69
陽が沈んだのはもう随分前だ。灯りを惜しむ者であれば、もう眠りについているであろう頃。
どこよりも星に近くあれと、高く積み上げられた塔の最上階。そこには星守の私室があった。見習いたちよりも何倍も広い。その中央で、大輪の牡丹が静かに佇んでいた。
部屋に灯された灯りはほんの僅か。月や星の明かりが窓から差し込んでいるのがしっかりと見てとれた。そのほの灯りたちは、床にびっしりと描かれた陣を照らし出す。それは天球の星々を写し取ったようだった。
名簿でも読み上げるように、星守は星の名前を読み上げてゆく。それに呼応するかのように、陣は輝き始めた。
「我が後見は天頂の星。星の中の帝。綺羅星よ、我が足元で廻れ」
厳かにそう告げると、陣は浮き上がり、言葉通り廻り始める。
「逃すな、その不浄を。辿れ、境界を侵す悪意を。捉え、そして浄化せよ。星々より注ぐ輝きで!」
回転が早くなる。遥か遠くの空が、ぱっと強く光った。それで終わりではない。その奥から、光の柱が勢いよく降りてきた。
真っすぐな稲妻のようなそれは、対象を捉え地に到達すると、衝撃から轟音を辺りに響かせた。それこそ落雷のように。
しかし雷と違って、眩いそれはすぐには消えない。相手を塵も残さず殲滅させんと降り注ぎ続けた。
柱の中央では、人の形をしたものが叫び声を上げながらもがき苦しんでいる。その体からは、めらめらと炎のようなものが上がっていた。
「許さない、許さない、許さない! こんなところで、屈したりはしない!」
喉が張り裂けんばかりの絶叫。声は届かずとも、その必死の抵抗は手ごたえとして星守に届く。逆に光の柱を通じて呪わんと、昇ってくる怨嗟の焔が。
星守はいっそう力を込める。呪いの根源までも照らし出さんと。
星は遠く彼方にあり、見える光は僅かだ。けれど本当は、夜闇などかき消せるほどに強い。星冠は、媒介となってそれを証明する。
焔は次第に勢いを失い、押し戻されてゆく。しかしそれでも体は炉となって、恨みを、怒りを燃料に燃え続ける。
星守は踏みしめる足に力を込めた。部屋中に描かれた陣が、輝きを増す。
(蓮、私は約束を――)
もっともっと深淵まで。皆を苦しめた呪いの最奥へ。
押しつぶされながら、恨みの炎は涙する。
「絶対に許さない! 嘆き絶望しながらその生を終わらせてやる! 私と同じ苦しみを……」
その怨念すらも残すまいと、星守も力を振り絞った。相手は存在を変質させたとはいえ、元は神だ。一介の人間が簡単に叶うものではない。
「そなたの好きにはさせぬ! 私にも譲れぬものがある!」
光の柱は、最後のひと押しとばかりに炎を押しつぶす。呪いと化していた体は、灰ひとつ残さずかき消された。
柱の内部が光で満たされ、抵抗がなくなったところで、柱はようやく天上へ引き上げていった。
「何だったんだ、今の」
欄干から身を乗り出すようにして、望と蝋梅は目を凝らす。宮殿の外だろう。今はもう消えたが、少し前まで、真っ直ぐな光の線が、空から地上を刺しているのが見えていた。
「何かとてつもなく強い波動がしましたが……嫌な感じはしませんでした。これは、おそらく星神さまのものです」
星冠をきらめかせて、蝋梅はほんの少し未来を読む。
「小さな店、でしょうか。建物自体は大きく損壊していないようですね……。私の剣と同じ類であれば、何か祓ったのでしょうか。この座標、殿下が地図で印をつけていらっしゃったところです。他よりも大きく」
望は目を見張る。
「例の惚れ薬を売っていた店だな。おそらく兵も向かっているだろうが、俺も様子を見てくる」
おろした髪に頬を寄せて、望は部屋へ上衣を取りに戻る。
「槃瓠、殿下の護衛に……槃瓠?」
蝋梅が呼びかけるも、暗闇ばかりでいつもならすぐ返ってくる返事も姿もなかった。
階下がどうも騒がしい。離れているとはいえ、全ての星の力を借りた荒技は、星冠に何らかの影響を与えたらしい。今宵の計画を知る者は限られているというのに、光の柱が、と話す声が聞こえた。
対応は前星守に任せてある。牡丹は、座り込んだまま床の陣をなぞる。墨で床に書いているのを菊花に見られた時は、たいそう驚かれたものだった。しかし。
(相手は神であったもの。慎重に慎重を重ねて然るべき)
こんな大がかりな術を使ったのは、晶華始まって以来だ。
(それにしても喉が渇いた)
我慢しきれなくなって立ち上がろうとすると、遠慮がちに名を呼ぶ声がした。
「戻ったか」
そう返すと、なるべく音を立てぬよう、ゆっくりと扉が開かれた。そこには、朧月のように霞んだ姿。廊下には行儀よく槃瓠がお座りしていた。こちらもうっすら色づく程度の見え具合だ。ふわふわした耳が、ぴくぴく動く。
「我が主に呼ばれています。下がってもよろしいですか」
ああ、と牡丹は頷いた。
「もし、あすこに行こうとしているなら、心配はないと伝えてやれ」
「は」
巨体からは想像もつかないほど静かに、槃瓠は跳躍する。それを見送って、菊花は扉を閉めた。
「ちょうどよいところへ帰ってきたの。喉が渇いておったところじゃ」
言うと、相手はむっとした顔をしつつも茶の支度を始める。その背に、首尾はどうじゃった、と問うた。
「綺麗さっぱりなくなったよ。あの猫の怪しい薬、役に立ったな」
後で飲めるようにとあらかじめ入れておいた茶は、いい具合に冷めている。二人分用意して持って行くと、牡丹はゆっくり椅子に腰掛けたところだった。
いつもはぴんとしている背筋を崩して、背もたれにもたれる。ひと口、ふた口飲むと、窓の外を見ながら口を開いた。
「……菊花、あれはおそらくすべてではない」
「何だと?」
菊花は声を荒げた。対して星守は、静けさを湛えたまま。
「最奥を探ろうと進んでいったのじゃ。しかし、あれはどこを探れど呪い呪い呪い。呪いの塊で肉付けられた、人形にすぎん。魂魄に当たるものがない。しかも、本体との接続はぶつりと切られておった。さすがは神であったもの、一筋縄ではいかんの」
空で星は、何事もなかったかのようにちらちらと輝いている。騒がしいのは、地上の人間の営みばかり。
宮殿でも、兵たちが慌ただしく集まってきている。大事だと王が判断すれば、真夜中でも吉凶を問いに来るだろう。王にすら、今回のことは伏せていたのだ。
「ひとまずは休め。私は陛下に報告に行こう。ここから先は私の仕事だ」
茶杯を空にすると、星守補佐は勢いよく立ち上がった。その横顔は頼もしい。ずっと、そうやって支えてきてくれた。だから、星のことだけ考えてこれた。
部屋は再び牡丹ひとりになる。その星冠が、僅かにちかりと光った。
「頼むぞ」
そうひとりごつ声は、今にも消え入りそうだった。
真夜中だというのに、宮殿には灯りが皓々と焚かれている。宮殿だから、不夜城となっているわけではない。有事だからだ。玉座に王がやってくると、報告が飛び交う。
町中に光の柱が降りてきたと騒ぎになっていること。兵が調査と民の慰撫に向かっていること。第二王子が指揮をとっていること。矢継ぎ早にそれらを受けると、王は最後のひとつに片眉を跳ね上げた。
「指揮は別のものにさせよ。初動であれが出向くまでもあるまい」
「既に兵を従えて、向かわれていらっしゃいます」
王は深く息を吐いた。全て終わってからと言ったのは自分だ。自身だが。頬杖をつき、手で口元を隠しながら王は小さく呼ぶ。
「檀」
それに応じて、玉座の影から返事が聞こえる。
「光の柱とは何だ。雷とも様子が違うようだが」
「あれほどの規模であれば、神鳴に匹敵する神の力を借りたものでしょう」
王にだけ聞こえるような抑えた声で、彼女は告げる。
「神によるものではなく?」
「神であれば、あれほど局地的で恣意的なものではありません。洪水や地震。そういった天災になるでしょう」
なるほど、と心の中で頷いたところで、新たな兵が鎧を鳴らして進み出た。素早く拱手して、星守の塔より星守補佐がお越しですと告げる。
「通せ」
言い終わらぬうちに、飽くほど見た顔が現れる。常にいかめしい顔をした星守補佐だ。昼間と同じように髪をぴっちりと結っている。まだ休んではいないようだった。
手を上げると、中にいた者は速やかに退室し、窓や扉はぴったりと閉められた。
「此度は吉凶が出たのか? 事前の星読見には映らなかったようだが」
苦虫を噛み潰したように尋ねると、補佐は微かに眉根を寄せた。
「あれは星守さまによるものでございます。此度の騒ぎの根源を滅すべく星神さまの力をお借りし、消滅を確認しました」
補佐の表情も声音も淡々としたものだ。晴れやかさはない。王は続きを促した。
「極秘裏に、また独断で行ったことゆえ、事前にお知らせいたしませんでした」
(内通者を疑われておるということか。無理もない。内部の者でなくば、望に術をかけることなどできぬ)
こつこつと、王は指で肘掛けを叩いた。
「……星守補佐よ。現地の調査に第二王子が向かった。第二王子妃の助力は要請可能か」
星守補佐の眉間の皺が深くなる。
「相手はまだ完全に殲滅していません。解決してからの正式決定とうかがっておりますが。彼女は宮殿の道具ではありません」
声も視線もとげとげしい。王も不本意さを隠さずに返した。
「わかっておるだろうに。解決せずに祝いの席は設けられぬ。それに、儀礼だの領地の整備だの、せねばならぬことや決めねばならぬことは山ほどある。そちらはもう指示を出せば動き出す」
「途中で反故にすることも容易いでしょう。まだ書面ではなく口約束です。外へ出せば人目にもつきます。そうなってからでは彼女を塔へ戻せません」
王がやや大きめな声で呼ぶと、側仕えの者がうやうやしく書類を捧げ持ってきた。星守補佐はそれに目を通す。
星守に吉凶を問う依頼文と、これから出される王からの通達だ。既に印が押されている。
「そちらが吉と出れば、もうこの決定は覆らぬ。背に腹はかえられんのだ。あの娘なら、本気であれを守るだろう。それを嘘だと思うほど、わしの目は濁ってはいない」
隠しきれないほどの不機嫌さが、声に出る。星守補佐は、細工がないか書類をあらためていたが、やがて依頼文を手に下がっていった。
(蓮がいれば、こうはならなかっただろうか)
自分も、王子たちも、星守も。
彼女を亡くし、空中分解していく自分たち。相手は違えど、頑なに大切なものを抱え込もうとしている。王にもその気持ちはわかっていた。
次第に空は群青へと青みを増してゆく。星守補佐が去った後の扉の向こうにそれが見えて、王は目を伏せた。