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紫霞山は、字の如く菫色の霞たなびく霊峰だ。
国にとっても重要な場所であるため、天公廟は大事に整備されているものの、それ以外は殆ど立ち入る者はいない。
蝋梅は廟をさっと清め、供物を供えて神々に拝する。そうして廟のすぐ前の広場に出た。
石畳でかっちりと整えられたそこは、陽の光を浴びて白くきらめいている。目を細めて振り返ると、廟へと上る階段に、一人の青年が立っていた。
腕組みをして仁王立ちしている姿は、菊花のよう。鬼教官系の流行りなのだろうか。蝋梅はそんなことを考えながら相手に礼をする。
幽霊教官は、にかっと破顔した。
「さて、始めよう。老師だが、さすがに神から直接教わるわけにはいかない。というわけで俺だ」
「長庚さまは、心得のある方なのですか」
「心得ってのとはちょいと違うんだがな。星祭で奉納する舞。あれは本来、選ばれた巫女が神を降ろすためのものだった。それを使って、北斗星君さまの力を降ろす。慣れてくれば、北斗を踏むくらいで降ろせるようになるらしいから、練習あるのみだぜ。一応、王族は全員踊れるように叩き込まれてるんだ。だから、体の動きは教えられる。ほら、前にちょっと教えただろ」
塔で教わったあれか、と蝋梅は頷く。
「いやあ、何となくで少し教えてた俺スゲー! ただ、そこから先はあんたの仕事だ」
途端に空気が変わる。蝋梅は息をのんだ。
確かに長庚の姿をしている。けれど、底に何か違う存在がいる。
「いくぞ」
「はい!」
唇を引き結んで、蝋梅は返事をした。
水袖と呼ばれる長く伸びた袖で弧を描くと、両の袖は合わせて円となった。くるりくるりと、長庚の声に合わせて動いてゆく。
はじめはその波紋のような動きに感心する余裕があった。が、時間が経つにつれ、息は上がり、体の動きは鈍くなってゆく。
「腕が上がってないぞ!」
「一拍遅い!」
やはり鬼教官だ。容赦なく檄が飛んでくる。
しかし、菊花に鍛えられてきたのだ。少々のことではへこたれない。
額に滲んだ汗を拭って、蝋梅は呼吸を整える。
「老師! 全然神を降ろせる気配がしないのですが!」
その訴えに、鬼教官は表情ひとつ変えない。
「とにかく体を動かす! 体が覚え込むまで動かす! 筋肉に刻み込め!」
「はい!」
ひたすらに舞を繰り返して。
空はいつのまにか茜色に染まっていた。望に声をかけられて、蝋梅はそれにやっと気づく。もう足は棒のようだ。
「遅くなってすまないな。大丈夫か」
汗に濡れた髪をよけて、望は頬に触れてくる。
蝋梅はそれに安堵して、目を細めた。
「まだ神を降ろせていなくて……」
「初日だろ。焦らなくていい」
そう言うと、望はひょいと蝋梅を抱き上げた。
「しっかり栄養をとって、休め」
望の腕の中で、蝋梅は泥のように眠った。夢の中でも、昼間の長庚の声が響く。蝋梅は必死に腕を、足を動かした。
(早く、できるようにならなきゃ)
この、自分を包む温もりを守らなくては。そう思うと、伸ばす手に力がこもる。
その袖が、何かに引っかかった。驚いて動きを止める。袖の先を辿ってゆくと、見知らぬ青年が長い袖の先を掴んでいた。
「どちらさまでしょうか」
問いかけるも、返事はない。何も言わずに、ただ蝋梅の方を見つめている。
夜のような黒い服や髪に、宇宙のような玄い瞳。
吸い込まれていきそうなそれに、蝋梅はどこか懐かしさを覚えた。
青年は掴んだ袖に目を落とす。
「反る者は道の道なり。弱き者は道の用なり。天下の万物は有より生じ、有は無より生ず」
朗々と。山々に響き渡るこだまのように、彼は歌う。
答えに窮していると、青年は袖を離した。途端に夢もそこで途切れる。
目を開けると、まだ辺りは暗かった。けれど、いつもの香が涼気の中を漂っていて、望の腕の中だとわかった。しっかりと、風邪をひかぬよう上衣ごと抱きしめてくれている。耳を澄ませれば聞こえてくる寝息までもが愛おしく感じた。
起こさぬよう細心の注意を払って腕から抜け出すと、廟から外へと出る。北斗七星はまだ群青の空に瞬いていた。
「どうした?」
後から望が出てきて、後ろから抱きしめる。重なったところから、温もりが広がった。
「すみません、起こしてしまって」
望は小さくかぶりを振る。群青に染まりながら、蝋梅は夢で見た玄い青年の話をした。
青年の台詞を、望は反芻する。二度繰り返して、そうして口を開いた。
「蝋梅が剣を初めて発現させた時って、どうだったんだ?」
「とにかく助けたい一心で、それしか考えてなかったといいますか……」
「うまく言えないけどさ、それじゃないか?」
蝋梅は首を傾げた。
「空っぽってことだよ。神を降ろすのに、他の思考が大きすぎたり多すぎたりして、入れるところがないんじゃないか? 舞を踊れるようになるまでは、どうしても考えちゃうだろ。次はこの動きとか何拍空けてとか」
「それで長庚さまは、空っぽにとおっしゃっていたのですね」
初めて教わった時のことを、再び思い出す。
あの時は、自分の中の感情で溺れそうになっていた。
今だって。種類は違えど、いっぱいいっぱいだ。望が無理矢理湿布を貼って寝かせなかったら、夜通し練習していたに違いない。
「ほら、髪を結ってやる。練習するんだろ。その間にしっかり食べとけ」
望は包子を蝋梅に押し付ける。何から何まで手厚い。
蝋梅は両手で丸いそれを更に包み込んだ。
「私、殿下がいてくださらないと、何にもできないです」
彼の前に座ると、望は後ろから抱きしめてきた。
「それは違う。一番大変なところを代わってやれないから、それ以外で何とかできることを探してるだけだ」
大事に大事に。触れる面積が増えてゆく。
「……ありがとうございます」
蝋梅は、身体を後ろに預けた。