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人払いされた広間は、足音がよく響く。身なりを整えて玉座の前に進み出ると、礼をした。
「よくぞ戻った。無事で何よりだ」
深々と腰掛けていた王は、大仰に声をかける。が、傍らに立てかけていた宝剣を手にするとおもむろに立ち上がった。一段また一段と段差を下りてくる。
「それにしても、猫の姿に変えられていたとはな。本物なのだろうな?」
すらりと鞘から剣が抜かれる。剣先は望の喉元に突きつけられた。玉座の隣にいた柘榴が、息をのむ。
しかし望は、微動だにしなかった。静かに王を見上げている。
「虚言ということもある。戻った経緯も不明だと言うではないか」
獣の唸り声のような声だ。それでも望は顔色ひとつ変えず、剣を掴んでずらした。剣にも手にも、何の変化もない。
「確かに、他の者たちについてはまったくの不明です。しかし私の解呪に関しては、しっかりと理由があります」
王から視線を奥へやる。その先の柘榴が、不思議そうに首を傾げた。
「妃殿下、あなたはおっしゃいましたね。異国の物語に、変身した王子の呪いを姫君がキスで解いたものがあると」
「あら、聞いていたの?」
ええ、と微かに笑みすら浮かべて望は返す。
「愛は、とてつもない力を発揮するのでしょう?」
「そうね、確かに言ったわ。そして、その通りになったということね」
嬉しそうに柘榴は頬に手をあてた。
「私はしっかり報告しましたが、報告書を作成した者がにわかには信じられなかったのかもしれませんね。あるいは、陛下が信じてくださっていないか」
再び父王へと目を戻すも、こちらは険しいままだった。
「わしに牙を剥いた痴れ者。あの黒猫がそなたか」
「はい。陛下のお言葉、しかと覚えております。彼女はきちんと約束を果たしたのです」
眉間の皺が、いっそう深く刻まれる。
「何と情けないことよ。宮殿の守りも、猫にされてしまうお前自身も」
そう吐き捨てると、乱暴に剣を納め、背を向けた。
「退がれ。今日はよく休むように」
もう用は済んだとでもいうようなそれに、望は食いさがる。
「お待ちください陛下。失敗すれば刑に処すとまでおっしゃったのに、成功したら何もないなど王のなさることではありません。だいたい先の私への褒美もまだですが」
王の歩みは止まらない。玉座にもたれるようにして、どっかと座りなおす、その眼差しは厳しい。
「呪いの件にしてもご再考いただけませんか。陛下が冒されているということは、晶華が冒されているも同じ。早々に祓うべきです」
「わしがそなたたちのように伏せっているように見えるか。玉座には輝きもあれば闇もある。そこには怨嗟も混じろう。それすらも御さずしてなんとする。要らぬ心配だ」
睨み合う両者。
「まあまあ、二人とも」
それまで成り行きを見守っていた柘榴が、割って入った。
「殿下、落ち着いてくださいまし。陛下はずっと心配なさっていたのです。檻の中の虎のようにぐるぐると。呪いも、陛下の徳で従えていらっしゃるのでしょう。薬師すら呼び寄せることがないのですから。ここは様子をみては」
柘榴はやんわり微笑んでみせる。そうして次に王の方へ体を向けた。穏やかな声で続ける。
「ですが陛下、殿下のお話も一理ありますわ。これだけの手柄を立てて何もないのでは、人心が離れましょう」
王は黙って聞いていた。頬杖をついてはいるが、にべもなかった望の時に比べれば、聞く耳を持っている。しばし何かを逡巡していたが、厳かに口を開いた。
「首謀者は捕えられていないのだろう。すべて終わってからだ。それに下げ渡しにはひととおり儀礼も必要だし、あれは俗世のことを知らんだろうから、教育もせねばならん」
「まあ、陛下。それなら早速教育係を集めましょう。明日からきていただいたら?」
明るい表情で、柘榴は提案する。妃自ら集めてくれるのはありがたいが、彼女には天公廟での先約があった。あまり事情は詳らかにしたくない。
「いいえ、陛下のおっしゃるとおり一刻も早く、事態を収束させます」
そう告げると、望は足早にその場を後にした。
「修行、とな」
「はい。星守補佐に相談をしたいのです」
星守補佐の代理として現れた茉莉花は、珍しいものでもみるように、上から下まで蝋梅を眺める。今までも見てきただろうにと蝋梅は首を傾げた。望が元に戻ったと報告している間もずっと、何か観察されているようだった。
「二人とも今忙しい。日を改めよ。そなたが今すべきことは、休むこと。無理に修行を急いでも、体がついてこん」
早く戻れと言わんばかりに、茉莉花は手で追い払う。
天公廟は宮殿から離れた紫霞山にある、星神の廟だ。かつて晶華を建国した王はそこで祈りを捧げ、巫を通じて星神から力を与えられたのだという。晶華にとっては重要な場所、なおかつ祭祀を行う場ではあるが、それでも塔の外であれば許可がいる。
(さすがに何日も無断で抜けられないしな。今日は言われた通り休んでよう)
廊下を風が吹き抜けると、ふわりよく知った匂いが鼻をくすぐる。
(まだ殿下に包まれてるみたい)
蝋梅は腕を抱く。
(匂いが一緒になるって、こういうことなのかな)
これまで意識してこなかったが、今になってその重大さがわかる。昨夜の望の様子が頭に浮かんできて、蝋梅は大きくかぶりを振った。思い出しただけで、顔が赤くなってきそうだ。
そこへ、しゃなりしゃなりと白猫が手すりの上を器用に歩いてきた。蝋梅を見つけるなり、表情を崩す。
「おやおや、いい香りをさせてまあ」
ニヤニヤという表現が似合いそうな笑みだ。猫の嗅覚には、何か違いがわかるものなのか。その後から水仙が小走りにかけ寄ってくる。良かった、と安堵の息と共に抱きしめた。
「もー、銀華から目処が立ちそうだから、蝋梅に任せろって言われた時はびっくりしたけど、とりあえず良かったわ」
「ありがとう、水仙。金華猫」
蝋梅は微笑む。どういたしましてと、水仙は微笑み返した。が、体を離すと、それまでとは打って変わって、表情を曇らせる。
「話は変わるんだけど、百合がここのところ調子が悪いみたいなのよ。様子を見に行かない?」
望のことに一生懸命で、そういえば彼女の姿を見ていなかった。
二人と一匹は、百合の部屋を訪ねる。扉を叩くも、返事はなかった。呼びかけても応答はない。
「もしかして、倒れて……」
水仙は青くなる。
「ごめん百合」
蝋梅は勢いよく扉を開けた。部屋の中は、しんと静まり返っている。見渡してみると、具合が悪かったというわりには、片付けでもした後のように整っていた。寝台ももぬけの殻。床に倒れていないかひととおり見て、水仙は首を傾げた。
「ねえ水仙、何だか甘い匂いがしない?」
香炉の近くで、聞き慣れぬ香りに蝋梅は足を止める。百合は、どちらかと言えば品のある柔らかな香りを好んだ。が、僅かに残るそれは、媚びるような甘さがある。
「そうね」
彼女にしては、歯切れの悪い答えだ。蝋梅は目を瞬いた。
あちこち探していると、階段を上がってきた見習いの少女からようやく証言を得た。
「百合ならさっき、身を清めに行くって言ってたわよ。やけに嬉しそうだったけど、何かあった?」
「何かしら」
二人と一匹は顔を見合わせる。そこへ、別の声がかかった。
「蝋梅、具合はどうだ?」
「殿下!」
声を聞くだけで、胸の奥に温かいものが宿る。振り返ると、小さな包みを抱えた望が手を振っていた。
「さすがに今日はゆっくりしろって言われたからさ。報告だけざっと聞いてきたんだ。お菓子持ってきたから、ダラダラしようぜ」
いつものように返事をしようとして。蝋梅は頬のあたりに熱がこもるのを感じた。
(あれ?)
「お元気そうで何よりですねええ。まあ、猫の姿にされていたとはいえ、ずっと腕の中にいたんですから、さぞやいい気分だったでしょうねえ。ああ、湯あみにも連れていかれたんでしたっけ」
「う、うるさいな」
慇懃無礼な白猫を、望はねめつける。が、隣の様子がおかしいのに気づいて顔を覗き込んだ。
「どうした?」
「いえ……」
思わず蝋梅は目を逸らす。
「熱か? 無理させたから……」
顔の熱はしっかり色づいて、外からでもわかるものになっていたらしい。何の気なしに、望は蝋梅の額に手をやる。
「そうではなくてですね」
蝋梅は慌てて袖で顔を隠した。しかし熱は頬ばかりでなく、耳まで勢力を拡大している。もう誤魔化しようがない。蝋梅は観念した。
「……どんな顔をしていたらいいのか、わからなくなってしまいまして」
外野から盛大なため息がふたつ。そうしてそのうちのひとつを吐き出した水仙は、蝋梅の背中を押した。押し出された先は、望の腕の中。
「続きは部屋でどうぞ。見てらんないわ」
呆れた様子で、一人と一匹は去ってゆく。袖の陰からそれを見送っていると、今度は望に背中を押された。
「いつまでもそのままじゃ困るなあ」
ずりずりと連れて行かれた先は、蝋梅の部屋。望はいつものように椅子に腰を降ろす。蝋梅も、いつものように茶をいれてと頭では考えるものの、沸騰寸前のヤカンのように顔は沸き立ったまま。
「心頭滅却心頭滅却やっぱり私も頭を冷やしに」
行きます、と言いかけたところで、ぐいと腕を引かれる。今度は、望の膝の上に座らされた格好だ。後ろから抱きしめられるようにして、ぴたりと身体がつけられる。
「これならどうだ? いや顔は見たいんだけどさ、妥協点」
耳元で声がする。その近さと声の良さに、腰が砕けそうになった。
「蝋梅」
囁かれるたび、身体が小刻みにわななく。
「愛してる」
ダメ押しの一手に、蝋梅は涙目になった。
「あの、刺激が強すぎて」
お手柔らかに。しかし望は攻勢を緩めない。
「ずっと、伝えたかった。こうしたかった」
このままでは蕩けてしまいそう。
(これではいけません。腑抜けては殿下がお守りできない。私は殿下の剣たらねば。二度と呪いの餌食にさせてはならないのです)
蝋梅は必死に自身を律する。脳内で煩悩を千切っては投げ、千切っては投げ。甘い死体が積み上がってゆく。
「そ、そういえば下手人は思い出せたのですか」
何とか別の話を振ると、望はそちらに乗ってきた。
「いや、残念ながらまったく。夜の記憶がぶっつり消えてるんだ。兄上と話したことすら覚えてない」
「でも、宮殿からは出ていらっしゃらないのですから、相手はやすやすと入り込めているということですよね。結界用の霊符にも何の反応もなかったとか」
望は言いにくそうに、間を置く。
「そのことなんだけどな、更新するように言われていた霊符が、そのまま処分されていたらしい」
最後の煩悩を張り倒した蝋梅は、望の顔が見えるよう、横向きに座り直した。
「そんな、自ら守りを捨てるなど、下策です」
望も渋い顔で続ける。
「各個人では持ってるみたいだけどな。行方不明者のこともあってかなり不安が広がってる。だから、今年の星祭は、久しぶりに降星の舞を奉納することになりそうだ」
「降星の舞、ですか?」
首を傾げると、さらりと銀色がかった水色の髪が肩を滑る。
「ああ。晶華の建国の時に、星神から巫である妃を通じて、王が力を授かった故事を舞にしたものらしいんだ。伝統的に、王か王子とその妃が対になって舞う」
「では陛下が?」
「いや。兄上と――」
「――凌霄花が?」
よく知った名だ。百合は目を見開く。
「ええ。噂になってるわよ。百合の妹さんでしょう。次代の正妃もやっと決まったってところかしら。鼻が高いわね」
他愛もない世間話のつもりで、先輩見習いは話す。百合はぎゅっと着替えの入った籠を抱いた。
「……ええ」
(あの子が)
覚えているのは、塔に来る前の幼い姿。自分が正妃になるのだと、無邪気に笑っていた。
(あの子が正妃で、私が星守。家にとっては、これ以上のことはないわ。そう願われてここへ来た)
なりたいのは、ただの星守ではない。彼のでなければ意味がない。他に替えようのない存在。けれど。
部屋に戻ると、百合はそれまで纏っていた服を足元に落とす。
とびきりの香、お気に入りの服、自慢の簪。とっておきの紅で唇を彩って。
星守の塔にいる限り、華美な装いは必要ない。求められているのは星を読み、導くこと。でも、本当は。
「ああ、なんて甘い香り」
頭の中が、痺れるみたい。