはそうなるべきではない。あれは、あれの心は永遠ではない。我が力に揺蕩い、忘れ去るとよい」

 深淵の眼は、厳かにそう告げる。まるで神託のように。

「そうですね。きっと、苦しいこともあると思います。私も自分の中にこんな気持ちがあるとは思いませんでしたし、できればない方がいい」

 蝋梅は蕾のように笑んだ。

「でも、そんな心があるからこそ、生きたいと思うようにもなったのです。だから私は、大切にしたい」

 幻だろうか。自分が見たいと望んで創り出したのか、それとも白昼夢の中に現れてくださったのか。どちらにしても、答えを返す。

「ふん。そなたは我らと人の中間にあるもの、公平であるからこそ、力を託せる」

 玄の青年は感情を滲ませる。今、彼と自分を繋ぐものはない。夢も袖も手も。

 それでも彼は消えない。

「でも拒まないでしょう」

「神は拒まぬものだ」

 彼はそう言い切った。疑いようのない在り方だと。

「なぜ、そこまでして人間に力を貸すのです?」

 湧いた疑問を素直に問いかける。それにも彼は即座に返した。

「神は愛では存在できん。願いがあってこそ信仰が生まれ、神の存在が保たれる。生きるため、とでも言うのか。人間がいなければ、神は存在しないのだ」

 どこまでも澱みない答えだ。神とはそういうものなのか。

 蝋梅は、自分は神ではないと言った星守を思い起こした。揺らがず、絶対的なものなのか。まったく交差することのない。けれど。

「人間も神も、一人では生きられないということでしょう。そこは同じではありませんか」

「同じだろうか。そこにある感情は違う」

「両立は、難しいものでしょうか」

「人間の時間は短い。検証が足りぬな」

 蝋梅は、青年ににじり寄る。そっと手を伸ばすと、指先でその裾に触れた。

 確固とした感触がある。これは、長庚の姿を借りるだけの、仮初の形ではない。見上げると、玄の青年は腰を屈めた。

「ここは私を祀る廟、聖域だからな。この形をとってもあちらから見えることはない。言葉を交わしても」

 少し考えるように固まって、それから彼は袖から指先を出した。人差し指が、蝋梅の頬に触れる。何を意図しているのか、光を映さぬ瞳から読み取れない。けれど初めて、蝋梅の顔が映り込んでいるのがわかった。

「……北斗星君さま?」

「もしそなたの心があれから離れたら、検証してみるか」

「検証、とは?」

「しーまーせーん!」

 首根っこを掴まれて、蝋梅は後ろに引っ張られる。いつの間にか望が戻ってきていた。不遜にも、玄い青年を睨んでいる。

(殿下にも見えてる?)

 やはり実体化しているのかと、二人を交互に見る。その二人は、「離れない確証はないだろう」「離れる確証もです」とやり合っている。

 北斗星君は、不快感をあらわに、望を見下した。

「それはそうと、そなた、我が巫に黙っていることがあるだろう」

 黙っているわけでは、と口を尖らせて、望は祭祀で舞を舞うことになった話をした。

「嫌がらせだなあ、嬢ちゃんへの。恥かかせて、他の娘を優位に立たせるつもりだぜ」

 どこに隠れていたのか、長庚がひょいと姿を現す。こちらは透けたままだ。目が合うと、にっかり笑った。

「優位も何も、他には娶りません。茶会もすべて断っていますから」

「そうなのか?」

 長庚は素っ頓狂な声を上げ、蝋梅は

「えっ?」

と目を丸くした。北斗星君は、苦虫を噛み潰したような顔をしている。

「何で蝋梅がそっち側なんだよ。いいのか? 俺は嫌だ。蝋梅が他の男と睦まじくしていたら!」

 望はいっそう蝋梅を近くに寄せる。玄の青年はそれに冷ややかな眼差しを送った。

「それに、青連翹が行方不明のまま見つかっていないのですよ。有力な跡取りを失って、青家は揺れています。他家でも分家ではありますが二人戻っていません」

「なるほどな、そりゃ焦るわけだ」

 長庚は腕組みして唸った。蝋梅は星冠をきらめかせる。しかし、その視界は曇りの夜のように星の導が見えなかった。

「追えない、か……。これも檀の?」

「その話はひとまず後だ。さすがに青家の私兵が動いているだろう。どうにもできないことではなく、今は舞に集中すべきだ」

 頭をくしゃりとしようとして、すかす。長庚は口をへの字に曲げたが、すぐに肩をすくめた。

「祈りを捧げられるのはよいが、我が巫がそのような瑣末な思惑に負けては困る」

 北斗星君も、静かな中に気持ちがこもっている。蝋梅は頷いた。



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