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夜が明けると、例の柱が降りてきた店は野次馬に囲まれていた。
早いうちに周りを兵が固めて入れないようにはしていたが、一体何だったのか民たちには知らされていない。建物に傷ひとつなく、中から鬼の類も何も出てこないことをいいことに、騒動の原因を自らの目で見極めようとしていた。
おかげで人波をかき分けるだけでひと苦労。民を宥めながらようやく到着すると、櫟が空を見上げて慌てたように声を上げた。
「殿下、上です、上!」
馬を降りて見上げると、何か大きいものがこちらへ跳躍してくる。目をこらせば、朝日を浴びて、きらきらと輝く星冠。ここにいるはずのない姿。望は目を見張った。
「蝋梅!」
槃瓠は静かに店の前に降り立つ。ふわりと、銀色がかった水色の髪が風を含んで膨れた。
(天女だ)
きらめく水面のような眩しい容貌に、望は目を細め、手を伸ばす。
が。星守の塔の者は、祭祀以外で塔や宮殿の外には出られないはず。どうして、と問うと、彼女は淡く笑んだ。
「星守見習いではなく、第二王子妃だから、塔の外へ出ても構わないという解釈だそうです。先程の祭祀で吉と出ました」
滑るように槃瓠から下りてくるその腰のあたりに、望は手を回す。
「こんな時だけ屁理屈だな」
そうは言うものの、つい表情が緩む。
「それほど殿下を失いたくないということですよ。私も同じです」
すっかりほころんだ蕾のような笑顔だ。望は思わず身を寄せて、彼女の顔が他から見えにくいようにした。
しかし、周囲の野次馬は容赦しない。
話題の二人、しかもほとんど見たこともない星冠の持ち主に、視線が集中する。話題もすっかり光の柱から塗り替えられた。
「あれが殿下の秘蔵の花か?」
「何を話してらっしゃるのかしらね。ぴったりと寄り添って、仲睦まじくていらっしゃる」
「妃になったら、序列はどうなるの?」
「星守の塔の方が五家よりも上なんじゃないの?」
「だけど出自が貴族じゃないんだろ? 実家の援助が期待できなきゃ妾の中でも下の方だろ」
そんな噂をよそに、蝋梅は先に進み出た。
「殿下、私から離れないでください。危険があればお知らせします」
すたすた店の中に入っていこうとする彼女の前に、望は割り込む。
「蝋梅に炭鉱のカナリアのような役割はさせられない。俺が先に」
「私は殿下の護衛としてきたのです!」
何とかすり抜けようとする蝋梅を、望は正面から抱き止めた。
「俺の妃だ!」
蝋梅の頬が、朝焼けのようにさっと色づく。不意打ちだったのか、動きが止まった。
「だから、さ」
目の前の反応につられて、望も耳が熱くなる。そんな時、外野から野次が飛んだ。
「とっとと終わらせましょうよ、殿下。羨ましいことしてないでください」
「そうですよ。痴話喧嘩は犬も食わないっていうじゃないですかあ。俺だって喧嘩なら血を見ないやつがしたいですう」
「何したんだお前は」
演習場で汗を流した仲だ。割と遠慮がない。しかし。
「痴話喧嘩……?」
初めて言われた単語だ。望の周りに点描が飛び交う。
すぐさま兵からツッコミがきた。
「何で嬉しそうなんですか。入るならとっとと入ってくださいよ」
にやけそうになる表情筋を抑えながら、望は蝋梅と建物の中へと入った。
櫟から渡された小さな灯りを、望は掲げる。ゆっくりと辺りを照らしていくが、中はびっくりするほどがらんとしていた。
机やその上の小さな籠に傷がついていないのを見るに、光の柱に押し潰されてというわけではなさそうだった。
蝋梅がそっと触れてみる。しばらくして何も反応がなかったのだろう。あちこち場所を変えて星冠を光らせた。
「呪いがかかっている様子はありません。いくらか薬草がありますが、加工する道具の類がありませんね。摘んで必要ない部分を捨てた感じといいますか……」
「ああ。それに個人につながりそうなものがない。生活感がないよな。まあ、神に生活感も何もないけどさ」
それでも、部屋の隅に蜘蛛の巣が張られていたりはしない。それをいいことに、この星守見習いは遠慮なく、あちこち戸棚に頭を突っ込んで隅々まで調べた。
望はそのすぐ後ろで、手綱をつけたくてたまらない顔でそれを見守っている。罠だったらどうするとか、汚れるだとか、髪が引っかかるだとか、ひとつひとつにはらはらさせられる。
ひとしきり探り終わると、念入りに蝋梅の服をはたき、髪を整えた。
「我々は過去を探ることはできませんから、そこが歯がゆいところですね」
(やつは昨日、ここで何をしていた? いや、もしかして何もしていなかったのか? だとしたら。戦力を測るため? 目をそらすため?)
蝋梅が槃瓠を呼ぶと、芝犬ほどの大きさに小型化した槃瓠がテテテと入ってきた。元の飼い主が可愛がるのも頷ける見てくれだ。
頭を撫でて「匂いはどうだ」と尋ねると、こちらもあちこち匂いを嗅いで回った。椅子のあたりを入念に嗅いでいたが、やがて首をひねる。
「……私の会った檀とよく似ています。しかしどこか違います。言うなれば双子のようなものでしょうか。それからまったく関係のない匂いもします。嗅いだことのない、色気のある匂いといいましょうか」
入り口のところで兵の一人が、美女か! と何か受信した顔で椅子を舐め回すように見る。魅了術にかかりそうな彼をよそに、望は独りごつ。
「協力者か複数犯か……」
「本体と眷属かもしれません。私のような」
望はいささかむっとした顔で、蝋梅の腰を抱いて引き寄せる。口を塞ぐと、耳元で低く囁いた。
「お前は俺の妃だ」
腕の中で、身体が震えるのがわかった。声は、うまく望の手のひらで押しとどめられる。真っ赤になりながら、恨みがましそうな目を向けてくる蝋梅に、望は続けた。
「わかったか?」
星神によって植えつけられた意識だ。そう簡単には変えられない。
それでも、彼女が共に生きたいと、願いを持ってくれたように、上書きできるはず。蝋梅は手のひらの中で、小さく頷いた。
店から出ると、もう日は高かった。思わず手をかざす。その向こうは宮殿が見えるわけでもなく、近隣の店や家があるだけだ。
今は、拝みながら一心に祈りの文句を唱えている老婆がいた。霊符を握りしめて様子をうかがう者も。
不安、畏怖。それらを払拭するために祈りが捧げられている。
(自分の縄張りを荒らされてなお、北斗星君以外が手を出さないのはこれか?)
つい望の表情が険しくなる。
「殿下、私は殿下をお送りした後、紫霞山は天公廟へ向かいます」
「護衛は」
「星神の本拠地までは乗り込んで来ないでしょう。それより殿下が心配です。槃瓠が戻り次第護衛しますから、それまでは兵と行動を共になさってください」
脳裏に北斗星君の姿が浮かぶ。我が巫と、蝋梅を呼ぶ姿が。大事な巫を、みすみす敵の手に渡すことはないだろう。が。
(それはそれで癪だな)
「俺も仕事が片付いたら合流する。無茶はするなよ」
聞かないだろうなと思いながら、唇に親指を這わせる。聞かない顔で、彼女は淡く笑んだ。