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仕事の合間に柘榴の部屋を尋ねると、義母はゆっくりと体を起こした。それを支える女官は、見慣れぬ顔だ。
朔の顔を見て、さっと頬を染める。それを横目に、寝台脇の椅子に腰掛けた。
「何か飲めますか」
「大丈夫よ、ありがとう」
女官はちらちらと流し目を送ってくる。朔はにこやかに彼女を下がらせた。
「芥子を呼び戻せればいいのに。義母上も、体調が落ち着いてから嫁がせればよかったのではありませんか」
扉がしっかりと閉じられたのを見計らって、朔はこぼす。
「もうじき星祭だもの。それに間に合うようにって前々から言われていたのよ。嫌とは言えないわ。ああ、星祭と言えば、舞の練習、頑張ってね。楽しみにしてるわ」
にこやかな彼女とは対照的に、朔の表情は硬い。
「ええ。勿論」
答えながら、先刻凌霄花と言葉を交わした時のことを思い起こした。
百合が塔へ引き取られた後、青家で一番器量の良い彼女は、幼い頃からずっと妃候補と言われてきた。まだまだあどけない蕾だが、咲き誇ったあとの艶やかさがうかがえるよう。すれ違えば誰もが振り返らずにはいられないほどだった。
青家の王妃は事あるごとに自分のところに呼び寄せては、理由をつけて朔と会わせようとした。寵愛を得られない今、自分の進退がそれにかかっている。厚塗りの白粉の下に、必死の形相が見えた。
「第二王子殿下にあらせられては、外の花にうつつをぬかして、もはや茶会にもおいでにならないとか。こたびの呪いも、彼女が口づけで解いたとかいういかがわしい噂も広まっているようですしねえ。さぞや迷惑でいらっしゃいましょう」
扇子の向こうで愚痴をこぼす。凌霄花の次点をあてがっていたのが、触れることすらなく袖にされたのだ。怒り心頭だろう。
(本当に耳だけは早いな。いや、望がわざと蒔いたのか)
話題性のあるものは、広まるのもそれが通説として語られ始めるのも早い。だから望は、貴族の娘と会う時は徹底的に皆の前でか第三者を伴って、噂が立たないようにしていた。
「王太子殿下も、そろそろお決めになられては」
皿の上の菓子でも選ばせるように、彼女は言う。
少しばかり熱を込めて傍らの正妃候補に視線を流すと、純情なこの娘は頬を赤らめた。
「きみは僕が呪いにかかっても解いてくれるのかい」
冗談っぽく問うてみる。すると凌霄花は扇子て顔を隠した。
「まあ、お恥ずかしい」
(何が恥ずかしいんだか。突然口づけしろなんて言わないさ)
朔は心の中で毒づく。
「はは、御伽話みたいな話だけじゃないよ。埃にまみれても怪我を負っても、それでも解いてくれるのかな」
苛立ちが、つい口からこぼれ出る。あくまでも笑みを崩さずに、柔らかな声で。
意図が読めなかったようで、目の前の彼女は首を傾げる。
あの星とは違うな、と朔はため息をついた。
(心構えが違う。まあ、あるとしたらあとはあの白家の蘭くらいか。未来の王を助ける、となれば)
「何か心配事かしら。物憂げだわ」
黙りこくってしまった朔に、柘榴は声をかける。朔は我に返った。
「……義母上にはかないませんね。最近、寝覚めがよくないといいますか……夢見が良くなくて。何日か前は逆にすごくよく眠れていたんです、弟の危機なのに」
哀しげなふりをして、相談する。柘榴はその肩を優しく撫でた。
「夢を見る余裕がないくらいだったということかもしれないわ。安心して反動が来たのでしょう。こちらへいらっしゃって。小さい頃みたいに、よく眠れるおまじないをしてあげましょう」
朔はむっとした表情をした。
「もう子どもじゃないんですから。……でも、私が眠れない時は、よくそうしてくれましたね」
「ふふ、いつまでも子どもみたいなものよ。子のない私にとって、あなたは本当の子のよう」
朗らかに彼女は笑う。悪意など微塵も感じられない。心からそう思っているようだ。
「私も、そう思っていましたよ。小さい頃は本当に。でも、今は……」
望は手に入れた。望んで願って、星すらも。
(何て、羨ましい)
彼が光で全面を照らされる満月なら、自分はその輪郭がうっすら見えるかどうかの新月だ。心は夜で塗り潰した。
「私はずっと、あなたに」
塗り潰そうとした心が音になっていて、朔は口を塞ぐ。
「なあに?」
きょとんとした顔で、柘榴は目を瞬いた。
「いえ、何でもありません」
ほっとしたような惜しかったような、半々の気持ちで朔は息をついた。
執務室に戻ると、書類の山やら陳情をバリバリ片付けている望がいた。心でも入れ替えたかとからかうと、「蝋梅の修行についていきたいんだ」と書類から目を離さずに答えが返ってきた。
「虫がつくと困るからな」
「神聖な廟だろ? しかも霊峰だぞ」
朔は呆れ顔。しかし同じ顔は大真面目だ。
「霊峰にも虫はいるんだよ。山だからな」
肩をすくめて自席に座ると、望は終わった山を文官に渡した。
渡された方も戸惑っている。ずっとぐうたらで無能なふりをしてきたのだ。無理もない。
「よく諦めなかったな」
そう声をかけると、望ははにかんだような顔をした。
「まだこれからだよ。ちゃんとさ、言えたの初めてだから。まだ始まったばっかりだ。俺のせいで、あんなにボロボロにさせたし」
山を取り崩し、一番上を開いたところで、望は手を止める。
「そういえば俺、猫にされる前何か言ってたか?」
しばし逡巡したが、思い当たる節はない。
「いや、悩んでそうな感じだったけど、結局教えてはくれなかったな」
そうかと返ってくる声は小さい。
「何か女官と一緒に来てたんだろ? 兵が言ってたけど。彼女にも話を聞いてみたいんだが、誰だ?」
どうやら本当に覚えていないらしい。
「彼女はもうここにはいないよ。もともと郷里で嫁ぐ予定だった。あの後すぐに発ったよ。それに彼女には酒とつまみを用意してもらっただけで、すぐに退がった」
「そうか。その後誰も俺の部屋には来なかったし、俺も外には出なかったらしいんだ」
朔もそう報告を受けている。あの猫は塔の近くで保護されたというが、どう部屋を出てあそこまでたどり着いたのか、結論は出ていない。
「件の薬も飲んでないしな。部屋には蝋梅からもらった霊符がある。招かれざる相手から術による強襲があれば反応するようになるって、お前と来た時にも確かめてたろ。でも破れていなかった」
柘榴が去った後、部屋に仕掛けた霊符を念入りに調べていた。毎年新作霊符を誕生祝いに贈られていると聞いてドン引きしていたが、その一つだったらしい。
「兄上は大丈夫なのか? 変わったことは?」
「いや、何も」
何の気なしにかぶりを振る。
「夢見はどうだ。昔から悪いって言ってたけど」
「いや。お前こそどうなんだ」
「俺はいいくらいだよ。元に戻ってから特に。と言ってもまだ二日だけどな」
傍目にみても、望の表情は明るい。溌剌とした気がみなぎっている。
(想いが通じると、こんなにも変わるのか)
今なら変装しても見分けがつきそうだ。
小さい頃から、褒められるのは決まって朔だった。チヤホヤされて、大事にされた。老師もこぞって、やればできるのだろうにと、サボる望の愚痴をこぼした。
隠し通路で、望が盗み聞きしていることも、星守の塔で勉強していることも知らない。大人は何も知らない。
(俺が、何を考えているかも)
「あのさ、俺のこと避けてるのは知ってる。色々周りが言うのも。でも、俺は兄上から王位を奪うつもりも、脅かす気もない。これからもだ。正式に下げ渡してもらえたら、どこかの領地で二人でやっていくつもりだ。五家から妃をもらって、繋がろうって気もないし」
一瞬、目を見張る。はっきり口にされたのは初めてだが、遠慮がちにつかず離れずの距離を保っていたのは昔からだ。気づかないわけがない。朔は鼻で笑った。
「脅かす? なんのことだ。お前の評判なんて、使い物にならないってことしか聞かないぞ。もっと俺が戦々恐々とするくらいであってほしいものだな。最近のいい評判だって、色ボケしてるからだろ。いい気になるなよ」
唇を三日月に歪めて、朔は言い放つ。
「双子だからって、俺のことわかったふうな口をきかないことだな。少しも知らないくせに。お前も味わってみればいいんだ。破邪のが俺の星守になるとかな。そうしたらそのめでたい頭も少しはマシになるだろうよ」
「兄上」
甘い。反吐が出る。
何代か前に、見習いの一人が下げ渡された例がある。そんな基準が晶華の史書に書かれているのを見つけたのは、星を見つけてしばらくしてからのことだった。彼は丹念に史書だけでなく儀礼の書物もひっくり返した。
友達になるんじゃなかったのか。
朔はそう尋ねた。同じ顔は、見たことない真剣な表情で、言ってのけた。
友達じゃ足りなかったんだ、と。
史書の一文に書かれた前例は、彼のその後の原動力になった。
朔も探した。何十冊に及ぶそれを。自分の前例を。そうして見つけた。いや、見つけてしまった。
晶華を一度潰えさせかけた王の記述。無類の女好きで、臣下の妻も女官も見境なく自分のものにした王。
最後の段落には、こう書かれていた。
子は新たな星守を立てて父王を討ち、国を再興した。と。
次の項は、新たな王の項。その妃のなった人物の名は、前王妃の一人と同じだった。
希望にも、原動力にも、歴史はなりはしなかった。
「昔、夢見が悪いって言ったな。でも今は違う。手に入るんだよ、欲しいものが。だから俺にとってはただの悪夢じゃないんだ。けどそれは、他を壊す。せめて夢くらいみさせてくれ」
息苦しい。生き苦しい。父も師も臣下も妃候補も、みな理想だとほめそやす。ならなぜ少しも満たされない?
花朝節で、馬上の望を見て身震いした。
芯の通った顔だ。真っ直ぐに腕の中の人を愛しているのだと。
同じ顔なのに。
(俺は、どんな顔をしている?)
鏡に映るのは、どこか欠けている表情。
これが美しい? 理想? どこが?
(お前も同じように折れてしまえばよかったのに。俺に希望を見せるくらいなら)
入ったばかりの執務室を、朔は出てゆく。頭の片隅で、八つ当たりだとわかっていた。わかっていながら止められなかった。それが更に嫌悪感を呼ぶ。
なるべく人の少ない経路で、朔は中庭へと出た。今は誰も庭を愛でてはいない。
ひと息つくと、白家の妃の所へ行ってきたのだろう蘭が、やってきた。連れている侍女も、姿勢正しく引き締まった体をしている。蘭はその視線に気がつくと、侍女を待たせて朔の方へとやってきた。
「何を逃げていらっしゃるのですか。酷い顔ですね」
「そんなふうに見えるか」
「見えますとも。さあ剣をお取りください。槍でもかまいませんよ」
蘭は汚らわしいものでも見るように、扇子越しに朔を見やる。
「そんなことをしても、正妃にはなれないぞ」
つい、普段妃候補にする時のような他所行きの自分を忘れた。が、蘭はびくともしない。
「私はあなたに甘言を申し上げるために妃になるのではありません。そんなところで評価していただかなくて結構ですわ」
朔の胸の奥に、歪んだ気持ちがわく。
「振られてどんな気持ちだった」
「は?」
「望を目の前で掻っ攫われて、どうだったんだ?」
呆れた様子で、蘭はため息をついた。
「掻っ攫われるもなにも、あの方はずっと、彼女だけみていらっしゃったでしょう。何やら謂れのない八つ当たりをされているようですが。見苦しいですわ。さ、演習場に参りましょう」
「いや、いい。そんな気分じゃないんだ」
断るも、蘭は聞き入れない。侍女に目配せすると、ついてきていた二人は手際よく朔の両脇を固めた。そうして有無を言わさず連れて演習場へと運び込んでいった。
ほんの僅かな灯りが、ちろちろ揺らめいている。先程まで王が訪れていた時とは、打って変わって静かだ。
そんな中で檀は、そっと、この部屋の主人の傍らに佇んでいる。彼女の顔は、向こうを向いていて見えない。丁寧に手入れされた髪が、流れているのが見えるばかりだ。その流れをまなこに映しながら、檀はこぼす。
「身代わりなんて、酷なことをさせたわ。私とあなた、ひとつから生み出された、双子のような存在」
手には一輪の小さな赤い芥子の花。
「植え付けた卵は、しっかりと孵化している。良質な餌を得て、とてもよく育っているのがわかるもの。こんな吐き気のする場所で、あなたが残させてくれたもの。必ず羽化させてみせる」
檀はそっと、近くの机にそれを置く。そうして窓の向こうの星を花と同じ色の瞳で睨んだ。